11月


【映画】クリストファー・ノーラン「メメント」

 94年にNHKで放送された「驚異の小宇宙・人体2・脳と心」で、脳の記憶をつかさどる器官である「海馬」に障害が起き、ある時期以降全く記憶を持続出来なくなってしまう人の話を紹介していて、非常に印象に残っていたのでした。通 常長期記憶は大脳へと書き込まれるのですが、それができなくなってしまったために、10分後には記憶がなくなり、自分が何をしていたのか分からなくなってしまう。そうなるともうひたすらメモを取り、それを外部記憶装置として持ち歩くしかない。実際、その人は会話をしているうちに何を話していたか忘れてしまうので、ビジネス手帳に全てを書き込み、常にメモを貼りまくっていたのでした。
 そうかその手があったかと、結構忘れ物の多いワタシはその人を真似て、という訳でもないのですが常にビジネス手帳を持ち歩くようにしたのでした。しかしやってみても結構メモすること自体を忘れたり、手帳をどこかに置き忘れたりするのであります。飲み会でしこたま食べたあと家の近くの回転寿司に入り、そこで何故か手帳を忘れ、次の日回転寿司に行ったことすら忘れていたので、店から直接電話がくるまで(手帳に書いてあったのだ)おろおろしていたというしょうもない経験があります。短期記憶しかないのにどうしてメモすることを忘れたり手帳をなくしたりしないのかな……ひょっとして、脳に障害のある人よりワタシの方がレベルが低い? まあしかし、そのようにして実際に生活している人がいるのも事実なのです。
 「メメント」は「思い出の品」を意味する言葉。「メメント・モリ」(死を想え)というすてきな言葉が向こうにはあります。映画「メメント」の主人公は、自分の妻が暴漢に殺される場面 に出くわし、返り討ちにあって脳を一部損傷し、この「前向性健忘」に罹ってしまったのですが、それが冒頭から語られるわけではありません。映画の冒頭、主人公がテディと呼ばれた顔見知りらしい男を銃殺するシーンから始まり、そこから過去へと戻っていくのです。
 正直、「うーん、やられた」と思いました。以前にNHKでこの障害の話を観た時、小説のネタに使える、とは思ったものの、応用が思いつかないでいたのでした。監督はまだ31才の新鋭ですが、弟が大学の講義で興味を持ちこれを題材に短編小説「メメント・モリ」を書き、その映画化を引き受けたのだそうな。実際、短期記憶しか持てない主人公に感情移入できるように、話が少し進んだ所でその前の場面 に戻る、という他の映画にはない進行の仕方をしているのは巧いと思いましたね。これだと10分前の自分の考えていたことが分からない、という主人公の行動の脈絡のなさもすんなりと納得できるというわけ。
 主人公は自分の妻が殺されたその瞬間までの記憶は持っていて、その後必死になって犯人を追うのですが、なにしろ記憶が続かないので自分の体にメモを刻みつけ、自分のポケットにメモ付きのポラロイド写 真をため込んでいる。しかしメモは改ざんされる危険もあるし、目まぐるしく変化する環境の全てを記録できるわけでもない。相手はその気になればいくらでもごまかすことができるわけで、これは文字通 り泥沼にはまったような危うい状況と言えます。
 冒頭に主人公が殺した男は果たして真犯人なのか、目の前に立ち現れる人物は自分の敵なのか味方なのか、自分に残されたメッセージのそもそもの根拠は何なのか……これは伏線を張った物語というよりは、伏線だけが手がかりとなるような非常にややこしい作りになっています。そのせいか一緒に見に行った人達は必ずしもマル、とは言い難いみたいですが、アイデアの新しさと新機軸へのチャレンジ精神にはやはり脱帽。実際には短期記憶しかない人間がそこまで執念を持って復讐のために走り回れるかどうかはなんとも言えないのだけど(何しろ走っているうちに自分が追っているのか追われているのか忘れてしまうのだから……)。


