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【映画】コーエン兄弟「ノーカントリー」(日比谷シャンテ・シネ)

 コーエン兄弟の映画作品には独特のトーンがあります。自ら招いた災いに最期まで翻弄される常識人、とでも言うような……。第80回アカデミー賞最多部門(4部門)受賞の話題作ではありますが、今までコーエン作品に慣れ親しんで来た人にとっては、今回の作品もすんなり同じ系列に属するものとして受け入れられるはず。いや〜コーエン作品は毎回期待を裏切らず面 白い。面白いけどひどい話なんで今一つ人に薦めるのを躊躇してしまう、とまあ今回もそんな感じ。
 主人公(というべきなのかな、やっばし)のリウェイン・モスは、たまたま砂漠で麻薬取引現場での殺し合いの後に遭遇し、散らばった死体の中に残された大金を出来心から盗んでしまう。ところがやはり出来心から一人死にかけて水を求めていた男に水をやろうと思い立ち現場に戻り、そこで追ってきた男達に身元がばれてしまう。
 金を奪ったモスを追うのは酸素ボンベから噴出される圧縮空気で相手を殺す風変わりな暗殺者シガー。おかっぱ頭でまともに人と会話のできないこの異相の男は、テキサスの田舎町ではそれでなくても目立ってしまうのですが、そんなことは構いなしに、この暗殺者は次々と関係者、あるいは無関係の人間達を血祭りに上げていきます。その手際の良さと命に対する無関心さは思わず笑っちゃうほどですが、やられる方に取ってみれば、冗談じゃないそんなことで殺されてたまるかというところ。
 しかし何しろ相手が持っているのは、拳銃でもナイフでもなく酸素ボンベ。変なやつと思いつつも、誰も逃げようとはしないのであります。この暗殺者シガーはその意味では非常に象徴的なキャラクターで、登場した当初は物語の途中で退場しそうな単なる敵役にしか見えないのですが、次第にこの男が最強最悪の「死の遣い」であることが明らかになります。「現実とは無慈悲、不条理なもの」というコーエン兄弟にとって、シガーは世界の無慈悲さの象徴なのかも知れません。


【映画】ジェシカ・ユー「非現実の王国で〜ヘンリー・ダーガーの謎」(渋谷シネマライズ)

 昨年7月に原美術館「ダーガー展」を観た時、この作家と作品を取り上げたドキュメンタリー映画があって、その中ではダーガーの挿し絵をそのままアニメーションにして紹介しているということを知った。何とあの有名な子役俳優ダコダ・ファニングがナレーションをつとめているという。いずれDVDにでもなったらぜひ観たいものだと思っていたら、渋谷で公開されるというので、昨年末に前売り券を買っておいた。それくらい気になる存在ではあったわけである。
 親類も友人もなく、1973年にシカゴでひっそりと息を引き取った貧しい老人の部屋から、15,000ページの長編小説と数百枚に及ぶ挿絵が発見された…。たったこれだけのエピソードで、人の心を惹きつけるのには十分だろう。
 「親類も友人もなく、孤独に一人暮らしていた」という、極限の孤独状態が、誰に見せるわけもなく、ただひたすらに書き連ねられた異世界物語を生み出し、それが世界的に評価を得ているというのは、ある意味納得のいく話なのである。やはり別 格の作品世界を構築するには、親類とか知人とかいちゃいけないんじゃないかしら。今時いくら付き合いが悪いと言っても、誰も知り合いのいない、天涯孤独の状態など、なりたくてもなかなかなれるものでもないし…。
 ダーガーはそういう意味では、まさに完璧に孤立していたと言っても良い。孤高の芸術家ダーガーの生涯を追ったこのドキュメンタリー映画では、この人物の名字がダーガーだったのかダージャーだったのか、それすら定かではないと述べている。彼を知る者も、彼を毎日教会で見かけているにもかかわらず、「いつも最前列に座っていた」「最後列の特別 席にいた」「いや真ん中の列にいた」とまちまちの証言を行っている。
 残された長編は、おそらくは世界最長のファンタジー巨編。邪悪な大人達「グランデリニアン」を倒すべく立ち上がる7人の少女「ヴィヴィアン・ガールズ」と、それを守る聖獣「ブレンギグロメリアン」。そのシンプルながら異様な物語を、映画では残された挿絵をアニメーション化することによって、その雰囲気を観るものにうまく伝えてくれる。お花畑に遊ぶ裸の少女達と、その少女達を絞め殺し、切り刻む大人達。明るさと暗さの両極端の世界が渾然一体となった、不思議にカラフルな世界は、稚拙な筆致がそのまま現実の生々しさに繋がっていくような危うさを持っている。雑誌の写 真やイラストの切り抜きだけをもとに、テレビにも映画にもほとんど接することのなかった一人の人間が、なぜここまで彩 りに満ちた世界を構築できたのか、ある意味不思議な気もするが、大人が子供を殺し続ける世界は、彼にとっては決して頭からひねり出したものではなく、自分自身が体験した世界そのままに過ぎなかったのかも知れない。
 本人はこの膨大な作品を、誰に託すわけでもなく、そのまま自分の部屋の中に放置したまま他界した。大家がたまたま芸術に造詣のある人物だったから良かったようなものの、普通 であればそのまま誰の目に触れることもなく処分されても不思議ではなかっただろう。毎晩睡眠時間を削りながら書き続けた作品が、そのままうち捨てられても本人は平気だったのだろうか。
 読む者もいない作品など残してもしょうがない…昔ならある意味そう思ったかも知れないが、最近ではそれもある意味当たり前かも知れないなと考えるようになった。書きたい物があるから書くということと、それを人に読ませたいということは別 の物なのだ。全身全霊を傾けたのなら、それがもはや他人に読まれようが読まれまいが、たいしたことではない。ほめてもらいたい、共感を得たい、広く人に知られたいという欲求が伴わなくても、人は創作活動に専念できる。最後に死を迎えた時、自分の残した物がどれだけの数の人間の目に触れたかということは、意外とどうでもよいことなのかも知れないと、最近考えるようになった。ダーガーの「世界最大長編」は、世界各国で話題になっているのにも関わらず、本格的に翻訳されたという話も聞かないし、そもそも全編を通 して原語で読んだことのある人が日本にいるかどうかも疑わしい。その意味では、我々は彼の作品に魅せられるというより、彼の生涯、彼の創作への姿勢そのものに魅せられているのかも知れない。


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