8月


【漫画】古屋兎丸「自殺サークル」

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」とは、カミュの「シシューポスの神話」の冒頭の言葉。すなわちそれ以外のことなんか遊戯に過ぎないということ。「自殺」という言葉の響きにはある種の魅力がつきまとう。そうでなくても日本では自殺は美化されてきたのだし、「自らを押し殺し」「自腹を切る」ことは今でも美徳として通 用するし。自分でも中学の時に書いた短編小説をもとに「標準自殺問題集」という漫画作品を描いて、持ち込んで玉 砕したこともありましたが、同年代の鶴見済氏の「完全自殺マニュアル」がベストセラーになって「くそ〜同じこと考えてたのに〜」とちょっとくやしい思いをしましたっけ。もっとも「ゴタクはもう聞き飽きた」「今必要なのは、自殺を実践に移すためのテキストだ」という前書きで始まる同書は、やっぱりある意味ゴタクの多かった自作よりもカッコ良かったわけでして。
 自殺のことをあれこれ考えるのは好きだけれど、どうやら今のところ実行に移す気配もないです。やはりこういうことは自分なりに大義名分が必要なので、そうそうなんとなくできるってもんでもないみたい。失敗したらえらく痛い思いをしそうなのが単にいやなだけだったりして。でもこれってえらく消去法的な理由ですよね。「今死ぬ わけにはいかないんじゃあ〜!」って言えるほど強烈な意志や目的が欲しいところです。
 確か以前に掲示板(最近こちらがろくにメンテナンスしていないためえらくサビシイ状態になってますが……)に「自殺サークル」のことが書かれていた時は、忙しかったせいもあって殆ど確認もしませんでした。それが映画・ノベルズ・コミックで同時展開された作品だと知ったのはつい最近のこと。コミックを貸してもらうことになった時にあらためて思い出したような次第。時既に遅く、どうやら映画の方は公開が終わっているみたい。地方ではまだやっているところもあるようですが……。
 映画およびノベルズは園子温によるもので、映画には永瀬正敏、さとう珠緒、宝生舞、嘉門洋子らが出演とのこと。一方コミックは女子高生の集団自殺という出だしの設定こそ共通 しているけれど、基本的には古屋兎丸氏のオリジナル作品らしい。物語の冒頭、女子高生が集団で鉄道自殺を遂げ、たった一人だけ生き残るという事件が起きる。その集団自殺は「光子」と呼ばれる一人の女子高生が仲間を集めて引き起こしたものだったが、その「光子」はさらにそれ以前の集団自殺で唯一生き残った人間だった。「光子」は伝染し集団自殺を引き起こしていく存在らしい……。
 死を招く憑依現象を描いたホラーとも取れるし、自らだけでなく他人をも傷付けずにはいられない思春期の心理を描いた作品とも取れるし、伝染していく異常な集団心理を描くことによって人間の不条理を告発した作品にも思えるという、シンプルな構造の割には読後感に強く残るものがある独特なテイスト。う〜ん、この作者もほぼ同年代なんだよなあ。なんか共通 した一種の「ムード」を感じるのはなぜでしょうか。
 作品では友人を救いたいと思う主人公の思いは空回りを始め、不気味な連鎖反応はそのままくすぶり続けます。ある意味現代ならではの「死の舞踏」の物語かも知れません。
 それにしても50人近い人間が並んで線路に飛び降りて、ちゃんとみんな死ねるものなのかしら。人間は結構重いしかさばるので、通 勤電車レベルでは全員轢き殺せないんじゃないかしら。かなりの人間が死にきれずに体の一部を引きちぎられてやたら痛い思いをするんじゃないかと思うんですけれど……。


