6月


【展覧会】「バルテュス展」(東京都美術館)
 
バルテュスといえば、私にとっては「シャトー・ムートン・ロートシルト1993年」のラベルを描いた画家、というのがどうしても最初に来るので、その2年前の1991年のラベルを描いた日本人、セツコ・バルテュスとセットで憶えていたのでした。1995年にいきなり値段が上がる(といっても近年と比べると随分とリーズナブル)前の、毎年のようにムートンが買えた頃の親しみのあるラベル群であったりするし、何より1993年ラベルは、アメリカ向けに少女のヌードデッサンのない無地のラベルが同時に発売されて、やれサンフランシスコの消費者団体の抗議によるものだとか、やれ2種類のボトルをコレクターに買わせる作戦だったとか、色々バルテュスの芸術性とは関係ないところで話題になった点で強く記憶に残りました。
 絵としては、オーソドックスでありながら独特の叙情性を備えたセツコ・バルテュスのテンペラ画に比べ、鉛筆によるラフ・スケッチに過ぎないバルテュスのラベルは、正直それほどインパクトがあるとは思えませんでした。その意味では、今回の展覧会で、「ピカソをして『20世紀最後の巨匠』と言わしめた画家の回顧展」と紹介されているのを見て、いやいや20世紀最後の巨匠はピカソその人でしょう、と思いつつも、これはやはり原画を見ておかねばと考えた次第であります。
 代表作全てを網羅した回顧展、ではありませんでしたが、バルテュスの作品の流れのようなものは体感できたような気がしました。「『嵐が丘』のための14の挿画」は、諸星大二郎の描く人物そっくりで、逆に原点はここか、と思わず納得してしまいました。諸星大二郎の作品群は、考え抜かれた物語の中で駒として配置される登場人物達の硬質なイメージが印象的で、たとえ登場人物達が怒りに打ち震えていても、それを描く作者の冷めた視線がしっかりと感じられるのですが、バルテュスの作品群も、その意味では決して対象にのめり込まないどこか硬質な雰囲気が感じられるのです。きわどいポーズを描いていても、そこには少しの官能性も感じられない…というより、むしろ官能性を含めて冷静に分析・観察した結果としての作品がそこにある、という印象なのです。


◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ戻る。


◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉作品集紹介」のコーナーへ。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。
◆「短編小説」のコーナーへ。