8月


【映画】スティーブン・スピルバーグ「A.I.」

 キューブリックが20年間寝かせていた企画を、スピルバーグが2ヶ月で撮影した作品、と聞くと、うーんやはりムリがあるかな、と思わないこともない。10年に一作しか映画を撮らない寡作家と、二年に一度話題作をモノにする多作家、という点でも対照的だし、一方が常に娯楽性を重視したのに対し、一方は常に安易なハッピーエンドを避けていたという点でも、この二人の映像作家はかなり資質が違うと思うのである。
  キューブリックは、特にSF三部作「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」「時計仕掛けのオレンジ」に顕著なように、どちらかといえば観客を陶酔させるよりもむしろ覚醒させようとするところがある。これらの作品の中には、人間の悲喜劇を一歩距離を置いて眺めている冷静な眼差しが感じられる。「時計仕掛け……」という作品が印象的なのは、主人公の暴力への嗜好を単純に否定も肯定もしていないことだ。「2001年宇宙の旅」にしても、HALの人間殺しを断罪するようなことはしていない。キューブリックの作品は、観るものが安易な解決に落ち着くことを常に避けようとする。決して「中庸」を勧めるのではない。「間を取ってそこに居座る」のではなく、「常に否定と肯定を繰り返し、そこにとどまらずあがき続けること」を要求するのである。従って「2001年宇宙の旅」のようなSF作品にしても、「シャイニング」のようなホラー作品にしても、観る側にどこか居心地の悪さを感じさせるはずだ。彼の作品群は、「リラックス」という言葉からもっとも遠いところにある。映画のラスト、観客は登場人物が最後にこちらを睨んでいることに気付くだろう。暴力の世界に再び身を投じることになり不敵な笑みを浮かべる「時計仕掛けのオレンジ」の主人公しかり、体を凍りつかせ永遠に闇の世界の住人となった「シャイニング」の主人公しかり。「アイズ・ワイド・シャット」のラストですらそうなのだ。この命題はあなたにとって他人事ではない、次はあなたの番かも知れない、とでも言うように。
 一方スピルバーグは、視覚効果を突き詰めることによって、従来にない「陶酔感のある画面 」を作り出すことに成功した映像作家である。「激突」と「ジョーズ」が画期的だったのは、カメラの位 置を低くし、かつ画面の切り替えを細かく繰り返すことによって、日常風景の描写の中に異常なほどの緊張感を持ち込んでいたことだと思う。ただの大きなトラックや、殆ど全身を現さないサメによって、あれほどのドキドキハラハラ感を作り出すことは実際そう簡単なことではない。逆を言えば、「たかがトラックではないか」という意識を持たせないほどまでいかに観客を陶酔させるか、に主眼があるわけだ。「ジュラシック・パーク」の原作は、「遺伝子工学が商業主義のために生命をもてあそんではならない」ということをテーマにしていたと思うが、スピルバーグの映画はむしろ「将来もしかしたらこんなに面 白いテーマパークが実現するんじゃないかしら」という期待を観客に持たせる結果となっている。ジュラシック・パークの創始者ハモンド氏は、原作では恐竜に殺されるが、映画では自身も映画監督であるリチャード・アッテンボローによってむしろ好人物として描かれている。彼の映画の中でのセリフ、「ノミのサーカスではなく、本物で観客を驚かせたかった」というくだりは、スピルバーグの心情をそのまま代弁しているように思う。だから彼の作品のラストの殆どは、緊張の後の安らぎを描いて終わる。ゆっくりと腰を下ろす主人公のシルエットで終わる「激突」しかり、そして子供たちの寝顔をやさしく見つめる眼差しで終わる「ジュラシック・パーク」しかり。

