5月


【書籍】萩尾望都「一度きりの大泉の話」

 萩尾望都竹宮惠子といえば、「花の24年組」、すなわち昭和24年頃に生まれた、「綿の国星」の大島弓子「日出処の天子」の山岸凉子「エロイカより愛をこめて」の青池保子等々の錚々たる女流漫画家達の代表格として並び称される存在です。24年組の作家達は、SFやホラーや同性愛などの要素を少女漫画界に持ち込み新風を巻き起こしたことで知られていますが、特に萩尾作品と竹宮作品は、少年誌にも話題作を提供してくれていたこともあって、かなり早い段階から親しんでいたように思います。

 最初の出会いはおそらく竹宮惠子「地球へ……」だったと思います。手塚治虫「火の鳥」が連載されている朝日ソノラマ「月刊マンガ少年」で、高橋葉介や御厨さとみといった個性的な作家のSFやホラー・ファンタジーの作品と同じタイミングで出会ったSF長編作品でした。丁度ソノラマの大判の単行本が「火の鳥」と同じスタイルで刊行され、少女漫画の細く繊細な線で描かれた骨太の大河ドラマに夢中になったのを覚えています。
 後に萩尾作品である短編「あそび玉」を読んで、迫害される超能力者の子供が地球(テラ)へと送られるというストーリーは、そのまま竹宮作品にリライトされていると感じたものの、それはあくまで、主人公であるショミー・マーキス・シンが、ソルジャー・ブルーに誘われて迫害される超能力者ミュウ達の指導者となることを決意する導入部である第一部の話であって、むしろ自分にとってのこの作品の真骨頂は第二部以後にありました。人工子宮で育てられ、最初から体制側に立たされることを運命付けられているキース・アニアンと、機械による支配を全身全霊で拒絶するセキ・レイ・シロエの対立は、やがて超能力者でありながらキースの傍らに立ち続けるジョナ・マッカと、どこか冷笑的でありながら運命を受け入れきれずに苦しむトオニィとの対決へとなだれ込み、物語は地球の管理体制の崩壊というクライマックスに向けて、怒濤のごとく突き進んでいきます。それは「火の鳥・未来編」で描かれた、コンピュータによる支配を受け入れてしまった人類の破滅と再生の物語を、人間の側からよりドラマチックに描き直したもののように思われました。「火の鳥・未来編」のロックは、チューブから生まれたマザーコンピューターの側に立つ体制側の人間として、「バンパイヤ」の間久部緑郎同様魅力的な悪役として描かれていますが、同じ立ち位置のキースは、友人だったサムや部下となったマッカの死を簡単に割り切ることの出来ない悩めるもう一人の主人公として、より強い印象を残しています。そしてエピローグ、偶然出会った少年少女が、遙か昔の地球での戦いと崩壊の記憶を共有していたことを知り、そしてその壮大なクライマックスの風景がパノラマのように展開される……まさに長編マンガでしか味わえないめくるめくようなラストシーンでした。
 ちなみに、1980年4月に公開された恩地日出夫監督の映画も観に行きましたが、内容を詰め込みきれず、なおかつデザインや設定を無理に変えたりしていて、作品への敬意がないとここまで作品は違った物になってしまうものなのだなあと子供心に恐ろしく感じたものです。その点「鬼滅の刃」の映画版などは、原作にない場面も多少は加えてあるものの、無理な設定の変更やセリフの改変もないところが、何だかんだ言っても好感が持てました。

 萩尾望都作品との出会いはその少し後、小学館文庫で白土三平の「忍者武芸帳」「サスケ」などの作品が刊行され、漫画とは若干雰囲気の異なるリアルなイラストが表紙となっていたことが逆に新鮮で、色々と続けざまに立ち読みなどしているうちに、「11人いる!」「トーマの心臓」「11月のギムナジウム」等の作品群に出会ったと記憶しています。手元にある文庫版「トーマの心臓」の奥付を見ると、初版が1980年11月とあるから、やはり少し遅れてのタイミングでした。

