4月

【小説】トマス・ハリス「ハンニバル(上・下)」
 「羊たちの沈黙」
に続くトマス・ハリスのレクター博士三部作の新刊。
 出典は忘れてしまったが、現代の猟奇殺人を解説した本の中で、「羊たちの沈黙」に対して批判的な意見を述べていた箇所があった。曰く、「レクター博士のような知性と殺人衝動を合わせ持った犯罪者など存在しない。猟奇殺人者は自らの衝動を理性的に抑えることができず、愚かなミスを繰り返す」。なるほど実際に逮捕された猟奇殺人者の多くは、レクターとは似ても似つかない異常者だったと思うし、ワシントン大学からスタンフォード大学に転学したというテッド・バンディにしても、その実態はポルノグラフィに囲まれて生きた感情爆発型の人間で、ワインとクラシックを愛しいかなる苦痛にも耐えられる鋼のような自制心を持ったレクターとは比較しにくい。しかし逆に考えれば、バンディが20人以上を殺すまで処刑されなかったことを考えれば、もっと「うまくやれる」人間がまんまと法の目をかいくぐって無事でいることだって充分あり得るような気もする。檻の中へ封じ込めることの出来るのはよりレベルの低い犯罪者だけ、というのが実情なのかも知れない。
 「レッド・ドラゴン」と「羊たちの沈黙」があくまでFBIと猟奇殺人者という「善」「悪」……というより「社会」「反社会」という構図を持っていたのに対し、「ハンニバル」のスタイルはあくまで「悪」対「悪」。ここではもはや前作の真理の追及者クロフォードやクラリスは殆ど舞台裏に押しやられていて、既にその輝きを失っている。「ハンニバル」において執拗に描かれるFBIの内部腐敗のくだりは、トマス・ハリス自身がAP通信のエディターの経験があり、「FBI心理分析官」の著者ロバート・レスラーの協力を得て前二作を書いたことを思うとかなり説得力があり、クラリスの挫折はそのままハリスの現代の法社会に対する絶望を反映しているような気がする。新作では従ってFBIの活躍は一切描かれてはいない。主人公はあくまで「何事にも動じない」卓越した犯罪者レクター博士であり、彼に対して復讐を誓う寝たきりの会社経営者メイスンとそれに同調する捜査官パッツィや監察次官補クレンドラーとの戦いだけが物語の主眼となっている。
 孤児院の子供らを泣かせてその涙を混ぜたマティーニを楽しむメイスンは、自分を半殺しにしたレクターを生きながら豚達に喰わせることを夢見ている。メイスンが生来のサディストであり、他者に感情移入できない冷酷な「亡者」であるのに対し、レクターは自らの愛する妹が兵隊達に殺され喰われたことをきっかけとして犯罪者へと転じた人間であり、殺す相手は自らを狙う者か、自らが嫌悪感を抱く人間に限られている場合が多い。あくまで自分自身の肉体の破壊に対して復讐心を抱く者と、失われた他者に対して喪失感を埋められずにいる者。殺人に対して抵抗感を抱かないメイスンとレクターの二人を隔てているのはまさにこの点についてのみであり、子供に持参したランチを奪われて戸惑うレクターも、いざとなれば逃亡する時に無関係の警官を惨殺し、利用されただけのスリの男を絶命させることに何の躊躇も抱かないわけで、本書では殆どヒーローとして描かれているとはいえ、決して安心できる相手ではない。それでも彼が悩めるグレアムやクラリスに代わって主人公を務めざるを得なかったのは、社会や組織に絶望したハリスが、妹が惨殺されたことに対して世界に潜む悪意を見出さざるを得なかったレクターの魂、そういった人の心情しかもはや信じられないと考えたからのような気がする。自分の野心や自分の欲望しか拠り所に出来なかった者達は敗北し、他者を見放すことの出来なかった者達だけが安らぎを得る……この新作は見たところそんな構図になっているが、登場人物達を取りまく環境は依然緊張をはらんだままで、決して後味の良いものとは言えない。
 「ハンニバル」はアンソニー・ホプキンズが再びレクター博士を演じることによって、リドリー・スコット監督により映画化されるようだが、ジョディー・フォスターが原作を読んでクラリス役を辞退したのもある意味では無理もないかも知れない。前作に新しい時代の輝かしいヒロイン像を見出した読者は失望を感じるだろう。完全に孤立し行き場を失ったクラリスが最後に得たものは「癒し」だったのかも知れないが、それが本当に彼女が求めるべきものだったのかは疑わしいはずだ。その分今回の作品はレクターにとってはかなり割の良い結末となっているわけだが、身も心も満たされたレクター博士なんて実はあんまり見たくないなあ。地下牢の中で一人不気味に笑っている時の方が格好良かったぞ。


