「2000年私のベスト3」のコーナー


1.今年のベスト3

書籍

1.高見広春「バトル・ロワイヤル」(太田出版)
2.C.オコンネル「クリスマスに少女は還る」(創元推理文庫)
3.牧野修「MOUSE」(早川文庫)

その他

1.展覧会「死の舞踏」(上野西洋美術館)
2.映画「シュリ」(カン・ジェギュ)
3.コミック「EDEN」(遠藤浩輝)

 手元にある「手塚治虫ランド2」には、「手塚マンガは絶対絶命」という1977年頃の手塚氏自身によるエッセイが掲載されている。「198×年の同時新聞文化欄より抜粋」と銘打って、以下のような内容となっている。

「……さて今月の相姦一年生の連載マンガは、相変わらずといったところだが、中でも大河バイオレンスマンガ『嗚呼花の血判版』が相変わらずおもしろい。ことに今月号は五十八ページにわたりセリフなしの血しぶきと肉塊の地獄図であり、親が読んでわくわくする。ところで、手塚治虫作画のSF風メロドラマ『至れり尽くせり』だが、この作者はなぜこうも読んだあとぬるま湯につかったような欲求不満を残すのであろう……」

 子供が殺し合う作品がメジャーになっても、自分は何を言われようとメロドラマを描いているだろう、という作者本人の心情告白となっているが、実は手塚氏自身、「アトムの最期」という短編で、ロボットが人間を支配し、互いに殺し合わせるためだけに親となって養育している、という世界を描いている。子供が殺し合うというアイデア自体は、おそらく多くの創作家達が発想してきたものだろうが、大抵の場合ロボットやクローン、人工受精といったSF的な枠組みでオブラートにくるむ必要があった。
 「バトル・ロワイヤル」を首位に推したのは、単に作品自体の質が云々というより、それを巡る幾つかの現象……ホラー大賞落選、太田出版での刊行、映画化……といった動きも含めて色々と象徴的だったと思うからだ。この作品が「中学生42人皆殺し!?」という帯のあおり文句で当たりを取ったのは確かだろうが、中身は決して常軌を逸した殺戮物ではない。むしろ登場人物達の殆どが、何とかして殺すことから逃れようとあがいている。結果としてほぼ全員が死んでしまったのにも関わらず。何故全ての国家、全ての民族が基本的に殺人を最大の罪としていながら、人の歴史が殺し合いの連続でしかないのか、その縮図がここに表れていると思うから、人はこの物語から目をそらすことができない。

 命は失われる物だ。そして二度と取り返せない。勿論単なる「覆水盆に返らず」という現象は生命に限ったことではないけれど、取り返せない失われた物をいかにいとしく思うか、掛け替えのないものであったと思うかで、逆にその物の価値が決まるとさえ言える。「悲劇を書くなんで簡単だ、与えて奪えばいい」……確かそんな言葉をどこかで読んだような気がするが、それは確かにそうなのだ。でも命を含めて何もかもが過剰になっている昨今では、失われた物に気付くことさえ難しい。「与えて奪う」という技巧をまことしやかに論じるのは簡単でも、奪われたら気が狂いそうになるほど珠玉の存在を読者に「与える」には技巧以上のものが必要なはず。

「毎朝毎朝目が覚める度に、全部夢だったらって思うんです。本当は何もなかったことにして下さいって祈るんです……こんなお墓なんか存在しないことにして下さいって」

「クリスマスに少女は還る」が、他の連続殺人物以上に衝撃的でかつ感動的なのは、むしろ徹底して殺される側、奪われる側からの視点から物語を描いているからかも知れない。「死ぬはずがないでしょう?」そう繰り返し説得されるうちに、本当に死ぬはずがないような気がしてくる。朝のニュースも歴史の教科書も、人は死ぬものだと口を酸っぱくして説いているにも関わらず、自分もそして自分にとって大切な人間も簡単には死なないと暗示をかけている。ささやかな願望が自分に目隠しをかけているとも言える。そんな平凡な我々の感情に、作者オコンネルはまさに鮮やかに「与えて奪う」ことをやってのける。あまりに見事に与えられ、あまりに見事に奪われるので、うろたえて何度もラスト近くのページをめくり直したほどだった。

 映画「シュリ」の感想の中で、ヒロインは事態が悲劇的になっていくほど、表情が豊かに、存在感が大きくなっていく、と書いた。死という終わりがあるからこそ、生が輝く……言ってみればただそれだけで終わってしまう生命の本質。確か「ブレードランナー」のタイレル社の社長も、短命な人工生命のレプリカントに向かってそう言って殺されたけれど。

