12月


【映画】スピルバーグ「マイノリティ・リポート」

 フィリップ・K・ディックの原作は文庫本で70ページ程度の短編ですが、映画ではさらに物語を継ぎ足して、2時間以上の長編映画に仕上げています。これは丁度映画の「トータル・リコール」が、同じくディックの短編を結末を変えて引き延ばしているのと同じ手法です。
 予知能力者「プレコグ」を使う犯罪予防局により、犯罪者が犯行前に逮捕される世界。しかしその犯罪予防局の長官である主人公ジョン・アンダートンは、よりにもよって自分自身が見知らぬ 相手を殺すと予言され、警察に追われることになる。彼は予知能力者の三人が同じ予知を行ったのではなく、多数決で破棄された少数報告(マイノリティ・リポート)があることを手掛かりに自分の無実を証明しようとするが……。ここまでの基本設定は原作も映画も同じ。ただし結末は大分違う……というより原作のラストを否定した形とすら言えます。原作では予知のシステム自体は否定されないけれど、映画はこのシステム自体を非人道的なものとして否定する形をとります。
 これはある意味難しい問題だなあ。三人の人間を犠牲にして犯罪発生率をゼロに抑えることが本当に可能なら、思わず「いいんじゃない?」と言ってしまいそうだ。何も悪いことをしていないのに快楽殺人者に捕まって地獄のような苦痛の果 てに無残に殺される、なんて目に遭うのはまっぴらだし、予知能力者だって死ぬわけではないのだし。確かにこのシステム自体が悪用される可能性もあるのだが、それは全く防げないわけでもないだろうし。そもそもシステムの悪用という、間接的に殺人を招く行為自体が予知される可能性もある……そこまでは無理かしら? あまりに頻繁に起こりすぎるかな?
 原作があくまで知的ゲームの域を出ないように意識的に抑制されているのに対し、映画は予知された犯罪がぎりぎり時間内に阻止されるオープニングから、「A.I.」を思わせるスピルバーグ定番の「安らぎに満ちたラスト」に至るまで、娯楽に徹しながらも「自由」を第一とするテーマ訴求に徹している点がやはり大きく違います。文庫本の解説によれば、当初この「マイノリティ・リポート」は「トータル・リコール」の続編として企画に上がったものの、制作会社のカロルコがなくなってしまってお蔵入りしていたらしい。私自身は映画の「トータル・リコール」も「マイノリティ・リポート」も実は気に入っていますけれど……。ディックの原作は短編ゆえにあっさりした印象で、「このアイデアをここで終わらせてしまうのは勿体ない!」と思わせる内容なので、さらに二転・三転する映画版の方がある意味楽しめるなあ。下手に長編作品をなぞって映画化して失望させるよりもうまい手法ではないかしら。
 エレベーターと高速道路が一緒になったような交通機関「マグ・レブ」や、不気味だが愛嬌のある網膜探知ロボット「スパイダー」など、視覚的に面 白い道具が満載で、参加したデザイナー達のセンスの良さが印象的。網膜IDが個人識別 の基準となっている設定もリアルです。もっとも主人公が長官の時に使用していた網膜IDは、犯罪者の烙印を押された段階で普通 権限を剥奪されて使用できなくなるんじゃないかなあ、いくらなんでも。


【小説】Daniel Keys「FLOWERS FOR ALGERNON」(「アルジャーノンに花束を」)