【CD】コルンゴルト「歌劇"死の都"」

 だいぶ前、まだ学生の頃だったと思うのですが、「アリア」という映画を観たことがあります。著名なオペラのアリアの一部を、色々と趣向を凝らした映像と合わせて繋げていった作品でした。何曲か知らない音楽もあったのですが、その中に一つ、「コルンゴルト作曲、歌劇"死の都"」と題した小曲が紹介されていました。古いヨーロッパの街並みに雪が降る場面 から始まり、宮殿の中のように広く暗い寝室の中で、男女がアリアを歌いあい、そしてすっとその姿が消えていく……という10分にも満たない短い映像でしたが、その旋律は非常に美しく、強く印象に残ったのでした。「死の都」というタイトルも、当時「死の都市(NECROPOLIS)」という作品を描いていたこともあって非常に気になった理由の一つです。
 その後深夜にノーカット放映され、さっそく録画して、その部分ばかり聴くようになりました。「死が二人を分かつことはない。いつの日が二人が別 れ別れになったとしても、二人はまたよみがえる……」死を運命づけられた恋人達の歌、といったイメージで、旋律の優美さはいかにもロマン派のものという印象でしたが、正直な話、当時手元にあった「大作曲家とそのレコード」全三巻にもコルンゴルトの紹介はなく、店に行ってカタログを調べても「死の都」全曲版のCDはなくて、気にはなっていたものの通 して作品を聴く機会がなかったのでした。
 ところがついこの間、なんとなくネットで探し物をしていて、偶然コルンゴルトの名前を見つけたのであります。早崎隆志著「コルンゴルトとその時代」という本の紹介でした。「爛熟した後期ロマン派和声を駆使しながら、7歳で歌曲やワルツ、9歳でカンタータ、11歳でバレー音楽を書き上げた少年がいたとしたら、何と呼んだらいいのだろうか?」という書き出しで始まる紹介文はなかなか刺激的で、良く読むと音楽作品も最近CD化されているらしい……というわけでさっそくネットで早崎氏の著作と歌劇「死の都」全曲版の購入を申し込んだのでした。早崎氏の本の出版は98年3月、ラインスドルフ指揮の全曲版CDの発売は今年の7月で、ある意味タイミングが良かったのかも。
 全曲版を聴いてみて、初めて映画で取り上げられていたアリアが、第一幕半ばに歌われるこの曲の聴かせどころ「リュートの歌」であることを知ったのでした。6分程の短いアリアで、優美な旋律の歌が終わった直後に、一緒に歌っていたマリエッタという人物が「間の抜けた歌ね!」とあざけりの言葉を投げ掛けて急遽曲調も変ってしまう……実はこの場面 は、妻のマリーに死なれて傷心している主人公パウルの元に、マリーとよく似た踊り子マリエッタが現れ、「歌もまあまあ歌えるの」と言って自分の歌声を披露する場面 なのでした。
 「死の都」とはベルギーの古都ブルージュのことです。ついこの間出張に行ったので、まだ記憶に新しい……あらためて録画した「アリア」を観てみると、確かに行ったところのある場所が……もっとも、春にそこそこ天気が良い時に訪れた時と、雪の降る暗い映像の印象はだいぶ異なるものでしたけど。
 この歌劇はローデンバックの短編「死のブルージュ」をベースにしていて、その作品はまだ読んだことはないのですが、ポーの幻想小説のような「死体愛(ネクロフィリア)」をテーマにした暗い物語の様です。コルンゴルトの父親はこれに大幅に手を加え、殺人の場面 を夢オチにし、ハッピーエンドにすることによってウケを狙ったらしく、その結果全体を通 して聴いてもあまり暗い印象はなく、「リュートの歌」に代表されるロマンチシズムが全編を包み込んでいます。とはいえやはり先輩のマーラーのどこか退廃的な曲想を思わせる旋律は当時のウィーンの音楽ならではという気もしますが。

 コルンゴルトが生まれたのは1897年のウイーン。父親は当時ワーグナーを攻撃したハンスリックの後継者である音楽評論家。9歳の時にカンタータを作曲し、マーラーを「天才だ!」とうめかせ、11歳で書いたバレー音楽「雪だるま」はウィーン宮廷歌劇場で演奏されセンセーションを巻き起こし、18歳の時に仕上げたオペラはブルーノ・ワルター指揮で初演され、プッチーニに絶賛される。名作「死の都」を書き上げたのも22歳の時。まさにモーツァルトに匹敵する、というかある意味それを上回る神童だったわけで、マーラーとかワルターとか、私がハマった人達の名前が続々出てくるだけでなんかもう喜んでしまうのでした。しかしユダヤ系だったためにナチスに追われ、アメリカへ渡り映画音楽に携わって二度アカデミー賞を受賞するも、「映画音楽家」のレッテルを貼られ結局ウィーンに戻れないまま一生を終わったとのこと。天才が才能を発揮できる場というのは、20世紀に入ってかなり限られてきているというのが現実なのかも知れません。



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