【映画】メル・ギブソン「パッション」
チャールトン・ヘストン主演の映画「ベン・パー」は、イエス・キリスト誕生の場面
から始まり、その磔刑のシーンで終わる。四時間近い物語の間、キリストは一切顔を見せず、観客はその後ろ姿や足元しか見ることができない。テレビでこれを最初に見たのは小学生位
の頃で、その時は「キリストは恐れ多いから、俳優の顔を見せるわけにはいかないのだよ」と母親から説明されたように記憶しているが、実際この手法は効果
的で、画面を右から左へと動き回る人間達の物語とは違う次元の、上から見下ろすような神秘的な存在に対して、ある種の説得力を持たせているように思われた。
メル・ギブソン監督の「パッション」は、それとは全く対象的だ。人間としてひたすら痛めつけられるイエス・キリストの悲惨な姿を、カメラは情け容赦なく真っ正面
からアップで映し出す。赤く純血した眼球に反射する光までも暴き出さんばかりに、ありとあらゆる苦悶の表情が画面
一杯に広げられる。先に金具のついた鞭がイエスの背中に打たれると、皮膚に引っ掛かり、引き抜かれると同時に血飛沫が跳ね上がって、次第に肋骨までが露になっていく。その後に仰向けになった体に再び鞭が打たれるのである。十字架の左手に釘が打ち込まれ、その後に右手を打ち付けようとすると、所定の位
置に届かない。処刑人達は右腕を紐で引っ張り、やがて肩の関節が外れる音がする。その後にやっと右手にも釘が打ち付けられるのである。ひたすら痛めつけられ、血を吐く肉体。そこに神秘はない。最後まで『神』らしき存在は現われず、二時間近く延々と死に至る拷問の場面
が続いた後、死せるキリストを抱くマリア……無言の「ピエタ」の画面と、石の上に乗せられた血に染まった釘、金槌、いばらの冠のアップで物語は終わる。エンディングロールの直前に、申し訳程度にキリスト復活のシーンが添えられてはいるものの、全体としては捕虜虐待の再現フィルムのような印象で、そこには救いはない。この処刑の有様を見て一体人間の何を信じろと? 悪魔は姿を現わすのに、神はその片鱗すら見せない、というこの映画は、ある意味「神の不在」こそテーマにしているのではないかと思えるほどだ。
米国では歴代興行成績第七位にまで昇りつめたこの作品、日本での反応は今一つのようで、行った映画館も空席が目立った。「Yahoo!」の映画サイトでは「騒ぐほどの映画か? 殆ど拷問じゃねえか」という意見もあったが、キリスト教になじみのない多くの日本人にとってはそれが正直な感想なのかも知れない。キリスト教国においては、イエスの受難が芸術の中心的なモチーフであり続け、ルーベンスやエル・グレコなどの絵画の例を挙げるまでもなく、ヨーロッパのどの国へ行っても十字架の図や彫刻が日常生活の中に溶け込んでいる。そういう伝統を踏まえた上でのある意味アンチテーゼだと考えれば、「臭いものに蓋」「水に流そう」がモットーのこの無宗教の国では、はっきり言って「ついて行けない」という人が殆ども無理はない。これはその宗教の教義に対する知識の有無とはおそらく無関係であり、たとえ仏教とは付き合いが長いからといっても、病気で苦しんで死んでいくブッダの有様を延々と描いた映像作品、などという代物は今後も作られそうにない。その意味では、こんな映画化を可能にするキリスト教というのは相当生々しい宗教なのだとあらためて思い知らされた。劇場では女の人が「宗教法人○○福音教会」なんてパンフを配っていたが、やはり日本では「キリストの生涯を真剣に考える」という謳い文句はどこか怪しげな雰囲気になってしまうようである。
全編をあえてイエスが生きていた時代のアラム語とラテン語で統一し、英語の字幕で見せる、という独創的な手法は、結果
としてはセリフがそのまま耳から入ってくるのを妨げ、より視覚的な物語として仕上げることに貢献している。「セリフなんかなくてもいいんだ。どうせみんな知っている話じゃないか。画面
にだけ集中してくれればそれで十分だ」という作り手の声が聞こえてくるようだ。その意味では非常にメッセージ性の強い作品と言えるだろう。中世絵画を参考にしたという古典的な画面
作りとは裏腹に、物語の演出はある意味どこかホラー的で、まとわりつく子供の顔が一瞬、片目が裏返り醜く崩れていくというユダの幻覚のシーンや、
