11月


【映画】「君の名は」(監督:新海誠)
 
 本年の映画は庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」で決まりと思ったら、新海誠監督の「君の名は」が逆転して首位を独走しているそうです。ちなみに「ゴジラ」が公開された1954年度、興行成績首位は「ゴジラ」でも「七人の侍」でもなく「君の名は・第三部」だったのだとか。ゴールデンウイーク公開の「君の名は」に対して11月公開の「ゴジラ」は不利だが、それにしても60年経って同じタイトルの映画で勝負しているのかと思うと感慨深いと言うべきか嗜好が変わっていないと思うべきか…。  恋愛や家族愛など下手するとハリウッドですらいまだに定番のパターンを排除して新味を出した「シン・ゴジラ」に対して、「君の名は」はベタベタの恋愛物。放射能・原発問題と政治風刺を真っ向から取り上げた点で原点回帰だった「シン・ゴジラ」に対し、常に遠距離恋愛を描き続ける新海氏の「君の名は」も、冒頭のナレーションで「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」というセリフを流したというラジオドラマの「君の名は」のテーマをそのまま引き継いだ原点回帰の物語だったとも言えます。

 今回の「君の名は」の成功は、既に「転校生」や「秘密」などの映像作品で繰り返し使われてきた「人格入れ替わり」の面白さを前面に宣伝しておきながら、実際に鑑賞してみると、そのドタバタ劇は物語前半でかなり簡略化されていて、むしろその入れ替わり現象がたった一ヶ月続いた後唐突に終わってしまうところにあったように思います。いぶかしんだ片割れが相手を尋ねようとして、相手が既に「死んでいる」ことに気付くあたりから、物語は急転直下、冒頭の夜空を駆け巡る美しい彗星群は、全く違った意味合いで登場人物にのしかかってくる…。相手を救うためには、時を遡り過去を変えなくてはならない。しかし過去が変わってしまえば、歴史そのものが変わってしまうが故に元の記憶は消え去ってしまう。避けられない喪失を運命づけられた登場人物は、それでも最後まであがき、あきらめようとはしない…。

 新海誠監督が最初に「ほしのこえ」でデビューした時は、たった一人で30分のアニメーションを造り上げたことで非常に話題になったのでよく覚えているのですが、何よりもその内容は、「遠距離恋愛」といういかにもベタなネタをベースにしながら、それが火星、太陽系外、銀河系外へと離れていく者が必死に相手にメールを送り、その到達時間が一年、そして八年と長くなっていくという、シンプルでしかも絶望的な、いわく言い難いシチュエーションを描いていました。この作品が発表された2002年当時、携帯メールはまだ新しかったわけで、それ以前の、例えば「新世紀エヴァンゲリオン」では公衆電話が使われていたくらいなのです。しかし、どこかデジタルで杓子定規な印象のある、簡易式の連絡ツールでしかなかったメールが、互いに触れ合うことも、面と向かって話すこともできない相手をつなぐ唯一の手段として、これほど効果的に使われた例はそれまでにありませんでした。

 思えば新海氏の作品は、そのほとんど全ての作品が、簡単に触れ合うことができない二人の人間の物語を描いています。「ほしのこえ」の登場人物二人は数光年隔てた空間をメールだけで会話する。「秒速5センチメートル」の登場人物二人も、「言の葉の庭」の登場人物二人も、触れ合う瞬間の描写はほんのわずかで、常に離れた距離にいる。そして今回の「君の名は」も、登場人物の二人は、入れ替わりの際に相手の肉体を文字通り自由にしているにも関わらず、物語の最後まで殆ど互いに触れ合うことはない…。

 この作品の小説版には、新海誠氏が自らノベライズした「君の名は」と、加納新太氏がノベライズした「ANOTHER SIDE: EARTHBOUND」があるのですが、後者の第三章にはこんなセリフがあります。一葉が孫の四葉へこう語ります。
「言葉は、人と人とを結ぶ。言葉は神様そのものではないけれども、言葉によって結ばれた気持ちは、神様なんや。」

 言葉は神様ではない…言葉に霊が宿ると考えたからこそ、言霊(ことだま)という日本語があり、それ故にこそ日本語には他の言語以上に奥ゆかしさや歯がゆさがある…そう漠然と考えていた身には、この言葉はどこか新鮮で、でもとても説得力があるように感じました。メールの文字も、あなたの名前も、それそのものはもしかしたら記号に過ぎない…しかしそれによって気持ちが結ばれていることは確かにある。結ばれた気持ちこそが珠玉の存在なのだけれど、私たちは光の速さで飛び交うメールの文字にすがりつき、それを知ったからと言って何が変わるわけでもなくても、相手の名前を確かめ合わないわけにはいかない。気持ちを繋げるための…というより、それに至るまでの「結び」を求めて、私たちは言葉を、呼ぶための名前を、あったはずの記憶を探している…。

 新海誠氏にとって、「君の名は」は確かに「集大成」というべき作品には違いありません。この作品には過去の作品群からの引用がちりばめられています。スマホの中から過去の記録が文字化けして消えてしまうシーンは、「ほしのこえ」でノイズに阻まれて正確に全てが伝わらないメールのもどかしさに通じているし、主人公二人が一瞬だけ触れ合って周囲の世界が一気に切り替わるシーンは、「雲の向こう、約束の場所」にも登場します。道ですれ違い、そして振り向くラストシーンは、「秒速5センチメートル」のラストとまさに表裏一体の関係にあるし、ぐるりと円形を描く崖の向こうにある彼岸の世界へと降りていくシーンは、「星を追う子供」のシーンと重なるし…。そして「言の葉の庭」の主人公の一人雪野百香里が登場するシーンは、単にゲスト出演以上の意味合いを持っています。新海氏は常に、離れていながら結びつきを求める二人の関係という、同じテーマを描き続けているのです。

 それでいて、今回の作品が今までのものと全く印象が異なるのは、これまでの新海作品の登場人物たちが、時に感情を爆発させながらも、結局は運命に流されつつ常にどこか報われない寂しげな表情をたたえていたのに対し、今回の主人公二人は、あくまで最初から最後まで前向きで表情豊かであったこと。考えようによっては、今回の作品のラストは本当にハッピーエンドだったのか疑問に思うのです。何しろ肝心の記憶は取り戻せないままなのだから。言葉が交わせたからといって、名前を確かめ合ったからといって、その後は? と問いただしたくなる気も…。しかし、あえてこの作品では、登場人物は孤立せず、次への繋がりの可能性が残されているのです。今までの新海作品の登場人物のように、私はここにいると一人呟きながら伝わらずに終わるのではなく、そして振り返れば相手がいるかも知れないと夢想して、それが文字通り夢想に終わるのではなく、内に秘めた感情を吐露しながらもそれがそれきりで終わるのでもなく…現実的には違いないけれど、観るのがつらい存在ではなく、どこか非現実で夢見がちでありながら、まさしく応援したくなるようなキャラクターとなっているところが、逆にある意味新鮮でした。最初は甘い、わざとらしい、計算されていると思ったりもしたのですが、あらためて思い返してみると、このどこかはっきりした結論の下されない、曖昧な、それでいてゆるぎない、確信に満ちたハッピーエンドに、作者の優しい眼差しを感じるのです。


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