 漫画「EDEN」は、HIVウィルスとは全く逆の性質を持った硬質化ウィルスを扱ったSFであり、このウィルスに感染すると免疫系が暴走して細胞系自体が閉鎖状態となり、体皮が角質で包まれ中身が溶けて死んでしまう、という設定なのだが、物語は完結してはおらず、今の段階で作品の出来を云々するのは難しい。しかし第三巻の終盤には、そういった設定とは無関係な、現実の戦場でも起こりうる地雷を巡った延々30ページに渡る命の駆け引きがあり、その残酷な結末はしかし一読に値すると思う。

 上野美術館で開催されていた「死の舞踏」展も、そういう意味で印象深い展覧会だった。生者と死者が共存していた時代の一大スペクタクル。曰く、「生者は死者を進ましめる」……。死と向き合うことによって生を反省し、生きる物は皆死を前に平等であることを戒めるために描かれた版画や絵画。骸骨の踊りの多くは時としてユーモラスであり、必ずしも血生臭いものではないが、一方でブリューゲルの描く「死の勝利」のように、延々と死体が横たわる寒々とした風景もある。「バトル・ロワイヤル」に限らず、私が強くインパクトを受けた作品はある意味現代の「死の舞踏」であったと言えるかもしれない。生を知るために、死を知るということ。遠い昔、ネアンデルタール人が死んだ仲間を埋葬し、その墓に花を捧げた時から、おそらくそれは始まっていた筈である。


補)読後当時のホームページ用感想控え


「バトル・ロワイヤル」

 ホラー大賞落選、内容の過激さ故佳作にもならず、という話題の作品。しかしながら、少なくとも回りでこれを読んだ人で誉めない人はいないというほどの人気。映画化までされるそうで、内容がなにしろ中学生のクラスメイトが互いに殺し合うという話だから、本当に忠実に映画化してくれるのか、年齢上げて高校生とか大学生にしてしまうのではと少々心配だけど。読んでみて、思わずこれは「傑作!」と納得してしまった。厚手のノベルズながら、ページをめくるのももどかしくなるほどのスピード感、42名の生徒それぞれの個性の書き分けも巧みで、シンプルなのに印象の強い作品。これだけ盛り沢山の場面展開を行いながら、それぞれのエピソードが妙に心に残る。
 中学生の殺し合いなど社会的影響を考慮して活字化は見合わせるべきという判断が下されたといっても、実際に中学生が友人の首を切り、母親が保険金目当てに息子を殺すこの時代に、そんな優等生的自主規制はむしろ奇異に感じる。大東亜帝國が支配するこの作品世界では、政府高官の博打のために学校を無作為に選んで殺し合いをさせる。そしてその中で、数々の希望、夢、手の届くはずだったささやかな幸福が次々と砕かれていく。その不条理さは、しかしほんの数十年前の日本では当たり前だったはず。いや、過去の、現在の、戦争の行われている全ての場所で、互いに直接的には知らない者同志が殺し合い、関係ない者が巻き込まれ、何の理由もなく銃弾を撃ち込まれナイフで切り裂かれているのだ。「バトル・ロワイヤル」は、決して私達が一生巡り会わずに済む世界ではない。後一歩で分かり合えたかも知れない。後一歩で一矢報いることが出来たかも知れない。後一歩で逆転できたかも知れない……数々の場面で、踏みつぶされていく可能性。人は殺されれば死ぬ。そして死が避けられないものである以上、この世はそんな数知れない悲しみで満ちあふれている。人間社会の持っている最も残酷な部分を、ここまで凝縮して一つの「ゲーム」として具現化した例は他にあまりないような気がする。敢えて比較するなら、ゴールディングの「蝿の王」だろうか。「十五少年漂流記」の設定を借りながら、闇への恐怖から次第に野生化し、悲惨な殺戮へと駆り立てられていく少年達の物語だ。絶海の孤島に10代の少年達が投げ出されたら、仲間同士協力して生き残るか、それとも理性を失い自滅していくかという問いに対して、私はやはり「蝿の王」の方にリアリティを感じたものだ。(「蝿の王」は映画化されているから、そういう意味でも「バトル・ロワイアル」の映像化にさほど問題はないような気がするけど。)
 もし自分がこの殺戮ゲームに投げ出されたらどうだろう。友人もなく、体力もなく、機敏さもなかった中学生の頃を思い返すと、早々と自滅していたような気がする。少なくとも自分が戦場で役に立つような代物には思えないのである。それでいいのか悪いのか、実はまだよく分からない。命を大事と思うなら、生き残るのをあきらめなくてはならないという矛盾。それが他者の殺戮を強制されかねない人間社会の暗黒面の本質なのだろう。やはりそういう意味では、この作品は一級の「ホラー」なのだと認めない訳にはいかない。