イエスに鞭打ちをする場面に現われる老人の顔をした赤児を抱くサタンなどは、ある意味悪趣味と言ってもいいくらいインパクトが強く、魅力的である。製作にあたってはカラヴァッジオの絵を研究したとされているが、私にとってはむしろマティアス・グリューネヴァルトの作品の方が近いイメージに思える。1512年頃描かれたという「イーゼンハイム祭壇画」のキリストは、口を大きく開き、顔を歪め、体には無数の切り傷があり、非常に痛々しい。それまで主流だった、彫刻的で無表情な宗教絵画に親しんでいた人々は、相当ショックを受けたのではないかと思う。ちなみに、「死刑全書」(原書房)によると、磔刑の際釘を手のひらに打つと体の重みで手が裂けてしまうため、釘は手首に打ち付けたという。また、かかとを台で支えることもなかった。実際の磔刑は映画で描かれるよりももっと残虐で苦痛を伴うものだったようだ。
監督のメル・ギブソンは、バイオレンス映画「マッド・マックス」でデビューしたアクション俳優、というイメージが強いので、こういう宗教的なメッセージ性の強い作品を作るというのは意外、と当初考えていたのだが、見終わった後、案外通
じるものがあるのかも知れないと思うようになった。「マッド・マックス」の、家族を殺された恨みを忘れず、復讐を終えた後も沈痛な面
持ちでスクリーンの中からこちらを睨んでいる主人公の表情は、絶え間ない嘲笑を浴びせられながら、ひたすら肉体的な苦痛を与えられ続けるこの映画の主人公と、どこかで繋がっている……。超越者であるがゆえに個々の人間には無関心な神、絶対的な悪であるがゆえに滅びることのない悪魔……そのどちらでもなく、愛を説き苦痛にさいなまれる人間としてのイエスが信仰の対象となった時、人は自らの苦痛に、悲痛な運命に、呪わしい性に、直接向き合うことになったのである。
人間は神のように傲慢にもなり、悪魔のように狡猾にもなれる。神性も魔性も、どこか遠いところにあるものではなく、人という存在の中にもとから住みついている。キリスト教は迫害と殉教によって多くの血を流し、その後西洋世界に広まってからは十字軍と魔女裁判でやはり多くの血を流した。「汝の敵を愛せ」という言葉は、逆に残虐な為政者達にすら自らの行為に対する口実を与えることになった。最初にキリスト教に改宗したローマ皇帝コンスタンティヌスは、有能な息子を殺し、それをそそのかした後妻を熱湯に放り込んで殺した。どんな宗教もそんな真似は許してはいないが、ただキリスト教だけが「全てを赦す」というので、その信仰を受け入れたという逸話がある。その話の信憑性はともかくとして、盲目的な服従を良しとする宗教は、冷酷な支配者にとっても、権力にかしずく卑怯者にとっても都合が良かったことは確かだろう。本来ユダヤ教の中の一つの新興宗教でしかなかったはずのキリスト教が、その枠を越えてヨーロッパ中に広まり、なおかつそれが必ずしも愛と寛容が全ての宗教として定着しなかったのは、ある意味無理もない。イエスを嬉々として拷問にかけた者達は、別
にその場で何の報いも受けてはいないのだから、これほど善人にも悪人にも都合の良い教えはあるまい。人は僅かの悔恨を心に残しつつも、少しばかりの懺悔の言葉を口にしておいて、「大丈夫、神様はどうせ何もしない」と納得して寝床に就いたことだろう。「何もしない神」だからこそ、安心して人間達はそれを奉ることができたのではないか。どうひいき目に見ても救われない、拷問の上での処刑という生々しい現実を始まりにして、一つの宗教がここまで広く長く伝播した理由は、他には考えられないような気がしたのである。
【映画】エンキ・ビラル「ゴッド・ディーバ」
ブルーグレーの空を古ぼけたタクシーが飛び、鳥の頭をした裸の男が顔を上げる。「『ブレード・ランナー』も『マトリックス』もここから生まれた」とのあおり文句は、ホントかしらと思いつつも、印象的なヨーロピアンスタイルの映像には目が離せませんでした。映画「ゴット・ディーバ」のコマーシャル。なるほど、どこかで見覚えがあると思ったら、エンキ・ビラルの作品でしたか。
ニコポル三部作が紹介されたのは、「デザインの現場」92年12月号のフランスBD(バンド・デジネ)特集。BDとは直訳すれば「デザインの帯」。スタイルは漫画なのですが、フルカラーのイラストでつづられた上質な絵物語といった雰囲気。当時ビラルのSF短編集「OUTER
