6月


【映画】ヤン・シュヴァンクマイエル「ジャバウォッキー」他〜「タッチ&イマジネーション
 「……でも、誰かが、何かを殺したのね、とにかく、それだけははっきりしてるわ!」(「鏡の国のアリス」より)

 新宿シネマ・カリテのレイトショーで、ヤン・シュヴァンクマイエルの未公開作品が上映される、という話は前にも聞いていたのですが、「シュヴァルツェヴェルト氏とエドガー氏の最後のトリック」「庭園」など観たことのある作品の名前が出ていたので、「なんた未公開作品じゃないじゃん」とついついチェックを怠っていたのでした。この間池袋の本屋で「夜想2」を始めとしてシュヴァンクマイエル関連の本が平積みになっていて、その内の何冊かを購入して初めて「ジャバウォッキー」をはじめとする未公開作品が見られることを知り、何とか仕事の合間をぬ ってA・B両プログラムを観ることができました。上映は6/15まで。ああ危なかった。
 チェコの映像作家、シュヴァンクマイエルは人形やクレイアニメーションを駆使した特異な映像作品で知られています。最近私のご贔屓のペヨトル工房が解散した後再刊された「夜想2--(2マイナス)」でも佐野史郎さん手塚真さんが文章を寄せていて、結構幅広いファン層がいるのだなとうれしくなった次第。確か最初に観た作品は、長編映画「アリス」でした。剥製の兎や人形の帽子屋が登場し、主人公のアリスも人間と人形が交互に入れ替わるというのが印象的でした。サッカーの試合が粘土人形の潰し合いになる「男のゲーム」や、客が自販機になってしまう「フード」等の短編も凄かったし。
 今回の短編上映は、「家での静かな一週間」「オトラントの城」「ジャバウォッキー」等を含むAプログラムと、「棺の家」「レオナルドの日記」「ドン・ファン」等を含むBプログラムの二つに分かれていましたが、その中で一つを選ぶとしたら、やはりAプログラムの最後を飾る「ジャバウォッキー」でしょうか。
 「ジャバウォッキー」は、「不思議の国のアリス」の続編、「鏡の国のアリス」で、アリスが手にした本に出てくる詩に登場する怪物。そこからタイトルをいただいたこの1973年の14分の短編映画は、例によってシュヴァンクマイエル独特のノスタルジックでペシミスティックでグロテスクな映像の連続。「アリス」の「ジャバウォッキー」を朗読する子供の声。林の中を走り回る洋服ダンス。その中の洗面 器の中から飛び出した子供用のセーラー服が踊りだし、それと同時に子供部屋の中に林檎の木が茂り、その実が床に落ちて潰れると中から大量 の虫が湧きだす。人形の家族がテーブルについて食事をしているが、口にしているのは料理された小さな人形達。柄が人形の形をしている折畳みナイフがテーブルの上をクロスを傷付けながら楽しげに踊るが、自分のナイフで背中を刺して大量 の血を流す……いわゆる子供を想起させる可愛らしい物達を扱いながら、どこか残酷なテイストを加味しているこの短編は、国内では上映禁止になってしまったようですが、結構こういう作品は子供も喜んで観るんじゃないかしら。そもそもルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」にしたって結構残酷なセリフやエピソードが満載なのだから。
 他にも、男がドアに穴を開けて除く度に、その向こうではキャンディの包みから釘が飛び出し、壁から舌が降りてきて食器を舐め回したりと超現実的な光景が展開される「家での静かな一週間」。友人に誘われるままその家を訪ねると、家の周りを普通 の人々が生け垣のように互いに手を繋いで並んで立っている「庭園」。人間が人形を演じる「ドン・ファン」等、お奨めの短編がぎっしり。そういえばモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の初演はプラハだったっけ。
 人間がマリオネットの人形を演じる「ドン・ファン」は、後の長編「ファウスト」に、アンティークドールが人間のように振る舞う「ジャバウォッキー」は、後の長編「アリス」に、それぞれ繋がっていくのですが、どちらかといえば「ジャバウォッキー」「アリス」の系譜の方により魅力を感じるのは、子供っぽさと不条理さとがより強いコントラストをなしているからでしょうか。最近買った「ロボ・サピエンス」という本には精巧なロボット人形「マイ・リアル・ベイビー」の写 真が載っていますが、幼児をかたどったロボットの顔が半分に切られていて、内部構造が見えているという、可愛らしさとグロテスクさが入り交じったなかなか印象深い物で、これにもまさしくシュヴァンクマイエルの世界に通 じるものがあります。