 「A.I.」は、作られた子供のロボットの孤独を描いた作品であり、「鉄腕アトム」の物語世界に親しんだ我々にとってはなじみのある設定だと思う。そういう意味では分かりやすい話ではないかな、と思っていたのだが、見終わってみるとこれはむしろ複雑な構造の物語だと考えずにはいられなかった。「なんだかどこか納得がいかないぞ」と思わせる部分があるのだ。
 実の子供が不治の病に犯されたため、夫婦は親への愛情をインプットされたロボットの子供ディビッドを家に置くが、子供が回復したために邪魔者となってしまい、森に捨てられてしまう。彼はそこでジュード・ロー演じるジゴロ・ロボットと知り合い、「ピノキオ」の物語に出てくる「ブルー・フェアリー」を探して水没した都市マンハッタンまでやって来る。そして彼は、海底に沈んだテーマパークの妖精の人形を見つけ、それに向かって自分を人間にしてくれと祈り続けるのだ。
 作品の至る所にキューブリックの映像世界へのオマージュが感じられる。ルージュ・シテイの猥雑さは「時計仕掛けのオレンジ」の頽廃した未来世界を思わせるし、物語ラスト近くの凍った世界は「シャイニング」を、そしてディビッドの体験する疑似世界は「2001年」を思わせる。それらの道具立ては、いかにも懐疑主義者のキューブリックらしいが、夢見るディビッドの童話的な世界観とはかならずしもそぐわないような気がした。一般 の観客はおそらくそこに違和感を感じるのだと思うし、一方で一緒に観たF氏の言うように「ジゴロ・ロボットが出てきて、ルージュ・シティの場面 になってやっと面白くなった」という意見も良く分かる気がする。キューブリックの「人もロボットも、同じ機械に過ぎない」という皮肉な世界観と、スピルバーグの「ロボットが人を愛せるのなら、人もロボットを愛さなくてはならない」という分かりやすいヒューマニズムが、折り合いがつかないまま一つの作品に一緒になっている、という印象なのだ。

 このストーリーの根幹に「ピノキオ」の物語がある。しかし、「ピノキオ」は自らの善行によって人間へと生まれ変わるのだが、映画の主人公のディビッドは何かと引き換えに人間になることを約束されるわけではないのだ。彼はただひたすら祈り、懇願するだけである。しかしそもそもそのように、相手に何かをするようにではなく、ただひたすら求めるように行動がプログラムされているのだから、それは彼自身にもどうにもならないことなのだ。
 
 もしキューブリックが「A.I.」を完成させていたら(実際、「アイズ・ワイド・シャット」とか撮っている場合ではなかったんだな……)、海底で人形の妖精に向かって祈り続ける場面 で、こちらを向いてひたすら訴え続ける主人公のアップで終わっていたのではないかと想像する。彼は善かれ悪しかれ、簡単なオチを付けるのを最後まで拒んだのではないかと思うのである。観客は最後に、自分が責められているように錯覚し、居心地の悪さを感じるだろう。ディビッドの苦悩を他人事で終わらせるのではなく……ロボットを人間に近いものとして作りながら最後まで人間として認めないであろう他ならぬ 我々に向かって、彼は訴えただろうと思うのだ
 スピルバーグの用意したラストは違っていた。苦しんだままの子供の姿で作品を終わらせることはあまりに忍びない、と思ったのかも知れない。そうでなくても、彼のいつもの作品の流れから言えば、 主人公の苦悩は解消されなくてはならない。「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーが紆余曲折を得て最後に救いを得たように。そのため彼は2000年後まで舞台を引き延ばし、世界そのものを逆転させることによってディビッドの望みをかなえる、というある意味裏技を使うことによってそれを実現させた。映画を観ていない人のためにラストはあえてここではばらさないけれど、それによって作品の持つベクトルが大きく変ったことは確かだ。ラスト近くでいきなりナレーションが入ってしまうのはどうにも不自然だし、あの部分はむしろナレーションなしの方がある意味「2001年」っぽくて雰囲気が出せたような気がするのだが、スピルバーグ流としてはやはり全部説明してディビッドの救われたことを宣言する必要があったのだろう。そして安らぎに包まれたラスト。これはある意味、スピルバーグならではの話の流れではあるのだが、キューブリックの用意した舞台は必ずしも全面 的な安らぎを約束してくれるものではなかった。これはある意味、偽りの安らぎ。作る側もそれを意識して作っている。だからこそ、私にとっても別 な意味で印象に残る、どこか妙に引っ掛かる作品となったのかも知れない。



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