5月

【CD】坂本龍一「ZERO LANDMINE」
 4/30にTBSで「ZERO LANDMINE」という特別番組をやっていたので、思わず録画したのでした。
 "LANDMINE"とは地雷のこと。地雷撤去作業に携わり、その結果として片手片足を失ったクリス・ムーン氏のことも、「徹子の部屋」で観て知っていたので、確かに以前から関心はありました。番組の趣旨としては、CDの売り上げは地雷撤去作業に使われますのでみんなで買いましょうというお決まりのものなので、高校生の頃だったら「テレビ番組作る費用をそのまま向こうに送ればいいだろ!」とでも言うところでしょうが、年を取って何分涙もろくなったので、いそいそと買いに出掛け、どこに行っても売り切れなのでしばらく様子を見ていたところ、この間やっと手に入れることができたのでした。
 番組の中で印象的だったのが、片足を失った少女の話。子供が地雷を踏んで片足を失った場合、骨自体は成長を続けるので成長期が続く間苦痛に耐え続けなくてはならない。忘れようにも忘れさせてはもらえない痛み。そのあまりの残酷さにやりきれなさを覚える。地雷はもともと相手を殺すためではなく、負傷者を増やして敵の進軍を遅らせるために作られている。作ることは簡単で、撤去には莫大な費用がかかる。安価にして狡猾な兵器。いかにも「ヒト」に似付かわしい武器ではあります。
 曲自体は地雷被害のある各国の音楽を組み合わせたもので、どこか物悲しいとはいえ地雷の持つ暗黒面 を十分に表現していると言えるかどうか難しいところだ。それでもインスピレーションが湧いてきて、イラストを一枚描くことを思い付いた。石化した巨大な老人が自ら岩でできた椅子に体をうずめている。その周囲に散らばる串刺しにされ、血を流す人形達。
 ちなみにこのCDには、浅野忠信のイラストも寄せられています。地雷というのは、何かイメージを喚起させずにはいられなくなるようなテーマではあります。


【DVD】ディズニー「ファンタジア2000」&「ファンタジア」
 はじめて「ファンタジア」を劇場で観たのは確か大学生頃だったと思います。全くセリフがなく、クラシック音楽だけが流れる凄いアニメーションがあるという話は聞いていたのですが、パンフレットを見て1940年の作品だと知ってさらに驚き。どちらかというとこういう実験的な作品はかなり後期に作られたのだろうと思っていたのですが、実際はアニメーションの歴史の中でもかなり初期の段階でこの大作は作られたのでした。1937年の第一作目「白雪姫」、1939年の第二作「ピノキオ」に続く第三作目にあたる訳で、「ダンボ」(1941)、「バンビ」(1942)といった作品はこの後作られたということを考えると、まさに驚異的。殆どのフルアニメ技法はこの時既に完成していたと言えます。モノクロの「鉄腕アトム」が誕生するのは1963年、この後さらに20年以上を待たなくてはならなかった訳です。
 大学生当時にこれを見た時の印象としては、デュカの「魔法使いの弟子」ポンキェルリの「時の踊り」、そしてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」は実に動きと音楽が合っていて、観ていて楽しく感じたのだけど、その一方でベートーベンの「田園」は、音楽の持つ精神性とディズニーアニメ特有の陽気さが非常にミスマッチに思ったものです。ロマン派のポンキェルリやチャイコフスキーはもともとバレエ音楽として、すなわち踊りを見せることを前提に曲が書かれていることもあって、音楽の視覚化に違和感を感じないんだけど、古典派のしかもベートーベンともなると、やはりしっくり来ないのでした。
  さて、今回のなんと60年ぶりの新作「ファンタジア2000」であります。本当は劇場で観たかったのですが、気が付いたらもうDVDになっていました。内容はベートーベン「運命」、レスピーギ「ローマの松」、ガーシュイン「ラプソディー・イン・ブルー」、サン・サーンス「動物の謝肉祭」、エルガー「威風堂々」、ストラヴィンスキー「火の鳥」、そしてデュカ「魔法使いの弟子」の再演で構成されています。傑作はやはり「ローマの松」でしょうか。フルCGで宙を泳ぐクジラの大群はまさにダイナミズムの極致。「火の鳥」はディズニー版「もののけ姫」といった印象。
 1940年の「ファンタジア」が、かなり曲のイメージをないがしろにしているという批判を受けたことを何かの本で読んだことがあって、その分今回の新作は、より音楽のイメージに則した仕上がりとなってはいます。オープニングのベートーベンの「運命」なんかは、稲妻と雲とのせめぎ合いと、その中を蝶のように舞う三角形の模様の動きで抽象的に表現されています。しかしその分、なんか物足りない。なるほど前作の強引までのアニメ化は、それはそれでかなり反発を招くものだっただけに、強い存在感があつたのも確か。今回の作品はあくまで絵は音楽の前にひれ伏していて、その結果 無難な仕上がりという印象を与えてしまったような、そんな気がしました。
 あらためて前作も観たいと思い、結局1940年版のDVDも購入。こんなことなら最初にセット価格で発売された時に買っておけば良かった。こちらには当時「長くなりすぎる」という理由でカットされたドビュッシーの「月の光」が収録されていました。内容は月の光のもとでゆるやかに滑空するサギを描いた非常に叙情豊かな小品。これが挿入されていたらかなり全体の印象も変わっただろうと思います。全く新しい脚本の作品ならともかく、既存の音楽を利用するのだから企画段階で全体の長さくらい分かるはずなのに、作ってからカットするというのもどう考えても不思議な話なのですが。