STATES」の英語版を買ったのですが、ぱらぱらと素早くめくって物語を追う日本の漫画とは違った意味で映画的。画面
の隅から隅までびっしりと描き込まれていながら、構図と画面の緩急の付け方で冗長さを感じさせない。ニコポル三部作の方は、確か邦訳が出たと記憶していたのですが、今回の「ゴッド・ディーバ」はその作者本人による映画化。それまで表紙絵しか観たことがなかったのですが、確かに三部作の表紙には鳥の頭の男と青い髪の女が描かれていましたっけ。
ストーリー自体は非常にシンプルですが、道具立ては非常にユニーク。2095年のニューヨーク上空に現われたピラミッド。その中で、ジャッカルの頭をしたアヌビス神と、猫の頭をしたバステト神が、鳥の頭をしたホルス神に刑を宣告した上で、七日間の猶予を与える。ホルスはその間、人間の都市に降り立ち、青い髪で青い涙を流す女ジルと「交配」するために、人間の男に乗り移ろうとするが、数々の改造手術を受けた人間達の体はホルスの体を受け付けず、乗り移られた人間は次々と「爆死」し、結果
として連続殺人事件が起きてしまう。ホルスは結局、反乱を起こした罪で冷凍睡眠コンテナの中に閉じこめられていたニコポルに目を付ける。彼の体は生身のままで汚染されていないからだ。ホルスを受け入れざるを得ないニコポルは、ジルと出会い、そしてそれを追う異形のハンターらの襲撃を受けることになる……。
全体をブルーグレーの色調に押さえ、異様な緊張感の中で、動物の頭をした神や、シュモクザメの頭をしたハンターなどどこかグロテスクながら場違いなキャラクターを配するビラルの独特の美学が全編を包んでいて、観ていて不思議な心地良さを覚えます。「バンカー・パレス・ホテル」や「ティコ・ムーン」といった過去の映画作品に共通
するトーンを持ちながら、よりずっと楽しめる内容に仕上がっているような印象。もっとも、主役級の三人の俳優を除く他の登場人物は全てCGで、そこら辺の映像的な処理は今一つしっくり来ないものがあったのですけれど……。
映画に触発されて、河出書房刊行のニコポル三部作原作本も購入。違いを確認することにしました。三部作は全て一冊一冊がオールカラー60P程度の厚さで、そのページ数の中で映画一本分位
のストーリーを語ってしまう……それくらい濃密な仕上がりになっています。第一部「不死のカーニバル」では、映画では不明確なピラミッド内のエジプト神達の目的が明らかにされています。彼らは不滅の肉体を持ちながら、燃料を要求して2023年(ちょっと近すぎないか……?)のパリの上空にとどまっており、パリ市長は自らに不死を与えることを条件に彼らと交渉しようとするのです。ホルスの目的は、この市長の座を乗っ取り、パリとピラミッドの同胞の両方を制圧すること。ジルの登場は第二部「罠の女」からで、第一部で陰謀が露見し宇宙へ飛ばされたホルスは、精神病院に監禁されたニコポルと再び同化して彼女と巡り合う。物語はニコポルとうり二つの息子ニコポル二世がからんでさらに複雑化し、がらりと趣向が変わる第三部「冷たい赤道」へとなだれ込みます。一冊わずか62ページしかないのに、三部作を一つの映画作品に収めることはできなかったようで、映画が原作としているのは第二部まで。映画ではニコポル二世も登場せず、数々の登場人物も整理されてます。
一冊二百ページ近くある単行本が、十巻、二十巻と続かないと漫画家自身生活できない日本に比べ、一冊60ページの「アルバム」を二年に一度出版するだけで充分やっていけるフランスのBDの世界はうらやましい限りですが、それだけ競争が厳しく、発表の場が少ないのも確かのようです。ビラルの様な一握りのアーティストだけが世界を相手に作品を発表できるわけで、実際、いくら時間を与えられてもあれだけ濃密な作品を描ける作家は日本にはあまりいないでしょうね。
シュールレアリズムの異端児にして最も有名な画家、ダリの全集(講談社)には、彼自身が「魔術の50の秘密」という著書に記したという芸術家を採点した表が載っていて、どの画家を崇拝していたか、その証言が明確に残されています。それによると最も高い評価が与えられているのがフェルメールで、「技術