 同僚が原書でトム・クランシーの本を読んでいるのを見て、そうだよなあこれからは英語で本くらい読めなくちゃと、私が選んだ洋書がキースの「アルジャーノンに花束を」でありました。あまりにも有名なこの小説は、タイミング良くユースケ・サンタマリア主演でドラマ化されたので、結構沢山の人が読んでいるんじゃないかと思います。ろくに字も書けなかった精神薄弱児のチャーリーが、脳外科手術を受けて急速に知能が増大し、そしてやがて元に戻ってしまうまでを一人称で追った物語で、一応知能増大という架空の技術が使われているのでSFに分類されるとは思うのですが、同じ形式の作品がある意味あり得ない、という点で前例のない唯一無比の小説になっていると思います。
 これを選んだ理由はただ一つ、知能の低かったチャーリーが「経過報告」という形で日記風に話を進めていくので、英語の場合も段々と最初から中盤に向けて文章が高度になっていく……つまり英語の不得手な人間でも最初から読めないってことはないし、徐々にレベルが上がっていくわけだから読み進めやすいに違いない、と思ったのですね。まあその予想は半分は当たっていたのですが、なにしろ出だしのチャーリーはまともに単語の綴りを知らないので、逆にこの言葉がもともと何だっただろうかと連想しなくてはならないわけで、結構大変……最初「operashun」って一体何のことだろうかと思いましたよ。「operation=手術」のことだったんですね〜。
 調子に乗っていられるのもほんの最初のうち。物語の上では三月のはじめに手術を受けたチャーリーは、その月の終わりには文法書を片手に英語を殆どマスターし、30ページ目くらいの段階でこっちは辞書を引かないといけなくなってきてしまうのでした。五月の半ば頃、68ページ目当りで既にチャーリーは大学生のレベルの低さに憤慨してたりするわけで、ある意味私の英語レベルなんか1ヶ月位 で追い越されたのだと言えましょう。以前は意味を知っていたはずなのに今はよく分からない単語とかぽろぽろ出てきて、そうか後半知能の衰え始めるチャーリーがすらすら読めた筈の本を見て「何が書いてあるのかさっぱりだ」というのはまさにこんな心境かしら、などと思ったりもして……。
 そういえば以前、私はこの作品について自分の作品集にこう書評を書いたのでした。
「物語のあらすじだけ述べると、なんだ人間少しくらいバカな方がいいってことか、程度の作品にしか思われないかも知れないが、この小説が主人公の日記という形で一人称で語られる為に、文章も書けずに、ただ利口になりたいと願っている主人公が、やがて一つ一つ物事を理解し始め、そして今まで見えてこなかった周囲の人々の本当の姿を知っていく様が、非常に感情移入しやすいように出来ているのである。映画版の方が今一つなのはそのためだ。いかに俳優がうまく演じたとしても、それは単に精神薄弱児の真似をしている俳優を見ているだけで、主人公の見た世界を体験するという行為にはつながらないからである。」
 映画版とは「まごころを君に」の題で(映画のタイトルは「Charly」) 1968年の作品のこと。主演のクリフ・ロバートソンはこれで確かアカデミー賞を獲得した筈ですが、ビデオで観た限りではそれほど真に迫る演技という印象ではなかったのです。ただ母親がこの映画を観ていて、子供のころ話して聞かせてくれたことがあったので、ある意味物語のあら筋だけは知っていたのでした。その意味ではこの作品は自分にとっては一つの小説作品というよりも、どこか童話や昔話のように刷り込まれているような気がします。
 映画版に対しては否定的だし、年末まで放映されていたドラマにも違和感がないわけではないのですが、正直な話今ではこの小説を映像化したいと思った人達がいること自体いいなあと思ってしまうのでした。この小説は小説だからこそ成功しているのは分かっているのに、絵にしたくなる、そう思わせるパワーがあるのです。私自身、この作品をマンガ化したい、マンガ化すればきっと凄い作品になる、と本気で考えています。読んだ人を夢中にさせる、どこか説明難い魅力があるのです。
 もともと知能が低く、それが急速に高められ、そしてまた衰えていく……そんな希有な体験をした人はおそらくはいないでしょうが、それでも誰もがチャーリーの感情に引き込まれてしまう。思えば誰でも、産まれた時は白紙の状態なのだから、チャーリーのような状態を必ずどこかで体験しているわけで、彼のことを本当の意味で異質の存在だと言い切れる人はいないはずです。そしてまた、知力が衰えることも、ある程度歳を取ってしまった人間にとっては決して人事ではありません。チャーリーの体験はすなわち人ひとりひとりの体験にどこかでつながっています。そして彼の運命も、結局は私達ひとりひとりの運命と重なっているように思うのです。



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