 「11人いる!」などは、とにかく見事に完成されたSFミステリー短編だなあという印象でした。宇宙大学の入学試験で宇宙船に閉じ込められた受験生達だが、10人しかいないはずの宇宙船の中に11人の学生がいる。この中に一人余計な人間が紛れ込んでいて陰謀を企てているのではないか……疑心暗鬼の中、船内では次々と予期せぬトラブルが……。しっかりとミステリ的にオチが着くわけですが、魅力的な登場人物達の物語は続編「東の地平・西の永遠」へと引き継がれていく。この作品を読んだのは実際に発表された1975年よりもずっと後のことでしたが、その後1983年頃から小学館より白い表紙の「萩尾望都全集・2期」の刊行が始まり、「半神」「A-A'」「エッグ・スタンド」「メッシュ」「銀の三角」「偽王」といった珠玉の作品群を夢中になって読むことになったわけです。「ポーの一族」「百億の昼と千億の夜」「スターレッド」などは、むしろその後から知ったほど。

 そんな読書歴のせいか、どうしても萩尾望都は短編・プロットの人、竹宮惠子は長編・キャラクターの人、ネタはかなりかぶるが、先行しているのは萩尾作品、という印象を持っています。竹宮作品の「風と木の詩」にしても「地球へ……」にしても、プロットや設定は萩尾望都の方が先に作品化したところを辿っているように見えるけれど、この二つの長編のダイナミックな展開や、印象的なキャラクター達の対話、そして強い余韻を残すクライマックスは、竹宮作品独自のテイストだと思うし、それは「ファラオの墓」やその他の作品群にも通じる魅力だと思うのです。怒涛のごとく物語は突き進み、読み終わった後には頭の中に壮大なパノラマが浮かび上がり、登場人物達が悲劇的な最期を迎えたとしても、ある意味心地良い余韻を感じることができるのです。

 対する萩尾作品の物語は、そういう意味での「大団円」を迎えることはあまりありません。むしろクライマックスは物語の冒頭にあると言っても良いかも。「ポーの一族」の主人公エドガーも、「メッシュ」の主人公メッシュも、延々と彷徨っていて、彼らの物語は決して作品の中でも終わってはいません。「銀の三角」「残酷な神」も、物語の幕は下りたけれど話が終わったようには感じられないのです。クライマックスを迎えて、エピローグの余韻に浸る……そういうドラマツルギーを、そもそも萩尾作品は拒絶しているようにすら思えます。終わらない物語の中の一場面を切り取って提示したかのように見えるからこそ、珠玉の傑作短編はより強い印象を残します。「半神」にしても「エッグスタンド」にしても、読み終わった後にどうして?どうして?と自問自答が頭の中でぐるぐると回り続けるような感覚に囚われてしまうのです。現在「ポーの一族」は40年ぶりに続きが描かれていますが、まさに数百年の時を生きるエドガーの物語は、終わらないストーリーだからこそ描き続けられるわけで、その意味ではその気になれば、「メッシュ」も「残酷な神が支配する」も続編は可能なはずです。

 竹宮惠子著「少年の名はジルベール」と、萩尾望都著「一度きりの大泉の話」を読み比べた時、まさに両作家の作品を見ているような感覚にとらわれました。「少年の名はジルベール」は、まさに過去の様々な出来事を後から振り返るような形で、いかに「風と木の詩」という自分のライフワークを企画として立ち上げるかに苦心し、それを乗り越えたかを語っているのです。その中で、大泉で生活を共にした萩尾望都に対して、「彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった」と語った上で、「『ありがとう』を捧げたい」と締め括っています。そこには、「地球へ……」や「風の木の詩」の、物語がクライマックスを迎え、壮大なパノラマが展開した後で、それをエピローグのくだりでもう一度振り返るような、過去を俯瞰し懐かしむような視点があります。一方「一度きりの大泉の話」では、萩尾望都は「竹宮先生は苦しんでいた。私が苦しめていた」と書いた上で、「思い出したくないのです。忘れて封印しておきたいのです」と繰り返しています。そこには、アランを失い「帰ろう、遠い過去へ……もう明日へは行かない」とつぶやいたエドガーの、あるいは長い物語の終幕間際で「忘れてもいいってこのごろは思えるんだ。どうせ12月にはまとめて思い出すんだから」と語るジェルミの眼差しを感じます。萩尾作品の登場人物にとって、過去は決して俯瞰して懐かしむような類のものではなく、もっと生々しくて切実なものとして、現実や未来と並立する存在となっているように思われるのです。