」から「創造性」に至るまで殆ど20点満点(何故か「構図」の項目のみ19点)であり、ラファエロやダ・ビンチよりも上にランクされています。ダリ自身も採点の対象になっていますが、先輩ピカソよりも上にランク付けしていながら、「天才」と「霊感」の項目だけは譲っているのがご愛嬌。ちなみにブーグロー、マネなどの評価は低く、モンドリアンに至っては殆どの項目で0点を付けています。同じ著書には「画家を志す者のための10の掟」というものも記されていて、そこでは「君がもしも、近代芸術がフェルメールとラファエロを凌駕したと考えるような輩なら、この本を読まず、おめでたい愚直さの中に安住し続けたまえ」とまで言い切っています。
ダリの作品「食卓として使えるフェルメール・ファン・デルフトの肖像」で初めてオランダの画家フェルメールの存在を知ったものの、自由奔放な不条理世界を描いたダリと、生真面
目に室内の人物画ばかりを描いたフェルメールは正直な話殆ど結びつきがないように思われたのですが、フェルメール作品の鮮やかな色合いと緻密な筆使いが、ダリの滑らかな油絵の仕上がりに影響を与えているのは確かの様です。実際、ダリの油絵は描線自体を消してしまっているので、鉛筆やペンによる素描の方が優れているという意見もあるものの、やはりあの独特の世界を描くには、リアルで滑らかな筆使いの方がより幻惑的で適しているように思います。
さて、そのフェルメールですが、1675年に42才で死去するまで、30数点の油絵を残し、その殆どは室内の人物画。その生涯は不明の部分も多く、自画像すら残っていない。ある意味近代になって再評価されるようになった「忘れられた画家」でした。その地味ながら珠玉
の作品群の中で、もっとも人気があるのが「真珠の首飾りの少女」。黒い背景の中で、こちらを振り向く少女。頭には青い布を巻き、服は黄色。口元はかすかに開き、真珠の耳飾りには微かに窓が映っている……。シンプルで無駄
がなく、黄色と青色のコントラストが見事で、それでいて確かにこの小さな真珠がなければ全てが台なしになりかねない。ダ・ビンチの「モナリザ」の、あの張りつめたような笑顔とは違った、幸せそうにも悲しそうにも見える不思議な表情は、確かにフェルメールが創出した全く新しい表現と言えるかも知れません。物の本によると、フェルメールの繊細な筆使いは、眼とイアリングの曲率の違いすら表現しているとのこと。ひたすらきめ細やかな描線と、光学的な効果
への考察へのこだわりが、人間の内面の繊細さまでも表現することを可能にしたのでは……。
この傑作を題材に作られた映画ということで、これはもう観ないわけには……と思って劇場へ足を運んだのですが、単館ロードショーとしては結構人気がある様で、土曜の朝一番の回に行ったにも関わらずほぼ満席状態。物語は、住み込みの女中としてフェルメール家に雇われた少女が、女主人や娘達にいじわるをされながらも、フェルメールに認められて肖像画に描かれ、そして追い出されてしまうまでを淡々と描いていて、好きな絵画作品であるだけに変にワザとらしい現代風の演出とかされたら嫌だなと思っていただけにある意味非常に納得できる仕上がりでした。随所にフェルメール作品に描かれたオブジェがさりげなく登場して、上野で「絵画芸術」を観てきたばかりの私としては思わずにやり。「どうしても真珠の耳飾りが必要だ」とのフェルメールの主張を受け入れて、少女が一粒の涙を流しながら自らの耳たぶに穴をあけられる場面
は特に印象的。主演のスカーレット・ヨハンソンは、「ロスト・イン・トランスレーション」にも出ていて、どちらかというとその尖った顔立ちはフェルメール作品には合わないのではと考えていたのですが、実際に観てみるとそうでもないかなと思ってしまったのは、やはり演技力のなせる技なのでしょうか。
帰りに原作本を買ってぱらぱらと流し読みしたのですが、ラストシーンは若干映画と原作では印象が異ります。映画版は主演のヨハンソンの意見を取り入れて修正を加えたとのことですが、今回の作品に関しては余韻を残した映画版の方が正解のような気がします。少女の一人称で語られる原作本は、細かい考察のもと物語に一つの決着を与えているのですが、やはりフェルメールの絵画作品そのままに、少女の表情は読めないままにしておいた方が良いように思うのです。
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