【漫画】松本大洋「ピンポン」

 ピンポンといえば……そもそも野球は夏場に好きな番組の時間帯を勝手にずらしてしまう迷惑物、サッカーは子供の頃の嫌な思い出、水泳は人前で着替える時から情けなかったという運動音痴の自分が唯一「それなりに」できるスポーツであります。それなりにできるったって、ちゃんとやっている人から比べたら練習台にすらならないレベルではありますが、高校、大学の体育の授業ではとりあえず卓球だけは楽しく参加できたのでした。
 実際地味なスポーツだし、ダイナミックさはないし、見ていて盛り上がるってもんでもないけれど、その分テーブル二個分のスペースがあれば充分プレーできるという気軽さがありますね。この間「不思議発見!」でやっていたんですが、なんでも19世紀のイギリスで、テーブルにシャンパンの瓶を二本立ててその間を紐で結んで、その両脇で丸くしたシャンパンのコルクを葉巻の箱で打ち合ったのがそもそもの始まりらしい。シャンパンのボトルにコルクの玉 か! なるほど何となく縁があるのだな! これはもう葉巻も吸うしか……(訳分かんない〜)
 基本的に「あしたのジョー」(漫画板)と「侍ジャイアンツ」(アニメ版)以外のスポーツ漫画にからきし興味のない私としても、卓球なんて地味なスポーツを題材に作品が描けるとは思っていなかったんですが、それを見事やってのけたのが、今回映画化されているこの松本大洋氏の「ピンポン」。そのまんまの題名であります。真面 目で技量はあるが闘争心のない、眼鏡をかけた笑わない男「スマイル」こと月本君と、その幼なじみで破天荒だが負けると泣いてしまう「ペコ」こと星君の高校卓球一直線の物語。無表情ながら、相手が死ぬ 思いで後のない戦いを挑んでくる中国人留学生だったりすると思わず手を抜いてしまう「スマイル」君に思わず感情移入してしまうのですけれど。でも「鉄コン筋クリート」でも知性も体力も並外れたクロが10まで数を数えられない相棒のシロに依存しているように、相手の力量 を計算して攻撃することが可能な「スマイル」君も、卓球で世界を制すると堂々と口にできる「ペコ」君を超えられない。「陰」の主人公と「陽」の相棒との対比はこの作品でも鮮やかです。視点は常に「陰」の側にあり、「陽」の側はしばしば意味不明な言葉を発する理解不能の存在として描かれます。そして「陰」の主人公は悩み、絶望し、身悶えしながらそれでも自分を磨いていくのだけれど、最後には「陽」が存在するからこそ自らも生きていける、というところに落ち着かざるを得ない……。そういう意味で、「鉄コン筋クリート」もこの作品も、必ずしも後味は良くないんだけれど、なんか「分かる、分かる……」とつぶやいてしまうのでした。やっぱり自分も「陰」の側に近いからかしら。しかも松本作品の登場人物達には全然及ばないレベルの……。
 どうせなら映画も観ようかなと思って単行本を買ったんだけれど、読み終わったらなんか満足してしまって結局観に行っていないな……。映画版では俳優達の素振りに合わせてピンポン玉 を合成しているそうで、「それじゃ違うだろ!」と思ってしまうのですが。もちろん実際の卓球の試合ではそうそうラリーも続かないので、という苦肉の策なんだろうけれど、そこはやはり構図やカット割で工夫すべきじゃないかと。もっとも松本作品の魅力はその独特の絵にあるので、実写 ではつらいだろうなあ。


【漫画】松本大洋「ナンバーファイブ」

 「ピンポン」の単行本を買ったら、巻末に最新作の宣伝が載っていたので、興味をそそられて買ってしまったのがこの「ナンバーファイブ(吾)」。カラーの表紙絵はどことなく牧歌的でヨーロッパの絵本といった雰囲気。中央に立つ主人公二人の絵の部分だけ浮き彫りになっているという凝った作り。スピリッツ増刊IKKIに連載されているそうですが、そういう雑誌があったことすら知らなかったなあ。普通 にコンビニに置いてあるスピリッツ増刊とは違うらしい。
 さて、本屋で一巻、二巻を買ってそのまま渋谷のビアホールで一人飲みながら一気に読んでしまったのですが(普通 一人で入らないよな……)、これが文字通りの傑作。雰囲気からすると「鉄コン筋クリート」の雑然とした世界に近いんだけれど、より洗練されていてスケールが大きい。描線はずっと抑制されていて、それでいて迫力がある。止まった絵で迫力のある画面 が作れるのは実力派の漫画家の一番の才能の証と思うのですが、追う者と追われる者との殺し合いと、意味なく画面 に登場する動物達のとぼけた鳴き声とが何の違和感もなく同居しているあたりはやはり独特です。一見のどかなんだけれど、普通 の動物達に混じってライオンと羊をかけあわせた「ライオンシープ」なんてものがさりげなく出てきたりしてどこか危なげ。フルカラーのアニメーションとかにして欲しいところだけれど、この世界を再現できるほどの個性のあるアニメ作家でないと無理だろうし、下手にデジタル処理とかされても多分興ざめだろうし……。
 ストーリーは実は単純明快。近未来、世界に君臨している国際平和隊。その選りすぐりの九人のメンバー「紅組」から一人のスナイパーが脱走を図る。それを残りのメンバーが追撃する、というそれだけの話なんだけれど、登場するキャラクターも舞台となる未来社会も過剰なほどのイマジネーションで彩 られていて目が離せません。
 王として君臨する青年ナンバー・王(ワン)を筆頭に、スピードマニアのブレインであるナンバー・仁(ツー)、覆面 の巨漢ナンバー・惨(スリー)、外見は子供だが実年齢100才の双子の妖術使いナンバー・死(フォー)、天才的なスナイパーのナンバー・吾(ファイブ)、元王でもあったうるさがたの老人ナンバー・岩(シックス)、平和主義者のナンバー・亡(セブン)、部下達の人望厚いナンバー・蜂(エイト)、クラシックを愛好する優しいエリート青年ナンバー・苦(ナイン)。ナンバーの呼ばれ方は英語読みなのにわざわざ日本語読みで漢字を当てはめているところからして、思わず「カッコイイ!」と思ってしまうのですが、この世界に散らばっている超人九人で世界を守っているという構図からして結構ぶっ飛んでいるような気もします。その上彼ら超人達を遺伝子工学で作りだした「パパ」という科学者は、痩せて眼鏡をかけた老人にも関わらず、常にウサギの着ぐるみを来て登場し、部屋にはぬ いぐるみが一杯という有様。その格好で「ブレードランナー」に出てくる社長よろしく「意識の潜在下に私への畏怖がある。私がお前をそのように創り上げたからだ」などと超シリアスなセリフをしゃべるのだからたまらないですねえ。
 九人の「紅組」の一人スナイパーの「吾」が、マトリョーシカという名の女性(美女でも超能力者でもなく、単に大食いなだけの丸っこい普通 人、というところがまた泣かせます)を誘拐して逃亡を図り、ナンバー「苦」がそれを追って狙撃され絶命するところから話は始まります。この第一話の二ページ目で撃たれてしまってそれから後は回想シーンでしか登場しない「苦」が、ヒロシ君という日本人で、七三分けの眼鏡という「ピンポン」の「スマイル」君そっくりなところもなんか哀しくていいです。「紅組」の出動が単独と決められているがために、「苦」が倒された後は「蜂」が、その次には「亡」が、と一人ひとり脱走者「吾」を追っては返り討ちに遭い、彼らの治めていた領土はそのまま「王」の直轄地となっていく……単行本の二巻目は、「岩」が倒された後に、双子の不気味な能力者「死」が「吾」に挑戦するところで終わっていて、まだまだこれから、という印象ですが、SFともファンタジーとも異なる、グロテスクさと牧歌的な風景の混在したこの作品、先が楽しみです。