 まあ簡単に言うと、竹宮先生が萩尾先生の才能に驚異を感じて、距離を置きたいと感じてそうした、萩尾先生はそれを一方的な拒絶と受け止めた。そして、まあ色々あったけど終わったことですから、と言っている竹宮先生に対し、いやいや終わりなんてないし、と萩尾先生が返している……そんな風に受け取ったのですが、それはそのまま両先生の代表作の語り口そのもののように感じられました。

 竹宮先生は大学の名誉教授になられたようですが、魅力的なキャラクターの作り方とか、物語の書き進め方とか、それなりに自分の方法論を教えてくれそう。萩尾先生は今も作品を描き続けていらっしゃいますが、教えを乞うたら、あなたの物語に私があれこれ言えるわけないでしょう、とあっさり返されそうですね。

【映画】堀貴秀「JUNK HEAD」

 殆ど一人で7年掛けて作り上げたという、ストップモーション・パペットアニメーション長編映画です。古くはレイ・ハリーハウゼンの人形アニメに始まり、グロテスクな雰囲気に溢れたシュヴァンクマイエルクエイ・ブラザーズの作品から、川本喜八郎のクラシックな作品、そしてコミカルな「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」「ウォレスとグルミット」の作品まで、パペット・アニメーションと聞いただけでどうしても反応してしまうのでした。近年のピクサー作品やディズニー作品も悪くはないけれど、やはり昔ならではのあのどこか無機質でぎこちない動きに魅せられてしまうのであります。

 今回の「JUNK HEAD」も、監督本人は「シリアスなストーリーは難しそうなのでコメディー寄りに」などとコメントしているものの、目を持たない地下に棲む異形の生命体が縦横無尽に動き回り血を流す本作はやはりシュヴァンクマイエルやクエイ・ブラザーズの流れを組む独特のグロテスクさを備えています。肌色をした目がなく人間のような唇と食肉動物の歯を突き出して歩き回る生き物たちは、H. R. ギーカーのエイリアンやチェストバスターを思わせるデザインで、大画面を動き回るだけでワクワクしてしまいます。

 人類が自ら地下開発のために生みだした人工生命体マリガンが反乱を起こし、それが鎮圧され、人類は地表に近い地下に、さらに深い地下世界はマリガンが支配。ウィルスによる遺伝子崩壊を無機質化によって克服した人類は、生殖能力を失いつつも不死に近い寿命を獲得するが、再びウィルスによって存続の危機を迎える。そんな中クローンでしか増殖できないはずのマリガンが、独自の変異を遂げて生殖能力を獲得したという情報を得た人類は、その調査のために軽い気持ちで志願した主人公のパートンを地下へと送り込むが、マリガンに撃ち落とされ物語の冒頭で自らの身体を失ってしまう。以後パートンは、たびたび記憶と身体を失いながらも地下世界をさまよい続ける……。

 培養された肉体から生えている突起が鮮度の高い食料として売買され、普通にうろついていても補食動物に食べられてしまう世界といい、キャラクター達のセリフは全てその世界の言葉なのでわざわざ字幕が流れるという何とも凝った仕掛けといい、良い物を見せてもらったという感想ではあるのですが、物語が途中でいきなり終わってしまったのには驚きました。ええっ、これ「つづく……」なの? 7年かけて第1話? パンフレットを見ると、何の説明もなく「2343年 JUNK WORLD」「3385年 JUNK HEAD」「3440年 JUNK END」とあるので、今作は三部作の真ん中ってこと? でも今回の話も生命の木を見つけるための旅の途中で終わっているのだけれど、その次はいきなり60年後? 次のクラウド・ファンディングがうまくいったらもう7年後に続編が観られるのかも知れませんが、うーん……。 

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