7月


【映画】ティム・バートン「猿の惑星」

 話題のバートンの新作を、先行オールナイトで観てきました。
 1963年のピエール・ブールの原作小説、1968年のチャールトン・ヘストン主演の映画、そしてさらに続編・新……と映画シリーズは全五作が製作されたという、ある意味記念碑的なSF作品ですが、原作と映画とが違うラストであることは、結構SFになじんでいる人達も知らないかも。
 映画のラストはあくまで映画だけのもの。原作では宇宙ヨットでクルージングをしている裕福な夫婦が、宇宙空間に漂う手記入りの小瓶を拾うところから始まり(そりゃ天文学的な確率だな……)、その手記には、猿がヒトを支配する惑星に不時着した人間の物語が書かれていたのでした。そこでは猿は知能は高いがあくまで四つ足の、足の指を自由にあやつる生き物として描かれていて、一方ヒト達は猿とは逆に丸裸。冒頭の伏線も含めてなかなかそのまま映像化することは難しかったでしょうね。
 今回のバートン作品の予告編を観て、まずは68年のオリジナルと違って猿が猿らしく四つ足で飛び回るところが「期待大」でした。実際いかにもバートンらしいのが、今回の映画でも猿達が興奮したり戦闘態勢に入ったりすると猿らしく四本足で走り回るというところ。馬に乗って突進するすぐ横を同じ猿達が四つ足で疾走する、というシーンはなかなか見ごたえがあるし、昨今の猿学研究をもとに、一番凶暴な敵役のセード将軍をチンパンジーとして設定しているのも納得。実際、特殊メイク担当のリック・ベイカーもこう語っている。「アフリカに行った時、227キロの野生の雄ゴリラに近付いたことがあるんだが、全く怖いとは思わなかった。でも、チンパンジー達には近付きたくなかった。なぜなら彼らは正気ではないから。」 68年に始まる旧作シリーズでは、常に凶暴なのはゴリラ族達だったけど、むしろより遺伝的にヒトに近いチンパンジーの方がより残虐性を発揮することは確からしい。ゴリラ達が殆ど仲間同士で殺し合ったりしないのに対し、チンパンジー達は異なる群同士が戦闘状態に入ると、相手が降参していようが容赦なく追い回し血祭りにあげるといいます。もっともゴリラも、子連れのメスと交尾するためにオスは相手の子供を殺してしまうそうだから、決して「気は優しくて力持ち」とも言い切れません。それでもメスを平気でレイプするチンパンジーやオランウータンよりはマシなんだそうな。一方ヒト以上に平和的なのがピグミー・チンパンジーことボノボで、こちらは性行為が挨拶代わりになっているほど。
 新作のメイキャップ自体は、68年作品より飛躍的に進歩しているとは必ずしも感じませんでした。やっぱりどうみても人が猿の真似をしているようにしか見えないんだなあ。今回主人公の味方となるメスのチンパンジーのアリは、旧作のヒロイン、ジーラ博士と殆ど同じ印象。こちらとしてはもっとより猿に近い、たとえば「2001年宇宙の旅」の猿人に近い姿でやって欲しかったんだけど……。せめて目も黒目だけにして本物っぽくするとか……。まあバートンは「バットマン」2作や「マーズ・アタック」に観られるように、あえてどこかチープな、デフォルメされた造形を好む傾向があるから。なにしろあの「エド・ウッド」を監督したくらいだし。
 今回のバートン作品は、言ってしまえばより原作に近いテイストになっています。「シザー・ハンズ」や「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」等に見られるように、はっきりと異形の物達への愛情を隠そうとしない彼としては、当然ながらヒトばかりにいい思いをさせるような作品になるはずもなく、どこかコミカルな展開の後にはしっかりとブラックな味わいのラストシーンを置いていているのでした。
 ちなみに、パンフを読んではじめて知ったのですが、旧作の主演男優チャールトン・ヘストンがカメオ出演しています。凶暴なセード将軍の父親に扮し、死の床にいながら息子へ人間達の抹殺を命じる役回り。旧作での彼の役回りやセリフと比べるとなかなか感慨深いものがあるかも。余韻を残す重々しさという点では68年作品に軍配を上げざるを得ませんが、これだけ有名な作品のリメイクでありながら新しいテイストを加えることができたのはさすがだと思います。地球とは別 の惑星に舞台を置きながら、かつ猿がヒトを支配するという構図(しかも猿達は英語を喋る!)をしっかり描いているし、しかもその設定は原作小説とも異なるし。ちなみにちょっと笑えるのが、主人公が調査用ポッドで惑星に不時着するときは二回ともぶざまに地面 に激突してしまうのに対し、チンパンジーのパイロットはちゃんと上手に逆噴射してなめらかに着陸するというところ。これはやっぱり、ヒトより猿の方が優れているかも、というアイロニーなのかしら。


