5月


【展覧会】東京都美術館・ブリューゲル「バベルの塔」展
「彼らは1つの民で、皆1つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降っていって、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 天まで届く塔として建設が始められたバベルの塔は、もともとはバビロンのジッグラドが伝説化されたものらしいが、旧約聖書の「創世記」による記載によれば、神話のバベルの塔は、人が単一言語を持っているが故に神が怖れるほど強力であったことの証のようにも受け取られる。
 そこで思い起こされたのが、近年刊行されて話題になったイスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによる著作「サピエンス全史」。その中でハラリ氏は、集団で活動できることが、ホモ・サピエンスが力で勝る他の動物を圧倒できた理由であると述べている。
「もし何千頭ものチンパンジーを天安門広場やウォール街、ヴァチカン宮殿、国連本部に集めようとしたら、大混乱になる。それとは対照的に、サピエンスはそうした場所に何千という単位でしばしば集まる。私たちとチンパンジーとの真の違いは、多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ。」
 
 ブリューゲルの「バベルの塔」が来日したのは24年ぶりとのことで、確かその24年前の展覧会でもこの傑作を直に目にしているのだが、ブリューゲルの諸作品の中で必ずしも自分の中では最高傑作とは考えていなかったこの作品が、どこか奇妙な迫力を持っていることにあらためて気付かされた。きわめて独創的な、数々の奇妙な姿をした怪物達が所狭しと画面の中を駆け回る「悪女フリート」「死の勝利」と比べて、人間の姿が米粒大に縮小され、生き物の描写が殆ど見られない「バベルの塔」は、凄いとは思うものの何度も観返す作品ではなかったわけだが、パノラマ的な世界の描写を極限まで追求した結果、あらゆる人物を点での表現にとどめておきながら、そこに自然の壮大さだけでなく、しっかりと人の営みの産物である異様に巨大な建造物を描ききることで、風景画とも静物画ともつかない不思議な世界を造りあげている。1作目の「バベルの塔」の左下に描かれていたニムロデ王達の姿が、この2作目では現れていないのもある意味頷ける。

 ブリューゲルはこの作品で、傲慢な人間のうぬぼれを弾劾したのか、それとも協力し合うことで壮大な建築を可能とした人間の素晴らしさを描こうとしたのか…。展覧会で上映されたビデオの解説では、むしろ後者ではないかとほのめかしているのだが、果たしてそうだろうか。ブリューゲルは農民の生活を描くときも、想像上の静物を描くときも、対象への愛情と批判とを常に合わせ持っていたように感じるからだ。人間の可能性へ想いを馳せると同時に、その愚かさを弾劾する。その二面性を持っているからこそ、ブリューゲルの絵画はいつの時代でも褪せない魅力を持っている。

 バベルの塔について、展覧会のビデオのような発言がなされるのも分からないでもない。今の時代、各国で反グローバルへの動きが活発となり、世界が1つの言語、1つの方向性へまとまるのではなく、むしろ自ら拡散しようとしている様は、まさにバベルの塔を放棄して各地へと去っていった神話上の民族の姿と重なっている。神は人が力を持つことを怖れてその言葉を攪乱したが、今人は自ら統一から背を向けて、より小さい集団へと散らばって行こうとしている。これが歴史の必然なのか、自然の摂理なのかは分からないが、壮麗な無類の建築物を造る能力は失われる運命にある、ということを我々はあまり素直に認めたくないのかも知れない。


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