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【映画】マルジャン・サトラピ「ペルセポリス」

 ペルシャの古都、「ペルセポリス」という題名の海外モノクロ・アニメーション作品が公開されるのを雑誌で知って、さっそく観に行ったのでした。ものものしいタイトルとは裏腹に、内容的にはサトラピ監督の自伝的グラフィック・ノベルをそのままアニメ化したもの。サトラピ監督は1969年イラン生まれの女流イラストレーター。革命に揺れる激動のイランで子供時代を過ごし、14才でウィーンに留学するも挫折、一度帰国し、再び1994年にフランスに渡ってイラストやグラフィック・ノベルなどを発表し成功を収めたというなかなかユニークな経歴の持ち主。
 冒頭は監督自身である成人したマルジが、パリの空港でテヘラン行きの飛行機を眺めながら回想するシーンから始まります。現在のマルジのシーンのみカラーで、後は全てモノクロ。革命により王制が倒れ、自由が得られたと思ったのも束の間、思想的に弾圧を受けるようになってしまう中で、学生になっても反抗的な態度を取り続けるマルジは、追及を避けるために両親によってヨーロッパへ送りだされますが、意外にも失恋の痛手から放浪、死にかけることになります。傷心のまま故郷に帰ったものの、周囲に馴染めずノイローゼに。結婚してすぐ離婚、再びヨーロッパに渡るところで映画は終わります。
 あらすじを追っただけでは、この作品のユニークさをうまく伝えられないのですが、強いて言えば、シンプルな描線とフラットな画面 によって、処刑が繰り返される恐怖政治のシーンと、主人公の個人的なレベルでの失恋シーンとが、全く同じウェイトで描かれているところでしょうか。どうやらこれは監督自身の意向らしく、実写 映画にしてしまうと、あくまで異国の世界の話に思われてしまうから、あえてモノクロアニメーションにしたとのこと。処刑のシーンなどは、ただ目隠しをされた無表情の人々がその場に倒れていくというシンプルな描写 になっていて、残酷でありながらどこか物悲しくユーモラスに描かれています。主人公にとっては実際に身の上に起こること全てが在る意味等価値であり、政治的弾圧も心理的圧迫もどちらも同じ重みで人生にのしかかってくるということが、実感できる訳です。
 これは自伝なので、パリに渡った主人公にはその後グラフィック・ノベルの大成功が待っているわけですが、映画で描かれるのは、テヘラン行きの飛行機に乗ろうとして乗ることができず、1人無言で煙草を吸う姿だけ。パンフレットに載っているサトラビ監督の写 真は、女優のように胸を張ってポーズを取っていますが、中東とヨーロッパの間で引き裂かれたとでも言うべき精神の分裂状態は、もしかしたら今も続いているのかも知れません。
 映画も原作も、空港で主人公を見送る祖母が、そのまま亡くなったことに触れて終わります。振り返ってみれば、この作品の真の主人公はマルジの祖母であったのかも。強い意志を持ちながらも、環境に流されがちな主人公に比べ、地に足のついた祖母のセリフは、その一つ一つが非常に大切に扱われていて、含蓄のあるものとなっています。「怖れが人に良心を失わせ、卑怯にさせる」……個人的に身に覚えのある人もいるのでは? この言葉は戦争に明け暮れる国のことにも、世の中でうまく立ち回ろうとあえぐ個人のことにも、共に当てはまるような気がします。


【映画】原田真人「魍魎の匣」

 「魍魎の匣」については、1999年に「てぃんかーべる」の舞台で、見事に京極作品が視覚化されていたので、映画化も可能だなと漠然と感じていました。小説の映画化にもいろいろあって、作品によっては一字一句変えて欲しくないようなものもあれば、さほどセリフにはこだわらないようなものもあるわけです。横溝正史や司馬遼太郎などの作品は、基本的にセリフも淡々としているので、意外と自由に料理できてしまう気もするのですが(偏見?)、京極作品はそういうわけにはいかないので、小説の中のセリフの一つ一つを大事に扱っていた「てぃんかーべる」の舞台版「魍魎の匣」には非常に好感が持てたわけです。
 さて、今回故実相寺監督の「姑獲鳥の夏」映画化の後を継ぐ形で、原田真人監督により「魍魎の匣」が映画化されたわけですが、まあ既に上映時間2時間13分という段階で既に不安ではありましたが、観ているうちに違和感が……映画「姑獲鳥の夏」を観た時以上の違和感が……。もしかして製作者達は原作をちゃんと読んでないんじゃないか? とすら思わせるような違和感が……。
 パンフレットで監督のインタビューを読んで、あらためて納得。原田監督は映画化の依頼が来るまで原作は読んでいなかったわけですが、1952年を舞台にするにあたって役者達に当時の映画……「第三の男」などを見せて、それを真似るようにまで指示したとか。映画の中で久保は「第三の男」のオーソン・ウェルズの真似をし、木場は映画館に入りびたり、京極堂に至ってはステップを踏んで「チャップリンもフラメンコも陰陽道に由来する」とまで言い出すのであります。どれもこれも本編にもキャラクターの性格設定にも何の関係もないシーンだし、ただでさえ時間が足りないのに無駄 にしか思えなかったのですが。ベストセラーの小説は読んでいなくても映画は皆が観て当然、というわけなんですね。映画好きなのは結構ですが、もっと原作にこだわりのある人に監督してもらいたかった、と思うのは私だけでしょうか。
 京極堂は最後の最後まで何故かドタバタ調で、一方榎木津は原作での軽快な持ち味を全く見せることはないのです。少なくとも「トリック」で上田教授を演じた阿部寛なら充分にその素養があるのに……。木場は原作では重要な役回りなのに殆どいてもいなくてもいいような扱いで、これでは単なる映画女優のファンが事件に首を突っ込んだだけに過ぎないから、ラストで原作通 りに「木場の旦那は立ち直るだろうか」とか言われても場が白けるだけであります。立ち直るも何も話にからんでないんだから。
 原作のキャラクターがそのまま映画に反映されるとは限らない、というのはまあ仕方ないにしても、原作のミステリとしての構造、物語としての構造を改竄しているのは問題だと思われます。原作では冒頭のシーンがラストシーンに繋がり、犯罪の結果 がそのまま別の犯罪の動機づけとなるという、美しくも息苦しい円環を紡ぎだしていて、それがそのまま行き場のない「匣」の首題へと結びついていく、まさにそこがこの作品の最大の特徴であり、凡百のミステリを凌ぐ傑作たらしめているポイントなのですが……。 映画版ではこれを単に「分かりにくいから」という理由でばっさり切り落としてしまっただけでなく、事件の順番まで変えてしまっているので、結局犯人が何故生きたまま被害者の手足を切断したのかは説明のつかないまま……結果 としてミステリでも幻想でもない、何だかよく分からない作品になっているのです。
  映画は小説を一字一句なぞるものではないし、長大な700ページの小説をそのまま2時間枠に収めるのは無理、というのは百も承知ですが、それを言い訳にして勝手に小説作品を改竄されてはたまらない、というのが正直な感想です。


