1月


【映画】アリ・アッバシ監督「ボーダー/二つの世界」
 冒頭から登場する、税関勤務の女性の主人公ティーナは、どこか人間離れした、動物的な顔立ちをしていて、違法な物を持ち込む人間を何と「嗅覚」で判別している。ここら辺の説明は一切なく、どうやら森の近くの家に普通の男と住んでいて、父親は半分呆け始めていて施設にいるらしいなど、はじまりでは淡々と彼女の日常が綴られる。そこにいきなり、虫を妙な容器に入れて持ち込む男ヴォーレが登場、その男の容貌はどこか主人公と似ていて動物的で、主人公は税関で彼を怪しいと嗅ぎ分けて取り調べさせるが、何も怪しい物は所持していない代わりに、どう見ても男性なのに男性器を持っていないことが分かる。彼女はこのどう見ても怪しいヴォーレにどこか共感を覚え、ついには自宅近くに住まわせてしまうのだが……。
 冒頭から不穏な空気を醸し出しながら、最初の二、三十分は、この無表情な主人公が何をどうするのか、話がどこへ向かうのか一向に雰囲気が掴めず、観る者は戸惑いを覚えるはず。そして、次第にティーナは、ヴォーレの影響なのか、徐々に精神的にも肉体的にも変貌していき、促されるまま昆虫を口にしたり、裸で野山を走り回ったり……そして遂に、染色体異常の結果と思っていた自分は、別の「種族」すなわち「トロール」であり、お尻の傷は尻尾のあった跡であることを知る。「怪しい男ヴォーレ」は、実は同じ種族の雌であることが分かり、彼女も一度はそちらの世界へ行くことを決心するのだが、そのヴォーレは、自ら育たない「未受精乳幼児」を産み落としつつ、密かに人類への復讐を画策していた……。
 丁度NHKの特番「百分で名著」で「ナショナリズム」が取り上げられ、漫画家のヤマザキ・マリ氏が安部公房の「方舟さくら丸」などを紹介していたのだが、そこで興味を惹かれたのが、個を殺して共同体の中に自ら溶け込むのかといった議論。お互いを個として差異を認め合いながら共存することはできないのか、といった問いから始まり、ナショナリズムは同質化を最優先して個を見放すことになると話は進む。それではまずいと個を尊重し、「私」という存在を最大限認めようとすると、同類に依存せずに閉鎖系の中で生きる一部の昆虫のような生き方を目指さざるを得ず、集団的な動物であるヒトは行き詰まってしまう。自分の中では「自分」が全てだが、属する集団の中で「自分」は最優先されない。この堂々巡りが人を苦しめるが、確かに自己を殺して集団に埋没した方が「楽」な選択ではある。それが例え自らに本当の「死」を強要するものであったとしても。
 タイトルの「ボーダー」は、すなわち「二つの世界」の「境界線」であり、ヒトとは異なる種族にいながらヒトの中で暮らし、境界の間に位置してその行き来を制限する「通関」に勤めている主人公の不安定な、割り切れない、しかしだからこそこちらに訴えかけてくる強い心情そのものを表現しているのである。彼女は人間の赤子を犠牲にしているヴォーレを拒絶するが、一方で昆虫食に没頭し、最後にはヴォーレの「贈り物」を受け入れる。彼女はヒトの領域からも、トロールの領域からも距離を置きながら最終的にはどちらにも属することなく、その境界線の中にしっかりと立ち続けることを選ぶのだ。
 この映画では、警察による犯罪捜査や税関での荷物検査などの現実的で日常的なシーンと、未受精卵の赤子という超現実的な非日常のシーンが同居しているところが魅力なのだが、主人公のティーナも、異種族としての別の名を持ち、その日常と非日常の世界の境界線に立つ者として、ヒトとトロールの両方の資質を併せ持つ者として描かれる。世界が何らかの形で二つ三つに「分かれて」いるのが当たり前とされ、いずれかの領域に属することを求められる環境の中で、我々は果たして、その両方の領域を認めながら、しっかりと境界線に立っていることができるだろうか? 


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