「クリスマスに少女は還る」

 ちょっと前に例の少女連続殺人の宮崎勤の告白文かなんかを本屋で立ち読みしたことがあったけど、唯一印象に残っているのが「私があるつまらない出来事で逮捕された時」とか何とか言っているくだりでした。多重人格とかいや演技だとか色々話題になった記憶がありますが、私に言わせれば演技だろうがそうでなかろうが同じことだと思っています。
 さて、「クリスマスに少女は還る」ですが、久しぶりに読む海外ミステリです。「とにかくお勧めだから」と言われるままに買ってしまったのですが、確かにお勧め。原題は「JUDAS CHILD(囮の子供)」なんだけど、邦題の「クリスマスに少女は還る」の方が、この胸を締め付けられるような傑作には相応しい気すらするのです。クリスマスを目前に、誘拐された二人の少女。州副知事の娘グウェンと、その親友でホラーマニアの問題児サディー。10才にしてホラー映画をコレクションし、友達を恐がらせては喜んでいるというサディーのキャラクターに惹かれるけれど、その事件を追う性別の異なる一卵性双生児の妹を失っている警察官ルージュと、顔に大きな傷跡を持つ女性法心理学者アリも、それぞれにトラウマを持つ魅力的な人間として描かれています。気がつかないうちにしっかり感情移入してしまい、おかげで思わず結末が信じられなくて何度もラストを読み返してしまったほど。ミステリに「意外な犯人」や「超絶トリック」を求める人は、必ずしもこの作品を支持しないかも知れないけれど、大切な者を失ったことのある人にとっては、この物語に嫌でも共鳴せざるを得ないでしょう。

「MOUSE」

 子供の島「ネバーランド」の廃虚に住み着いているのは、ドラッグ漬けになった18才未満の少年少女達。彼らは自らを「マウス」と呼ぶ。全員が何らかの形でドラッグを使用しているので、皆がその副作用に苦しみ、かつ言葉で相手を「落とす」ことができるので、肉体の頑強さは必ずしも優位性を保証しない……。実に多様なイメージに溢れた、魅力的なSF作品です。子供だけの社会、というテーマは私も「KIDS」等のマンガ作品で描いていたテーマなんだけど、こちらの方はそこにドラッグを持ち込むことによってより夢と現実の境目のない不思議な空間作りに成功しています。子供の非力さも、精神力が現実を支配するネバーランドでは問題にならない、という設定も実にうまい。登場人物達も魅力的。夜のネバーランドを徘徊する切り裂き魔の「マイティ・マウス」、生きながら人形とされた「ティンカー・ベル」、精神を他人にプリントできる「ペヨトル」、夜空を飛ぶ光る生首「ヨカナンの首」、そして「ピクルス」「ウェンディ」「サロメ」……ネバーランドでは自分の名前を隠し字(あざな)で呼び合うため、それぞれのキャラクター達の名前にも微妙に意味付けがされています。5つの短編からなるこの作品は、最後の「ボーイズ・ライフ」でそれまでの個々の物語の登場人物達が一堂に会い、一つの収束を迎えるのですが、そのラストは少々あっさりしすぎているような気がしたので、無理に終わらせなくても良かったのではと思わないこともないですけど……。まあそう思ってしまうくらい、魔力に満ちた作品だと言えます。

「死の舞踏」展

 中世末期から現代に至るまで、骸骨が踊りながら人々に「死」を存在感をもって訴えかけていく作品群を集めた物で、それは宗教的な戒めであったり、伝染病の恐怖だったり、戦争の惨禍だったりを主題としているわけですが、さすがにここまで150点近い作品を眼にすると、少々しんどかったなあ。天気の良い休日にも関わらず観客はまばらで、ゆっくり見れたのですが、最後には結構疲れてしまった。なさけなや。ホルバインをもしのぐ細かさの16世紀のアルデグレーファーの7センチ×5センチのエッチングや、ダリやムンクの素描も「さすが」でしたが、一番印象に残ったのは、ザクロフスキーの「死の変奏曲」という20世紀の作品。柔らかくねじ曲げられながら空中に浮かぶドクロ……ダリやベーコンを思わせつつも、独特の雰囲気のあるその作風は私のモロ好みでもあり、この人の作品他にもないかしらと、本のコーナーを探した程でした。
 中には「黄金バット」を思わせる、マントを羽織って宙を舞う骸骨もありました。今実写映画でやれば案外面白いんじゃないかな、「黄金バット」。うわはははと笑いながら黒いマントで飛んでくる金色の骸骨、正義の味方にも関わらずそのあまりの不気味さにみんな逃げてしまう。うーん、「X-メン」をもしのぐ感動作になるぞ!

