10月


【舞台】L.Products「新撰組列伝〜諂曲螺旋」

 てぃんかーべる同様女性だけで演じられる「新撰組」。新撰組の新しい隊服が配られるところから始まり、局長芹沢鴨の横暴と暗殺、長州藩出身であることを隠して入隊した及川俊太郎の死と、それに連なる間部兄弟の死、そして池田屋事件へと流れ込む物語を、どちらかというと彼らの日常生活の描写 を主体に進めていく舞台で、一部見事な剣術(実際に日本綜武館本部道場の剣術指導を受けたそうです。)シーンがあるものの、全体としては語りが基調となっています。
 近藤勇、土方歳三、沖田総司といったおなじみのメンバーも、どちらかというと物語の導き役というよりは傍観者的な立場ではあるものの、さもありなんといった形でそれぞれ魅力的なキャラクターとして演じられています。皆が芹沢の顔色を窺う中平気で隊服の色をけなす土方(「魍魎の匣」で久保竣公を演じたてぃんかーべるの湖条圭子さん)が、自分に手紙をくれた女の真似をしてみたり、近藤勇演じるエルさんが茶屋の主人を演じてそれを見た隊員達が慌てるなどといったお遊びのシーンもあって、なかなか楽しい場面 が多かったような。
 その一方で、結核を患いながらそれを隠している沖田の、慕っていた芹沢を自ら切るシーンの、苦悩と死への憧憬をうちに秘めながらの平静とした語りっぷりには共感を覚えました。そういったシーンでは黄泉こと黒猫が登場して「悪い子はだあれ?」と沖田の心情告白をする演出が取られているのだけれど、私的にはちょっと余計な気がしたのですが。この黄泉の存在がなくても、沖田役の言葉と演技全てがちゃんと彼自身の死生観を語っていたと思うので。「好きな人を切るとき、その人のことをもっと好きになる」と屈託なく答えるこの青年の心情に思わず引き込まれてしまう。「自分は真ん中にいる。だから一人でいるか、そうでなければ周りの者全てを切るしかない……」というセリフも考えさせられます。
 思い出されるのは司馬遼太郎の「新撰組血風録」。映画「御法度」の原作ともなったこの作品は、司馬遼太郎の出世作であるとともに、新撰組のメンバーを取り上げた連作短編集の体裁を取っていて、今回の舞台の沖田の童顔ながら天才的な剣術使いで、いつも微笑みながら何を考えているのか分からないといった性格描写 もこの作品に負うところが大きいような気が……。そこであらためて読み返してみると、この短編集の中の「芹沢鴨の暗殺」などは今回の舞台にセリフの一部が重なるほど引用されていました。実際、その後の凡百の新撰組ものもこの作品の影響下にあるようで、本当のところはどうなのかなあと思わないでもないです。新撰組は実際強かったようですが、近藤も土方ももともとはもっと冷たい性格で、それだけに人望もあまりなかったんじゃないかとしら。土方などは函館戦争の時に味方から撃たれた、等といった説があるくらいですから。彼らの日常生活が切った切られたばかりのものではなく、そこに連帯感があったのは確かでしょうが、隊員内での粛正を繰り返した新撰組が映画や小説で語られるほど甘い組織であったとは考えにくいですね。今回の舞台で重要な役回りの及川俊太郎や間部兄弟に特定のモデルがあったのかどうか、ちょっと気になります。(世の中には「新撰組大事典」とかいう本もあるそうな……)
 ある意味維新を遅らせたとさえ言える新撰組がここまで人気があるのは、司馬遼太郎の上記の作品や、手塚治虫の漫画「新撰組」(萩尾先生をはじめとしてかなりの女流漫画家に影響を与えたらしい)の存在もさることながら、時代に流されつつ時代に逆らおうとした彼らの「戻れないからこそ突き進むしかない」というある種得体の知れない「情」の様なものに、ある種の共感を覚えるからなのかしら。猛然と突き進む力は組織に活力を与えますが、その一方で組織を短命に終わらせてしまい、ひとりひとりの人間の思いは目的達成のために押しつぶされ、焦りと自己不信から立ち止まることさえ出来ず、無我夢中の後には喪失感だけが残される……それなりの力を独力で身に付けたにも関わらず、獄死・戦死・病死と志半ばにして達成感を得ることなく若く死んだ彼らの一生は、たとえ命を掛けた剣術の世界に身を置いていなくても、決して他人事ではないような気がするのです。



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