【映画】ギレルモ・デル・トロ「パンズ・ラビリンス」

 倒れて血を流す少女の顔のアップから、この映画は始まる。一気に物語世界に引き込まれる……と同時に、これが単なる妖精や魔物に取り囲まれているだけのファンタジー作品ではないことを思い知らされる。舞台は第2次大戦下のスペイン。少女の母親は、再婚相手の大尉の元へやって来るが、その男は人を殺すことに何らためらいを覚えない典型的なファシストだった。ゲリラ達は大尉とその部下達のいる山奥の駐屯地を取り囲んでおり、既に何人かのスパイはその屋敷の中に入り込んでいる。不安な政情をそのまま凝縮したようなその場所で、少女は不気味なパン(牧神)と出会い、王国の王女となるべく試練を受けることになる。
 ハリー・ポッターやナルニア国物語のような、現実が顔を出さない訳ではないおなじみのファンタジー映画だと思って観に来ていた人は意外と多いようで、映画の終了した時には、「こんな暗い映画だったとは……」と何人かが囁いていた。ある意味無理もない。半年近く前にこの映画の紹介をテレビで観た時も、スペインのダークファンタジーが意外と評判を呼んでいる、程度の認識しかなかった。ただ、スペインの作品ということで、ハリウッド的な勧善懲悪物ではないのだろうなとは漠然と感じていた。
 スペインのファシズムは他のヨーロッパとは事情がやや異なっている。ドイツでもイタリアでも、ファシズムは第2次大戦の主犯として断罪され、ヒトラーもムッソリーニもある意味見事に「倒された」のだ。いまだにハリウッドでは、ナチスを敵役にした勧善懲悪映画が作られている。ハリウッドの世界観では、少なくともファシズムは悪であり敗者なのである。しかしスペインでは、独裁者フランコは最後まで倒されはしなかった。スペインの自由主義者達は国際的に孤立し、第2次大戦が終了すると、フランコはファシストとして断罪されるどころか反共主義者として連合国側に歓迎され、その体制はそのまま温存されたのである。事は「正義は勝つ」といった単純な形で終結することはなく、ただそのままなるべくして自然消滅しただけだった。いや、もしかしたら消滅すらしていないのかも知れない。「ゲルニカ」を描いたピカソは故郷を捨て、「内乱の予感」を描いたダリは故郷に居座ったが、いずれにしても内戦を経験した20世紀のスペインの画家達の作品にはどこか「生々しい非現実」とでも言いたくなるような、独特の世界観があるように思われる。
 この映画は、ハッピーエンドかそうでないのか、観る者によって色々と意見が異なるかも知れないのだが、少なくともファシズムを倒してめでたしめでたしという結末にはならない。子供から大人への成長の物語ですらないのだ。現実のスペインがそうならなかったのだから、ある意味当然である。少女の出会うパンは、山羊の角を持ち、どこか悪魔的な禍々しい姿をしており、彼女は最後まで相手を信用することができない。現実から逃避したくて辿り着いた幻想の世界も、少女にとっては現実の不安感をそのまま反映したようなものとなってしまう。古代ギリシャの牧神は、キリスト教世界では悪魔と同一視されたこともあり、勧善懲悪の成立しない不安定な世界をそのまま象徴しているとも思える。 パン、といえば「ピーター・パン」の物語が思い出されるが、この古典的名作の中で、ピーターは剣で大人たちを血祭りに上げていく危険な存在として描かれていることを思い出す必要があるだろう。
 ファシズムはある意味、大人のファンタジーである、と何人かがパンフの中でコメントしていた。ファシズムという幻想に囚われた大人は、ファンタジーの世界に生きる子供よりも、より現実離れした怪物に近い存在となるのだ。そう言えば、ファンタズムとファシズムは言葉自体実に良く似ている気がする。
 毎日、二万人もの子供たちが飢餓で死んでいくと言われている。今も昔も、あらゆる場所で、殺し合いの続く世界の中で、無数の少年少女達がただ一方的に殺されるだけの人生を終えていく。気が遠くなるほどの一方的な殺戮と忘却の連鎖に思いを馳せてみよう。無為に使い捨てにされたいのち……その中で果 たしてどれだけの数の子供達が、この作品の少女と同じように、その最後の瞬間に夢の世界に行き着くことができたのだろう……思わずそう問いかけずにはいられなかった。


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