「シュリ」

 北朝鮮特殊部隊の潜入とテロを描いた話題の韓国映画です。小さい劇場でしかやっていないせいか、公開されてからしばらく経つのに未だに満員状態。銀座の劇場も、160名くらいしか入れないので一時間前に行ったのに、渡された整理番号が90番代でした。
 ストーリーはいたってシンプル。結構ハリウッド映画をパクっているところも多い。主人公とその相棒は同じ東洋人から見ても似すぎていて最初区別がつかないし、主人公だけは敵に取り囲まれてもすぐには殺されないし、温度が上がると赤色に変わる液体爆弾CTXという設定にしてもそれほど目新しくはないし。でも全編に流れる緊迫感は独特のもの。今の時代に北朝鮮の工作員を悪役に仕立て上げた娯楽映画を作って大丈夫なのかなと心配しちゃうくらいだけど、そこはそれ、単純に北朝鮮倒せ、なんて方向には持っていかない。うまく書かれた脚本です。しかしこういったシチュエーションが決して非現実ではない国であることを思うと、オーバーアクション気味に見える演出にも見過ごすことが出来ない凄さが感じられます。侵略も分断も経験したことのない日本では作られそうもないタイプの映画かも知れませんね。キーポイントとなるヒロインの描き方がとてもうまい。追いつめられ事態が悲劇的になっていくほど、表情が豊かに、存在感が大きくなっていく。死に向かうほど、生き生きとしていく。どんなに隠そうとしても、人には抑えられない感情がある……ラスト近くの無言の表情がそれを物語っていて、観る物に忘れられない印象を残してくれるに違いありません。アクア・ショップの魚、冷たいアサルトライフル、白い手編みのセーター……全ての小道具に二重・三重の意味付けがなされ、登場人物達の間に流れる哀しみの旋律を増幅してくれます。冒頭、北朝鮮工作員候補達の実践さながらの訓練が描写されるんだけど、これがまさしく「バトル・ロワイアル」を思わせる文字通りの「殺し合い」。生き残った者だけが凄腕の工作員として送り込まれる。本当にそんな訓練が行われているかどうかは分からないけれど(パンフによれば、実際に北朝鮮特殊部隊出身者の亡命者から取材したとか……)、戦争というものは本来そういう姿をしているもの。「バトル・ロワイアル」は大東亜帝國というパラレルワールドでのお話だったけど、こちらはまさに今そこにあるかも知れない現実。そのすさまじい現実を背負ったまま、登場人物は悲劇へとなだれ込んでいく。ここまで血しぶきが飛び交いながら、なおかつ涙してしまう作品というのは、実はそんなにお目にかかれるものではありません。もしかしたら、誰が悪い訳ではないのかも知れない……敵方の特殊部隊の隊長にだって言い分もある……しかし終幕の悲劇がどう転ぼうとも、癒されない傷だけが残る。失われる命というその一点にテーマを絞っているからこそ、このアクション映画は、余計なお説教もナレーションもなしに成功しているのだと思います。

映画「バトル・ロワイヤル」

 以前この本の原作を読んだ時は、ホントに映画化できるのか、年齢ごまかすんじゃないかと思ったものですが、遂に完成しましたね。しかも大入り満員、堂々の興行成績一位。この作品がメジャーであるということがいかにも象徴的だと思うぞ。しかも、監督は70才。正直この手の作品は若い人間でないとと思っていたので、かなり不安があったが、荒削りながらも原作のスピード感があまり失われていないのは良かったです。なにしろ、これは思想小説ではないし。原作自体、良く書かれているけど何か特別な思想を語っているわけではない。登場人物は、与えられた三日間の中で必死に逃げ回るしかない。不条理をそのまま受け入れてひたすら動くしかない。考えている余裕はないのだ。ただ、走るしかない……。だから原作には非常にスピード感がある。このスピード感が失われてはいけないのであります。もちろん、1300枚の小説を二時間の映画にするのだから、かなりの部分が削られていて大味になっているのは否めない。重要な人物である桐山や光子もかなり単純化されているし、三村のエピソードももう少し盛り上げて欲しかったんだけど……三時間とは言わないまでも、二時間半くらいは……。その分原作の坂持金発に当たる教師役のビートたけしにはかなり時間を裂いています。原作ではあくまで金八先生のパロディでしかない悪役なのだが(そこが発想の原点であると同時に、例のホラー大賞落選のポイントでもあったのだけど)、映画では子供を憎むと同時に畏れやあこがれも抱いているというやや矛盾を抱えた設定になっています。北野武そのままで演じて欲しいと言われたそうで、これは大人の立場で監督する以上ありそうなこと。でもできれば武田鉄矢にやって欲しかったな。イメージダウンが問題かも知れないが……本人がやっても良いといっても周囲が妨害するだろうけど。
 大味だとは思うけど、子供が殺し合うという一見殺伐な、しかし見事なまでにハートウォーミングなストーリーの作品が映像化され話題となっているというだけでも、正直拍手を送りたい気持ちであります。少なくとも賞の選考委員が考えているよりも、一般人は懐が広いということかな。


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