【映画】S. ソダーバーグ「トラフィック」
 アメリカとメキシコを結ぶ巨大麻薬コネクション「トラフィック」を巡る群像劇。メキシコ・ティファナの警官ハビエール(ベネチオ・デル・トロ)、アメリカ・オハイオ州の判事ウェークフィールド(マイケル・ダグラス)、アメリカ・サンディエゴの麻薬王の妻ヘレーナ(キャサリン・セタ・ジョーンズ)の三人が中心人物となっているのだけど、それ以外の家族や同僚達も縦横無尽に活動します。二時間半という上映時間にしてもこの内容では短すぎる気がするけど、メキシコをイエロー、オハイオをブルー、サンディエゴをオレンジというふうに映像の色調を変えることによってうまく整理しています。
 メキシコの経済自体が麻薬で支えられていて、軍隊までもが敵に回るなかでの警察活動……国の麻薬対策を任される中娘が麻薬中毒で行方不明……夫の正体を全く知らされていたかったにも関わらず、経済的な圧力から自ら麻薬ビジネスに入り込む……それぞれの人物はいたって「普通 の感覚」「普通の理由」から泥沼へはまっていく。その描き方は確かに見事で、名前を抑えておくべき登場人物が20人近くいるにもかかわらず、「難解」という印象はあまりなかったのでした
 映画や小説を作る上で、よく言われるのが「登場人物の整理」と「視点の一致」。すなわち、ころころ場面 を変えるな、主人公を一人に絞って視点をころころ変えてはいけない、というのが基本的なセオリーとなっているわけです。しかし傑作というのは大体セオリーを破ることによって生まれて来ます。この作品ではそれぞれ三カ所で同時に物語が進行するわけで、それぞれが一時間のドラマになるだけの内容を持っています。一時間のドラマを続けてみても別 に混乱は起きないわけで、それがたまたまテーマと一部人物が重なるだけ。結果としては「麻薬」というテーマが重く印象づけられることになるのです。
 視点を一致させないからこそ、「麻薬」という問題の困難さが簡単な解決法を許さないという構図が見えてくる……この作品は敢えてそのような作り方をしているように感じました。三つの物語はそれぞれハッピーエンドを迎えたり、あるいは失敗に終わったりする訳で、かならずしも一つに収束してはいかない。それだけにこの作品全体は結果 として「終わらない物語」となっており、それは文字通り麻薬という物があまりにも人間の内分泌腺と経済機構に入り込みすぎてしまったが故に終わりを迎えることができなくなっていることと呼応しているように思えます。

