8月


【映画】「シン・ゴジラ」(監督:庵野秀明)
 
導入部は一見、1954年の最初の映画『ゴジラ』と同様に始まる。無人のボートを捜査中に海から大量の水蒸気が噴出、相次ぐ異変が続く中、巨大生物の存在を疑う矢口の発言が一笑された矢先に、海上に出現した巨大な生物の尾の動画がネットに流れる。政府の対応が後手後手に回る中、ついに巨大生物は上陸する。
 上陸した巨大生物は、サカナのような眼をした頭の小さい怪物で、腕もなくひたすら這いずり回る。何だこれは? とパンフレットのゴジラの姿を頭に描いていた観客は拍子抜けする。なんか顔も愛嬌があるし、身体もそれほど大きくないし、これは何者? 放射能の影響でゴジラではない別の奴が先に現れたってことかしら? もしかしたらこいつはアンギラス? それともメガヌロンみたいにゴジラの餌になるとか? やがて巨大生物は動きを止め、二足歩行へと変態する。射撃命令が出された直後に逃げ遅れた避難民の姿が発見され、そのまま攻撃を受けることなく海に逃れた巨大生物は、さらに一回り大きく成長して戻ってくる。自衛隊の攻撃は歯が立たず、米国の爆撃機の攻撃を受けた巨大生物は、放射能を含む熱線をまき散らす。
 会議と法律に縛られて「前例のない事態」に全く対応できない政府や、マスクをした人々がたむろする被災地の様子など、東日本大震災を彷彿とさせる描写にはうならざるを得ないし、攻撃が裏目に出て、身体から絞り出すように熱線を放出するゴジラには、今までにはない、被爆したが故に異形となり、生きる限り苦しみ続ける生物としての存在感がある。

  特に庵野監督の作品群を追ってきた者達にとっては、まさにこの作品は、ある意味彼の作品の集大成と言っても良いほど、過去の作品と繋がりがある。あるいは『風の谷のナウシカ』の巨神兵。奇しくもその名に「神」の名を持つ被創造物は、腐りかけた身体から肉片を垂らしながら這い回る。これは原作にはない描写だったが、アニメ映画版では庵野監督が動画を担当し、まさにナウシカと王蟲の蜜月をぶっ飛ばしてしまうくらいのインパクトがあった。そして、その傷ついた肉体から突如として発せられる、全てを焼き尽くす業火の炎。「世界が焼き尽くされるはずだ」の台詞通り、まさにこれは、人を滅ぼすべくひねり出された熱線だった。あるいは、『エヴァンゲリオン』の使徒。シンジは呻く。「天使の名を持つ……僕らの敵……」 そう、使徒は英語名が「angel」。そして「ゴジラ」の英語名は「Godzilla」。庵野監督が創作する以前から、その名に究極の天使と言っても良い、「God(神)」の名を持っているのだ。庵野監督が、決して自らこの作品を望んだ訳ではないことを考えると、なおさら深い因縁を感じざるを得ない。使徒達は人間を襲うが、それはまさに相同の遺伝子を持つ生命体の、生存を賭けたアプローチだった。『エヴァンゲリオン』第一話の、水辺から迫り、攻撃を覚悟でそれをものともせず上陸する使徒は、まさに今回上陸する異生命体としてのゴジラと重なるのである。「通常兵器では役に立たんよ……」まさに、「神」の名を持つが故に、巨神兵も使徒も、ゴジラも最初から人間の抵抗を受け付けないことを前提にしていた。
 人間を滅ぼすために人間自らが造り出した巨神兵、人間と生き残りを賭けて争うことを運命付けられた使徒……彼らはある意味「ゴジラ」というキャラクター、人間自らが発生原因となり、人間共を滅ぼすべく降臨する存在から派生したモンスターであったが、今回の『シン・ゴジラ』で、その2つが再び融合したかのようなインパクトを感じ、我々は熱狂したとも言える。ハリウッドのゴジラにも、平成以後のゴジラにも感じられなかった強烈な衝撃。それは、あり得る巨大生物としての存在理由を無理矢理見つけようとして失敗してきた先人達に対して、人類を俯瞰して初めて納得できる物語設定を作り出せたことに基づいている。ハリウッドで製作された、ローランド・エミリッヒの『ゴジラ』は、巨大化した恐竜そのままの体型で、ミサイルごときであっさりと爆死し、ギャレス・エドワーズの『ゴジラ』は、放射能をエネルギーとする怪獣の対決となったために、冒頭の「反核」メッセージが後半フェイドアウトしてしまっている。その意味では、単なる原点回帰ではない、痛めつけられ、苦しめられる不死なる完全生命体としての今回の『シン・ゴジラ』の設定に破綻はない。まさに「新・ゴジラ」であり、そして「神・ゴジラ」なのである。