【DVD】MGM/ワーナービデオ「トムとジェリー」

 新星堂のポイントが2000円分たまったので、何か忘れないうちにDVDでも買おうと思っていたら、すぐ近くに陳列してあったDVD「トムとジェリー」VOL.1-4セットが目に入りました。確か一枚4000円くらいしたはずのシリーズが、4枚組で4980円こりゃお得だわいと買ってしまいました。もっともこの間まで朝早くにTV放映していたくらいだから、レア物とは言い難いのですが。
 確か小学生か中学生の頃午後4時頃に再放送していた30分番組として記憶に残っているんだけど、あまり体系立てて見たことがないし、ディズニーと違って解説本もあまりないから、あらためてホームページとかの紹介を読んで、えらく古くから作られていたシリーズなんだなとあらためておどろいた次第。今回購入したものの中には1940年製作の作品があるのだ。しかも、古いものほど絵がきれいで動きも細かく完成度も高い。どこかの紹介ページで「絵が古い」とか酷評されているのは大体が1960年代に作られたペタッとした絵のもの。ディズニーに限らず、1960年代以降アメリカのキャラクターアニメーションが一気に質を落としたことが分かります。
 1988年製作の「ロジャー・ラビット」が、ディズニー・キャラクターと他の映画会社のアニメ・キャラクーの一緒に登場するアニメ映画として企画された時、監督のゼメキスは、「今のディズニーにフルアニメはムリだ」と判断して、イギリスのアニメーション作家リチャード・ウィリアム氏(映画「ピンク・パンサー」のオープニングアニメを手掛けた)をアニメーション・ディレクターに指名したという経緯がありました。
 ところで、この「ロジャー・ラビット」は1947年を舞台にしています。もっともアニメーションが繁栄し質が高かった時代と考えたのでしょう。実際、この段階でミッキーやドナルドはもちろん、バックス・バニードルーピートゥーイーティロードランナー、ウッドペッカーといった人気者達は皆勢揃いしています。ちなみに、トムとジェリーもドルーピーと同様MGMのスターなのですが、一切セリフを喋らないということでこの作品にはゲスト出演していません。
 一切セリフ抜きというのが、このシリーズの魅力にもなっているのは周知の通り。ひたすら無言のままネコのトムがネズミのジェリーを追いかける(何故か登場する他のキャラクターは犬でも鳥でも喋れるのですけど……) というシンプルな設定が良いのですね。
 今回DVDで字幕や音声を英語にすることができるのはありがたいです。セットの中で最も古い1940年の作品「PUSS GETS THE BOOT」(日本のタイトルは「上には上がいる」だけど、「ネコ、蹴っ飛ばされる」とでも訳せばいいのかしら……)では、吹き替えでは当然主役の猫は「トム」なんだけど、原語ではお手伝いさんから「JASPER(ジャスパー)」と呼ばれています。おそらくはこの作品が第一作目で、「トムとジェリー」としてシリーズ化される前段階だと思われます。次に古いのが1941年「THE MIDNIGHT SNACK」(夜中のつまみ食い)で、ここでは「THOMAS(トーマス)」と呼ばれていました。
 同じく1941年「NIGHT BEFORE CHRISTMAS」(メリー・クリスマス)は、おそらくはシリーズ中の最高傑作。題名からしてどちらかというとハートウォーミング系のストーリー。クリスマスの日、ジェリーは仕掛けられたねずみ取りに余裕の一瞥を投げ掛けながら、沢山のクリスマスプレゼントの並べられている中を転げ回る。そこへトムがからんで、ジェリーはトムから逃げるために雪の降り積もる外へと逃げ出すが……というまあお決まりの展開ですが……。シリーズの中でも決して珍しくはない「仲直りパターン」ではあるけれど、この作品ではその後さらにもう一回微笑ましいオチがついて、僅か10分のセリフなしの短編にも関わらずとても後味の良い小品に仕上っています。
 こんなふうに分かりあ合えたらいいね、と思わずうなずいてしまうようなこの作品が製作されたのが、1941年というのもなんとなく感慨深いですね。なにしろ1941年といえば、そう、今度公開される映画「パール・ハーバー」で描かれるあの真珠湾攻撃がこの年の12月なんですから……。


【舞台】桜月流美剱道〜美剱の会「酒呑童子」
 「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 会うこともがな」(和泉式部)