【映画】ニック・パーク「チキン・ラン」
 「ウォレスとグルミット」で一躍名を上げたニック・パークが、ドリームワークスと組んで完成させた90分の長編クレイアニメーション。あの見事なクレイアニメが90分まるまる続けて見られるだけでもシアワセであります。
 養鶏場を何とか仲間全員で脱走しようと画策する主人公の雌鳥ジンジャーと、サーカスから脱走してきたアメリカ生まれの雄鳥ロッキーが、より儲けるためにチキンパイ製造機を作ろうとしている女主人の魔の手からいかに逃げるか、というシンプルなストーリー。とはいうものの、さすが脚本やコンテを練りに練るニック・パーク、一筋縄ではいきません。なにしろオープニングタイトルの時点で、ジンジャーは四回も脱走を試みるのであります。自分一人なら網の下を掘り抜いて脱出できそうなのに、あくまで「仲間も一緒」を貫こうとするばかりに足を引っ張られっぱなし、というのが笑えます。印象としては、「バクズ・ライフ」のにぎやかさと、前作「ウォレスとグルミット・危機一髪」のアクションが合体した感じ。実際、鶏達は自分達で飛行機を作ろうとするし、缶詰製造機の代わりにパイ製造機が出てくるし。
 普通に面白いと思うんだけど、連休にも関わらず劇場は空いてました。アメリカでもイギリスでも韓国でも香港でも大ヒット、堂々第一位を記録したというのに、日本人にとっては刺激が足りないのかしら。
 「ウォレスとグルミット」のシリーズでは、犬のグルミットも敵役のペンギンも羊たちも言葉を喋らない代わりに、二つの大きな目玉だけで豊かな表情を見せてくれるので、ある意味それが独特の味わいを持っていたのも事実。今回は全てのキャラクターが喋りまくるのでそういう意味では良くも悪くもハリウッド的ではあります。でもクレイアニメならではの細部のこだわりは見事なものだし、沢山の鶏達が一緒に踊り、ケンカし、暴れまくるシーンは一体どうやって撮影したのかと思うほど。何でもまずCGで配置やテンポを計算してから、あらためて人形で撮影したとか。かなりの凝りようです。

【展覧会】新宿伊勢丹美術館「黄金期フランドル絵画の巨匠たち展」
 「悦楽の園」ヒエロニムス・ボス「死の勝利」ピーテル・ブリューゲル……この二代巨匠を筆頭として、16-17世紀のフランドル絵画は私にとってはイタリア・ルネッサンスよりもより魅力的なのでした。人物画の肌の滑らかさはダ・ヴィンチやラファエロの方がいかにも上手、なのですが、ボスやブリューゲルの巨大な画面の中にパノラマ的に展開される様々な異形の姿に圧倒された後では、「所詮狭い人間世界の域を出ていないのう」などと不遜にも思ってしまうのでした。
 丁度この間ベルギーへ行って来たばかりということもあって、アントワープ王立美術館の作品を多く披露する今回の展覧会は非常に関心があったのでした。難を言えば、肝心のボスとブリューゲル(父)の作品がないこと……これは仕方がないのでして、彼らの作品はオリジナルの数が少ない上に、当時フランドル地方を支配していたスペイン系ハプスブルグのフェリペ二世あたりがかなり持ち出してしまっているので、先の「死の勝利」も「悦楽の園」も共にマドリードのプラド美術館にあるのです。
 ブリューゲルの家系は代々画家であり、ピーテル・ブリューゲルの二人の息子、ピーテル・ブリューゲル(同姓同名・兄)とヤン・ブリューゲル(弟)が共に画家であることは知っていたのですが、彼らが父親の作品を多数模写したことくらいしか知識はなかったのでした。今回展覧会で彼らの模写およびオリジナル作品を見、かつカタログを買ってみてはじめてその実態を知ることが出来ました。イタリアに渡りあのルーベンスとも交流のあった弟に比べ、兄は生地を殆ど離れることなく、その絵画の価格は弟の数十分の一だったそうです。兄は父親のコピーを多く残したので、その分評価も低かったのでしょうが、一方で1980年頃、ピーテル・ブリューゲル(父)の真作と思われていた作品が、年代測定によりピーテル・ブリューゲル(子)の筆によるものと分かったほどで、つまりそれだけの画力を持っていたことは確かなようです。
 さて、展覧会ではピーテル・ブリューゲル(子)やヤン・ブリューゲルといったブリューゲル一族の作品の他に、ルーベンスやヴァン・ダイクといった画家の作品もいくつか紹介されていました。中でも印象に残ったのは、ヘイスブレヒス「ヴァニタス」。「ヴァニタス」は「空しさ」の意。中央に髑髏を配した静物画でした。それから面白さという点ではセーヘルス&コックの「花輪の中の男の肖像」。鮮やかな花束の中央にあるのは、なんとちょび髭の生えた長髪のおっさんの肖像画。うーん、見事な「コントラスト」だったなあ。