【対談集】宮崎駿「風の帰る場所」

 rockin'on出版、渋谷陽一インタビューによる対談集。ファンタジックで基本的に悪人の出てこない作品で知られる宮崎氏は、実際どちらかというと毒舌家なところもあって、ここら辺絵を見ただけでエグイ気持ちにさせてくれるホラー漫画家の楳図かずお氏とかが悪態とは無縁の人であるのと比べてもなかなか興味深い話です。なぜ悪人が出てこないんですか、という問いに対して、「本当に愚かで、描くにも値しない人間をね、僕らは苦労して描く必要はないですよ! みんなヒーヒー言ってねえ、もう安い賃金で、肩を凝らしながら夜中まで明かりをつけてゴソゴソやってね、それで描きたくもないものをなんで描かなけりゃいけないんですか」……まあ、そりゃそうかも知れませんが。

「子供は可能性を持っている存在で、しかも、その可能性がいつも敗れ続けていくっていう存在だから、子供に向かって語ることは価値があるのてあって、もう敗れきってしまった人間にね、僕は何も言う気は起こらない」

 ディズニーや手塚治虫のアニメーションに対する批判も徹底しています。私から見るとむしろシュヴアンクマイエルやクエイ・ブラザーズ、川本喜八郎といった孤高の映像作家と比べると、メジャー志向・大衆志向・ハッピーエンド志向という点でディズニー作品、手塚作品、宮崎作品はある意味一括りにしていいように思えるんですけれど。もちろんこれはディズニー作品も手塚作品もメジャーだからといって侮れない、という意味合いを含めてのことですが。同じジブリでかわりばんこに作品を出している高畑作品に対しても批判的なのが面 白い。「あれは要するに『百姓の嫁になれ』って演出家が叫んじゃったわけですからね。東京の中でなにをゴタゴタ言っているんだよっていう「パクさんはもう作品作らないほうがいいなと僕は思ってますよ」……当然ながら庵野秀明「エヴァンゲリオン」ともなると「いや、三分と観られないですね。観るに堪えないですね」
 個人的には、「カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」の四作品が完成度が高く、どちらかというとそれ以降の作品はどこか食い足りないように思えてしまうのですが、作者本人も「『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』『カリオストロ』と、四本作った段階で『ああ、四角になった。これで当面 終わったな』と思ったんですよ。それでしばらく休みたいと思って『魔女の宅急便』やって。これは休むために若いスタッフを立ててやってもらうはずの作品だったんですよ。だからこれは五角形に入ってないんです」と述べていて、ある意味納得した面 も。実際宮崎作品が「作れば当たる」と言われるようになったのは「魔女の宅急便」が20億円稼いでから後の話で、この後は興行収益は倍々になっていくのだけれど、それ以前の作品は10億円に満たないある意味赤字商売。しかしやはり作品の完成度という点では先の四作品の方が上というのが正直なところです。何よりもその内包する世界の豊潤さにおいて。「紅の豚」や「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」になると、敢えて「カタルシス」や「対立」「死」といった要素を避けてしまっている分、売れるのは分かるけれど何か釈然としないような気がします。手塚作品があまりに「登場人物の死」を多用することに対する反発があったようですが、かえってそれによって後半無難に話が進みすぎるような印象があるのです。もっともそのことについては、分かっていながらあえてやっている節がありますけれど。
 最後にちょっと印象に残った一文を引用してみました。

宮崎「……どうなんでしょうね。生き物ってのは、そんなにいつも充足して、満たされている状態が生き物なんですかね。それが究極の目指すものなんですかね」
渋谷「〜というか、最終的には我々は幸福になれないといけないと思うんですよね、僕はね」
宮崎「いや、ならないのが生き物なんじゃないですか」

 



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