  一方でどうしても旧作と比べてしまうと、芹沢博士のいない『ゴジラ』であり、シンジやレイのいない『エヴァンゲリオン』である、という印象がぬぐえないのである。1954年の『ゴジラ』では被災地での子供の泣き声と、自らを犠牲にして破壊兵器を封印する芹沢博士の存在が際立っていた。ガイガーカウンターが幼児の身体から発せられる放射能に反応し、親の死を受け入れられない子供らが泣き叫ぶ様を見て、山根博士の娘恵美子は芹沢を説得してこの悲劇を断ち切ろうとする。戦争体験を引きずる芹沢は、間違いなく大量破壊兵器に使用されるに違いない、開発に成功したばかりのオキシジェン・デストロイヤーの使用を拒絶し続けるが、賛美歌の調べに誘われるかのように、自らが死ぬことによって、ゴジラと共に自らの知識を封印することを決意する。今観返すと、その心理的な駆け引きは、あまりに短い時間の中で描写されていて逆に驚くほどだが、そこには単に「反核」にとどまらない、未来を奪われた周囲の人間の悲劇を自ら受け止め、憎悪の感情なしに死を覚悟して厄災と立ち向かう人々の姿があった。
 今回の『シン・ゴジラ』には、本当の意味で痛めつけられた人間たち、自らの生死を賭けて事態を変えようとする人間たちの描写に欠けている気がする。あるいは使徒との戦闘の最前線に立たされ、恐怖し、それを克服しようとするシンジや、気持ちを殺さざるを得ないレイなど、こちらが感情移入したくなるような登場人物が足りないように感じるのだ。使徒に対峙するネルフの人々と政府との軋轢、それに相当する描写はあるけれど、本当に血を流し、涙を流した人たちはどこに? 内閣官房副長官も、米国大統領特使も、頭を抱えながらも号令を発し、交渉を進めて、寝ないで職務を全うしました、というのは分かるのだが、事が終わって、将来お互い大統領と首相になりましょうか、いやいやそういうわけにもねとか会話されても白けるだけである。 冒頭、会議ばかりしていて対処が追いつかない場面は、いかにも「前例のない異常事態」を「他人事」としてしか扱えない集団の歯がゆさが非常に的確に表現されていた。それだけに、放射能の熱線を浴びせられ、寿命を削られた人間達が、同じく放射能に身を焼かれているゴジラと、まさに他人事ではなく、自らの肉体に刻まれた傷をさらしながら、むき出しの状態で向き合った時、もっと鳥肌が立つようなドラマが生まれてもおかしくはなかっただろう。当てにしていた「政治組織」が、そして「軍事組織」が、見事に敗北し蹴散らされた後に、かろうじて怒り狂う不死の生命を沈め、活動を停止させるものは、別に「個人の尊い犠牲」などである必要はないかも知れないが、もっとある意味泥臭い、ひ弱な存在としての小生物の、涙と汗にまみれたあがきのようなものであって欲しかったと思うのは贅沢だろうか。

【補記】 
 1作目の『ゴジラ』で、「水棲爬虫類から陸上哺乳類への進化の過程にあった中間型の生物」と説明されている関係から、ゴジラは爬虫類系の巨大生物として説明されてきました。確か平成ゴジラには放射能を受ける元となった肉食恐竜「ゴジラザウルス」が登場しているし、実際にゴジラにちなんで「ゴジラサウルス」と名付けられたコエロフィシス科の恐竜もいるわけで…。しかし本来円谷英二は巨大タコの映画を作ろうとしたとも伝えられており、なにも恐竜のイメージにこだわる必要はない訳です。
 今回のゴジラは、パンフレットでは第一形態がオタマジャクシ状の海洋生物で、第二形態がラブカ(羅鱶)に近いイメージでデザインされたと説明されています。ラブカはカグラザメ目ラブカ科に属する、ウナギのような身体をした深海に生息するサメで、トカゲザメ(lizard shark)とも呼ばれ、無胎盤性胎生で、3年半の妊娠期間を持つそうです。サメは卵を産むものもあれば、胎盤に相当するものを持つものもあり、中には単為生殖を行うものもいるとされ、非常にバリエーションの豊かな生態を持っています。太古の時代から生息し続けてきた強靱な生命力があり、それ故に放射能被爆を生き延び、ゴジラへと変態する生物として、ある意味深海のサメは、恐竜以上にふさわしいのかも知れないと思った次第です。


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