【映画】ターセム「ザ・セル」
 青空の下に広がる砂漠。その中を駆けていく馬。ジェニファー・ロペス演じるキャサリンが馬から下りると、馬は黒い彫刻と化す……。その間に流れる優美で不安な東洋的な音楽。
 この感覚はどこかで目にした記憶がある……そう、ホドロフスキーの映画「エル・トポ」「ホーリー・マウンテン」のあの感覚だ。 
 インド出身のターセムの初監督作品は、私が大学時代に体験したどこかアンダーグラウンドな映像作品の香りに満ちている。ホドロフスキーを始めとして、クエイ兄弟の「ストリート・オブ・クロコダイル」の廃虚の中で蠢く人形、ラルーの「ファンタスティック・プラネット」(なんと作品の中でキャサリンがテレビで観ているのだ)、夢を描くタルコフスキーやポランスキーの密室感覚、リンチの描く奇形と死体等々……。それまでハリウッド・ロードショー的な映画しか知らなかった私は、映画研究会に入ったのを機会に単館上映のちょっとマニアックな作品群に強く惹かれたものだ。ペヨトル工房の「夜想」や「銀星倶楽部」を買い始めたのもこの頃。
 ということもあるのだろうか、この作品の中で展開されるグロテスクで不条理な映像群にはとても親近感が湧くのである。物語の方はありきたり、という評価も多かったが、必ずしもそうは思わなかった。分裂症の少年の治療のために精神に入り込む実験を繰り返していた心理学の研究者達が、見ず知らずの女性を誘拐し水槽に閉じこめて殺す連続殺人犯の脳に入り込むことにより、行方不明になっている最後の犠牲者の居所を掴もうとする話なのだが、結局の所相手の脳にシンクロしダイブするという装置が、本当に犯人から真相を聞き出せたのかどうかははっきりせずに終わる。それはつまり、たとえ他人の精神世界に入る込むことが出来たとしても、相手を理解しその心を読むことは出来ないのではないかということだ。これは安易なテレパシーによる読心術が可能な前時代のSF作品から比べればかなり深い示唆を含んでいるように思える。
 実際に連続殺人を犯すような人間の精神世界が、ここまで独創的なのかどうかは正直な話分からない。殺人を繰り返す一因として想像力の欠如をあげている専門家もいるくらいだ。だがこの作品の殺人者は、わざと被害者の恐怖と絶望をあおるために、ご丁寧にも「セル」と呼ばれるガラス張りの部屋に相手を閉じこめ、少しずつ水を溜めて溺死させ、その有り様をビデオに撮影し、自らは鎖で宙づりになりながらそれを観て楽しむという創意工夫を怠らない人間であり、過剰な想像力の持ち主であることが示唆されている。また、犯人の精神に取り込まれた治療者キャサリンを奪回すべく、FBI捜査官がキャサリンの精神世界へ入ると、そこにも砂漠に座りこみ上を向いて口を空けている三人の女がいて、犯人と対峙するキャサリン側の世界にも不条理の空間があることが暗示されている。
 孤独な闇と死の観念によって構成された世界が、いかにも豊醇で奥行きがあるのに対し、キャサリンが犯人を招き入れようとする「安住の地」の平和な世界は、桜の木と花吹雪というえらく薄っぺらい、狭苦しいイメージで描かれている。これがどこまで意図的なものかは分からないが、おそらく我々もそのような安息の世界をイメージすること自体が困難になってはいないだろうか。いかにもクリエイティブでイマジネーション溢れる恐怖と戦慄の「魔」の世界に釣り合うだけの、広がりのある「安息の地」は、人間にとってはもはや殆どリアリティを持たないのかも知れない。

◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ戻る。

◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉作品集紹介」のコーナーへ。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。
◆「短編小説」のコーナーへ。