【小説】J.ティプトリー・Jr.「星々の荒野から」
 
SF短編の名手でありサイバーパンクの先駆け、男っぽい作風ながらその正体は元CIA勤務の才媛、病気の夫を射殺し自殺……。ドラマチックな人生ながら書かれた作品はきら星のごとくまさに「完璧」。これまでもわずか四冊の短編集でしかその作品世界に触れることができないにもかかわらず、最も敬愛するSF作家の一人、ティプトリー・Jrの待望の作品集。
 訳者伊藤典夫氏のあとがきに、ティプトリーの作品と宮沢賢治の作品とに共通のイメージのあることが指摘されていましたが、一見意外ながら納得できる組み合わせ。純真にして素朴な賢治と聡明にして破滅的なティプトリーですが、ただひたすら星を目指す一途さに確かに通じる物が。賢治もティプトリーも言葉少な目、一見突き放したような淡泊な描写なのに、読む者を泣かせるツボを心得ているような気がします。
 本作の登場人物達も、自らの死すら省みずに、ただひたすら星へのあこがれを抱き続けます。「われら夢を盗みし者」の虐げられたジョイラニ族たち、「汚れなき戯れ」の原始の生命体を思慕する男、「星ぼしの荒野から」の精神生命体の一部を生まれたときに受け継いだ少女ポーラ、「たおやかな狂える手に」の異星のまだ見ぬ伴侶を求めて宇宙の果ての放射能に包まれた星に向かうPC……。彼らの運命は決して明るいものではなく、あっけなく死に向かうこともあります。ティプトリーの言葉はそれらの迷い子達の悲劇をことさらあおり立てるような感傷的なものにはならず、どこか突き放したような硬質な響きを持っているのですが、それ故にこそ彼らの満たされない想いが切々と伝わってくるような気がします。「接続された女」という傑作短編の、あの客観的で冷めた文章に触れながら、決して忘れることの出来ない切なさを噛みしめたことのある人にとっては、これらの短編にも魅了されるはず。
 この短編集の中でも異質な輝きを放っているのが、「ラセンウジバエ解決法」。小説のタイトルとしてはちょっとストレート過ぎるけど。ラセンウジバエを駆除するには、その遺伝子を組み替えて正常に交尾できなくしてやればいい。その駆除法を人間に応用したら……。ここまで言えば内容の方は想像がつくでしょうか。人間自身は知性を持った人間をとかく複雑な驚異・神秘の存在として祭り上げたがるものですが、所詮は単純な性衝動で増殖しているに過ぎないということを思い知らせてくれる作品です。これに近いテイストは……永井豪の短編マンガ「ススムくん大ショック!」(だったかな……?)こっちも凄いテーマを扱いながらタイトルはもうちょっとなんとかならないかなと思った記憶が……。

【小説】ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」
 
イギリスでベストセラーのファンタジー。世界140国で評判、ワーナーで映画化決定の話題作を清山社という殆ど個人でやっている所が翻訳した、というのも凄いけど、「薔薇の名前」の翻訳があれだけ遅れて困ったことを思えば、こういう情熱を持った人達が大手出版社を尻目に全力を傾けて洋書を紹介してくれるというのはとても有り難いし、うれしい話であります。
 親戚の家で十一才になるまでいじめられながら育ったハリー・ポッターが、突然魔法使いの天才児として魔法学校へ迎えられて、両親の仇である闇の魔法使いヴォルデモートとあいまみえる、というのがあらすじで、なかなかひねりはあるものの、ものすごい背負い投げを用意しているトリッキーな小説ではなく、あくまで素直。
 日本でいえば「魔女の宅急便」に近い感覚かな……ちょっと違うか。あちらほど教訓めいたところもないし。私はこれ、ぜひ絵にしたいと思いました。マンガでも良いしアニメでも良い。実写よりも絵本か似合いそう。全編に絵的なイメージが溢れているので(まあとはいえ、実際に絵にしちゃうと絵柄の好みが影響して非難されるケースも多いけど……)。ハリーがクィディッチの試合でアクロバット飛行を披露する場面や、突如登場するトロールとの戦い、当たり前に出没するポルダーガイストや龍の卵が孵化するところなど、絵にしたくなるようなシーンが満載です。
 キャラクターもそれぞれ楽しい個性の持ち主ぞろいだけど、人間の子なのに魔法学校の優等生の女の子のハーマイオニーがなかなかいい味出してます。

【小説】マイク・レズニック「キリンヤガ」
 
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞のSFオムニバス長編。アフリカのキユク族のために設立されたユートピア小惑星キリンヤガを舞台に繰り広げられる「古き伝統的な共同体世界」を守ろうとする主人公コリバと、進歩や変化を求める者たちとの衝突を描いているわけですが……。
 原始のアフリカの自然と密着した生活と、異邦の文明との出会いを描いた諸星大二郎「ダナオン」に感動した私は、しかしこの主人公コリバにはどうもなんか親近感を覚えないのだな。保全局にコントロールされた惑星の上で太古の共同体を頑なに守るという設定に既に無理を感じるし、主人公自身、伝統を守ると言って逆子を殺したり聡明な少女を死なせたりマサイ族の狩人を殺したりしておきながら、結局はあきらめてたった十四年で帰ってきてしまうのだから、強固な信念の持ち主というよりは困ったひとりよがりの老人にしか見えないのでした。そこまで言うのなら自分の命くらい賭けて欲しいものだ
 数々の賞の受賞・候補にあがったことを得々と語る作者あとがきも、なんだかなあと思ってしまう。「人はいかにして歴史上もっとも多くの栄誉を受けたSF小説を書き始めるのか?」とか言われても……。
 「ダナオン」には、全く異質な価値観と文明を背負った者同志が、自然を前にして共鳴していく姿を描いていました。仲間達のためにエランドの肉を運ぶダナオンと、墜落した円盤から下りて彼に寄り添っていく異星人のブピは、言葉すら通じなくとも友人となることができたし、その別れにも一種のやりきれなさを覚えることができました。コリバは自宅でただ一人隠れてコンピューターを扱いつつ表向きは祈祷を行うという二重生活を送りながら、異なる文明圏から来た来訪者も共同体から生まれた才能も全てまるごと否定してしまう。彼の孤立はまさしく彼の拒絶から来ているのだから、これでは何も生まれないし、何も広がらないし、何も維持できない。機械文明を全面肯定するつもりはないんだけど、人間らしい生き方を求めることと、人間らしさを太古の文明に求めてその文明にしがみつくこととはやはり違うような気がするんだけどな。


◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ戻る。

◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉作品集紹介」のコーナーへ。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。
◆「短編小説」のコーナーへ。