【映画】りんたろう&大友克洋「メトロポリス」
 そのまま実写に使えそうなCGの建築物、ジャズの音楽、コミカルなロボット、人物にまとわりつくコード類、ディズニー作品の様にフルアニメで動く人物……これはまさしく大友克洋氏のアニメーション作品であります。このテイストはどちらかというと「アキラ」「MEMORIES〜大砲の街」の感覚に近くて、キャラクターこそ往年の手塚作品の登場人物なんだけど、中身は大友作品のテンポなんだと思います。主人公のミッチイ「ティマ」という名に変わり、表情豊かな原作のキャラクターよりも無表情な28号ことアキラを思わせます。
 りんたろう氏は虫プロにいた人だし、「火の鳥・鳳凰編」を始めとして手塚作品のアニメーション化を多く手掛けているわけですが、どちらかというとその硬質なタッチは、晩年になっても人物のデフォルメとコマのリズムにこだわり続けた手塚作品の肌触りとは対局にあるような気がします。もうちょっと遊ばないと、崩さないと、「手塚漫画」じゃないでしょう、と言いたくなってしまう。
 やっぱり絵はきれいだし、やわらかい3頭身タッチもリアルな背景と意外とうまく溶け込んでいるし、ある意味非常に楽しめたんだけど……なまじっか原作を読んでいるせいか、丁度クラシック音楽を電子音楽に直した作品を聴いているような感じを抱いたのでした。面 白いし新鮮なんだけどちっょとくすぐったいような……。
 映画では全編にディキシーランド・ジャズの音楽が使われていて、これなんかもいかにもりんたろう氏や大友克洋氏がこだわりそうな部分なのですが、「ジャングル大帝」のラストをチャイコフスキーの「悲愴」を聴きながら描いたというエピソードが如実に示しているように、手塚治虫はやはりどちらかというと良くも悪くもクラシック音楽の人のような気がします。
 手塚治虫の原作は、昭和24年に育英出版から刊行された、当時21才の作者が半年で描き下ろした160ページ・オール2色刷りハードカバーの単行本。手元にあるのは講談社手塚治虫全集の中の一冊ですが、このページ数の中でよくまあこれだけ詰め込めるなあというような盛り沢山な内容です。映画ではばっさり切り捨てられている、レッド公逮捕に駆け回るシャーロック・ホームズガニマール警部、太陽黒点の異常で巨大化したネズミ(ミッキー・マウスの顔をしている)に襲われる人々、高い塔でのミッチイとケンイチの一騎打ち等は、やっぱり動画でも観たかったなあと思うのですが。敵役のヒゲオヤジに笑顔で握手するレッド公にしても、最後まで涙を見せず客観的な立場を取り続けるケンイチにしても、今の作品に劣らず複雑味があるし、ヒゲオヤジもアニメと違ってまさに縦横無尽に活躍し、レッド党相手に一歩も譲らない。映画ではケンイチとティマのロマンスを中心に置いたおかげで、どうしてもヒゲオヤジの存在感が希薄になり、肝心なときに無銭飲食でとっちめられたりしているのでした。
 ヒゲオヤジとケンイチのコンビが共通して登場し、多くのキャラクターが縦横無尽に飛び回りながら、それでも全体のストーリー展開は破綻せず、最後に大スペクタクルになだれ込む、というのが手塚氏のSF三部作「ロスト・ワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」の基本路線ですが、それぞれの作品で中心的な存在である知能を持ったウサギのミイちゃんも、人造人間のミッチイも、新人類フウムーンの一人ロココも、皆最後には悲劇的な結末を迎えてしまう。「メトロポリス」でも、太陽の人工黒点によって人造細胞から生み出されたミッチイの体は、黒点の消失と共に溶け出してしまうわけで、暴走する科学技術というテーマと合致した結末になっています。絵柄こそ確かに昭和20年代ですが、これらの原作の「フルオーケストラ・合唱付き」みたいなダイナミズムに比べると、今回の気合いの入った映画作品もどうしてもこじんまりとした印象を受けてしまうのでした。これは20年前、「来るべき世界」を24時間テレビでアニメ化した「フウムーン」を観た時も感じたことなのですが。
 それにしても、「初期の手塚治虫の情感あふれる描線を再現したい」というところから始まった企画なのに、やっぱり「自分なりに少し解釈を加えて……」となってしまうのは何故なんでしょうか。どうせなら徹頭徹尾原作通 りに作るか、そうでなければ一から全くの新作を作れば良いのに……ひとつ言えることは、手塚治虫の作品に今も魅かれる人は、ある意味クリエイティブ第一主義の人でもあるわけで、自分を殺して物を作る、などということはできないんでしょうね。  


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