1月

【小説】牧野修「スウィート・リトル・ベイビー」
 
児童虐待の電話相談をしていた主人公が巻き込まれる異様な事件。殺人が行われ、そこには必ず身元不明の幼児の死体があるという……。
 この物語である登場人物によって語られる新しい形の「異形の物」の設定はかなり魅力的で、とても私の趣味に合いました。「人は何故幼児を虐待するのか」という問いに、ある種の答えを用意しているからです。すなわち人類は自分の種を守るために、「児童虐待」の能力を身につけた、という仮説を提示して見せるのです。
 なぜこういう逆説的な仮定が成り立つかということに興味を持った方は、本書を読んで頂くのが一番かも。
 果たして親は、本当の意味で子に対する愛情を持っているのか。人間はあまりにもそれを美化していないか……本編には「耳の聞こえない親鳥」の挿話があります。耳の聞こえない親鳥は、自分の産んだ雛の声を聞くことができないので、餌をやるどころか攻撃を仕掛けるといいます。その一方で、カッコウに托卵された鳥が自分の雛とは似ても似つかない雛に餌を運ぶのも有名な話。無条件な愛情は、実際にはものすごく記号的な、機械的な反応に寄り掛かっている……哺乳動物では、いわゆる幼児図式、丸い目鼻立ちや危うげな動作が母系本能に訴えかけてくるという性質が知られていますが、これにしたって良く考えれば随分と簡単で機械的な反応です。
 人間は自らの精神を複雑で計り知れないものと考えたがる傾向がありますが、実際にはかなり機械的な、シンプルな仕組みで成り立っているのではないでしょうか。
 しかし、欲を言えばこれだけ魅力的な設定があるのであれば、もっと規模の大きい話へと展開してくれても良かったかも知れません。児童虐待が広く世界的な、そして歴史的に見ても普遍的な問題を抱えていることを思えば、ちょっと町内だけの騒動に収めてしまっているのがもったいないような気もします。


【小説】グレッグ・イーガン「宇宙消失」
 
2034年、夜空から星が消えた……太陽系全体を包むバブルの出現。病室から消失した一人の女性を追っていた主人公は、量子力学の命題「シュレディンガーの猫」にまつわる人類の恐るべき性質を見出すに至る……。
 この物語の離れ業は、かなり突拍子もない物に思えるので、なかなかコメントの難しいSFですね。情けないことに、量子力学も実は良く分からないし。むしろナノマシンに人格を改変させたり、「モッド」の働きで亡き妻と会話する主人公のあやふやな自己の描写あたりに興味を惹かれたんですが、この辺のくだりはSFファンにとっては目新しいものではないらしく、「冒頭のサスペンスタッチは退屈」とかコメントされていたりします。う〜む、SF的教養がまだ貧しいのかな。
 「ここには平凡な日常がある……」という主人公のセリフで締めくくられる結末は、かなり大見得を切った物語のラストとしては少々大人しい気もします。

【映画】リュック・ベッソン「ジャンヌ・ダルク」
 
英仏百年戦争の末期にオルレアンの解放とシャルル七世の戴冠という功績を残しながら、異端として火刑に処せられた少女の物語。処刑されたキリスト同様、矛盾に満ちた短い生涯だったわけで、命がけで国を守った代償が拷問と火あぶりではあんまりという気もするし、「汝の敵を愛せ」と言った筈の神のお告げが戦争に勝つことというのもなんかなあという気がします。
 以前にイングリッド・バーグマンの「ジャンヌ・ダルク」の映画をテレビで観たことがありますが、「戦え〜!」と兵士達を鼓舞して、いざ勝利した後戦場の惨状を見て「なんてひどいことを」と涙を流す、というくだりにどうしてもしっくり来ない物を感じました。今回の映画も、やはりそういった自己矛盾的な部分をなぞってはいるのですが、うまくジャンヌの神憑り、狂的な部分を幻想的に描くことによってバランスを取っているようです。聖女と言うよりはヒステリックで頑迷でかなり生々しさを感じさせる、という意味でミラ・ジョヴォヴィッチはかなり迫真の演技。処女かどうかを確かめられる場面とか、拷問で男達に蹴り飛ばされるなんて場面とかもあり、あえて人形的な印象を残していた「フィフス・エレメント」とは違って、画面の向こうからこちらを恨めしく睨み付ける目なんかは結構コワかったです。それ以外のメンバーは逆におとなしめに見えたな。「ドーベルマン」のヴァンサン・カッセルもジル・ド・レイといういわくつきの役を演じているにもかかわらず今一つ印象が薄い。「レオン」にゲーリー・オールドマン演じる強力な敵役がいたことを思えば、シャルル七世にしたってもっと毒々しいキャラクターで描いても良かったような気がします。
 華々しい戦場での活躍というよりは、姉が陵辱され惨殺される物語の冒頭から、ラスト近く、殴る蹴るの拷問を受け火刑に処せされるまで、ただひたすら「かわいそすぎ」のストーリー。「ニキータ」「レオン」「フィフス・エレメント」と続くベッソンお得意の「戦うけなげな女達」の系譜に繋がっているとは思うのですが(なんと四作品ともヒロインの「落下」シーンがある、というのが象徴的)、これまでのヒロイン達がそれなりに心許せるパートナーを持っていたのに対し、ジャンヌは常に孤立し、ひたすら裏切られ続け、ダスティン・ホフマン演じる自らの「良心」の化身にすら責めたてられる。繊細な精神を持った主人公が救いのない殺し合いの場へと飛び込む、その危うさがベッソン作品の魅力ではあるのですが……この作品を観た人の殆どは、何とも後味悪く映画館を後にしたのでは……。
 パンフレットには「今から500年以上も前の17歳の少女のこの姿勢は、現在を生きる若者や女性達にとって、励ましとなるに違いない」って書かれていたけど、ジャンヌの末路を思うとあんまり励ましにはならないと思うぞ。


【映画】大島渚「御法度GOHATTO」
 司馬遼太郎「新撰組血風録」
「前髪の惣三郎」「三条蹟乱刃」を原作とした大島渚13年ぶりの監督作品であります。
 誉める人いわく、初期の大島渚の映像美学を復活させた傑作、なのだそうですが、気まずいことに「戦場のクリスマス」ですら満足に観ていない私は(この間テレビ録画したので、せめて前もって観直しておくべきでしたが……)、良く分からないのでした。
 坂本龍一の音楽は素晴らしいし、色彩感覚溢れる映像も見応え充分です。高校一年生の松田龍平も、正直な話役者としてうまいのかどうか、「美男過ぎた」と言われるほどかは良く分からないのですが、存在感があって意外と良かったです。うまくセリフを省いて、目つきだけで演技させたのは正解でしょう。
 ある種の「魔」を描きたいという意図は分かるのですが、「戦場で死と向かい合う時、エロティシズムが生まれる」というパンフでの監督の言葉をもっとひしひしと観客に伝えるためには、当時の新撰組の置かれていた緊迫した雰囲気がもっと細かく描かれていても良かったような気がします。何かみんな暇そうなんだもの。池田屋事件(1864年)の後、鳥羽伏見の変(1868年)の前、という狭間の期間を舞台にしたのは、今一つ成功だったのかどうか。従来のイメージをぶち壊したい、という姿勢は評価できますが、松田君演じる惣三郎だけが殺気だっている一方で、他の人達はあんまりにも緊迫感が足りないぞ。


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