 10世紀末、一条天皇の時代、源頼光(948-1021)は配下の四天王と共に、大江山に住む酒呑童子を退治した。四天王の名はそれぞれ渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、そして足柄山の金太郎としても有名な坂田金時(さかたのきんとき)。そしてこれに友人の藤原保昌(=平井保昌)が加わり、総勢五十数名がこの討伐に参加したという。
 源頼光は清和源氏の祖源満仲の長子でれっきとした実在の人物。彼の弟の頼信の子が頼義で、その子八幡太郎義家、そのひ孫の頼朝と続いていきます。一方酒呑童子は「ガキのくせに大酒飲み」というその名前が示す通 りどうやら架空の存在ですから、どこからどこまで史実なのか未だにピンと来ないのでした。坂田金時とか実在したんでしょうか。
 この舞台はそもそも桜月流美劔道がプロデュースしているもの。毎年七夕の日にその剣術を披露することになっているそうで、今回はその第五回目。物語の形式を取るのは今回がはじめてなのだそうです。従ってもともと演技を観るというより剣さばきを観るものと考えたほうがいいらしいのですが、皆さん意外と存在感があって並の劇を観ているより十二分に楽しめました。全体の3/4近くは剣術のシーン。真剣こそ使わないものの、その息の合った立ち回りは見事なものでした。
 謡曲や絵巻で知られる「酒呑童子」の物語を軸に、同時代の安倍晴明(920頃-1005)和泉式部なども登場し、なかなか見ごたえのある展開になっています。まずはじめに、安倍晴明による状況説明がなされた後、酒呑童子の副将茨木童子が、相手を傀儡のように操ることができる能力を使って藤原保昌の妻の和泉式部を誘拐する。それを取り戻すために源頼光とその配下の四天王達が大江山に向かい、童子達を倒して都に凱旋するが、本物の酒呑童子と茨木童子は健在だった。四天王の一人、渡辺綱は茨木童子に操られ乱心し、仲間の卜部季武に討たれる。再び酒呑童子にさらわれた和泉式部は、藤原保昌と茨木童子との戦いのさ中に絶命する。そして最後に酒呑童子と頼光の一対一の対決へ。 前半はなんといってもセリフと技の切れ味の鋭い茨木童子が目立っていましたが、最後の最後にそれを上回る酒呑童子の見事な立ち回りが披露され、まさに「真打ち登場!」という感じでした。完全に主役の頼光を圧倒していたような気がします。
 最近流行りの陰陽師、安倍晴明の登場はいかにもでしたが、和泉式部の登場にはさすがに戸惑ってしまったのでした。おまけに百人一首にある歌まで読んだりするものだから、一瞬おやおやと思ったのですが、後で調べてみると、「和泉式部は越前守大江雅致(おおえまさむね)の娘で、和泉守橘道貞の妻だったが、夫の死後娘の小式部内侍を連れて藤原保昌と再婚した」とありますから、この人物配置も意外ながらそれなりに根拠があるのですね。小式部内侍には「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立て」という有名な歌があるくらいですから、大江山と和泉式部の間にも何かと因縁があると言えなくもないし。
 酒呑童子に関しては、意外と手頃な紹介本もなく、中公新書の高橋昌明著「酒呑童子の誕生」という本も持っていたはずなんだけど親の家に置いて来てしまったし……ということでネットで検索してみました。
  酒呑童子は元は伊吹童子といい、その父親の伊吹弥三郎は八岐大蛇を祭る一族の出身だった。弥三郎は異形の正体が発覚し斬り捨てられ、その子供は伊吹山に捨てられ成長し酒呑童子となったという。そもそも酒呑童子という名も「捨て童子」から来ているという説もある程だから、魔性の者というよりは排除された者という印象が強いですね。「大江山絵詞」によれば、頼光とその一行は山伏を装って鬼の城を訪ね、鬼達は彼らを中に入れる。頼光は泊めてくれるお礼にと酒を差し出し、鬼達が眠り込んだ所を強襲して酒呑童子の首を切る……という展開になっており、相手が鬼だとしても完全に卑怯なだまし討ちで、あまり称賛する気にもなれないのですが。ヤマトタケルのクマソ征伐もだまし討ちみたいなもので、なんか時の権力者が卑怯な手段で反対勢力を潰していった過程を揶揄しているようにも思えます。
 茨木童子にもいわれがあります。摂津の国水尾村の農家に生まれ、難産の末母親は死に、父親は童子を茨木村の九頭神の森近くの床屋の前に捨てた。床屋はその赤子を育て、仕事を教え込んだが、客の額を剃刀で傷付けその血を舐めるため床屋はすたれてしまい、童子は土橋の上から川面 を見ると、そこ に映った自分の姿が鬼の相を呈しているのを見て丹波の山奥へ入ってしまった。その橋は「茨木童子貌見橋(すがたみのはし)」と名付けられたという。茨木童子も捨て子だったのですね。
 源頼光が山賊達を成敗して名を挙げたことは確かな様ですが、酒呑童子が山賊だったにしろ、疫病の象徴だったにしろ、排除された奇形もしくは障害者だったにしろ、はたまた前述の「酒呑童子の誕生」にあるように「斉天大聖(せいてんたいせい=孫悟空)」から来ていたにしろ、そこにはどこか、秩序対無秩序、体制対反体制の比喩がこめられているような気がします。酒呑童子は首を討たれる瞬間、「おのれ、鬼は人を決してだましたりはしないものを」と言ったとか。舞台でも、頼光は酒を使いはしないものの、魔物を射止めることのできる空弓によって背後から童子達を狙い撃ちする場面 もあって、思わずにやりとしたものです。自由を求めて自らの意志で都を離れる和泉式部(実際、奔放な性格だったらしい)にしても、育ててくれた恩義に報いようとするイクシマ童子を始めとする異形の者達にしても、敢えて異形の者へと転生を繰り返そうとする酒呑童子にしても、本物の「生きたいがために生きる」生命力のようなものを象徴しているような気がしました。



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