「短編小説」のコーナー

「評論/殺意の時代〜キューブリック・酒鬼薔薇聖斗・エヴァンゲリオン」



「人を善に導くことはできない。人々は、どこかある場所へ導かれるだけである。善は、事実の空間の外側にある。」
(ヴィトゲンシュタイン「反哲学的考察」より)

「"THE END OF EVANGELION"劇場版が公開され、これでやっと『新世紀エヴァンゲリオン』の世界にも決着がついたね」
「まあ放映当初から、この物語の一部は『エディプス・コンプレックス』を描いていると思っていたんでね。当然父殺しの話だとふんでいたんで、テレビ最終話の『父にありがとう』には激怒したものですが、劇場版ではゲンドウはしっかり初号機に頭からかじられるということで、そのシーンがあっただけでも満足ですな」
「まあ、エディプス・コンプレックスだけでなく、エレクトラ・コンプレックスしかり、そしてピグマリオン・コンプレックスしかりと、まさにコンプレックスのオンパレード。前回『不安の時代』と題して展開した議論はまあある程度は的を得ていたと言えるのかな?」
「補完計画が実行されて、キャラクター達が次々と肉体を失っていくシーンがあるんだけど、その時各々が求めた相手の幻に抱かれるようにして破裂していく。日向君はミサトに、冬月はユイに、伊吹マヤはリツコに……。みんな見事に片思いだったという……。つくづくすれ違いの物語だったのね……」
「基本的には、ドラマは最後に解決へ、和解へと盛り上がると思われている。しかし、現実の日常では、そうはならない。職場でも家庭でも、人は皆ちりじりとなっていく場合が多い。実際に周囲を見てもね、仲違いしていた人達か和解する、という現象と同じかそれ以上に、うまくいっていた人間関係が悪化していく、という状況も起こっているしね。あの人達まああんなに仲良かったはずなのにどうしたんでしょうねえ、とか、あの仕事の時にはあんなにチームワーク良かったのに今や見る影もありませんな、とか……。進歩と後退は同じくらい起こっている。いや、エントロピー増大の法則に従えば、使えないエネルギーだけが増加していき、秩序ある物が解体していくのは物理学的にも自然な成り行きなのかも……。近頃流行のカオス理論とか複雑系とかも、秩序は崩壊することを運命づけられていると述べているし。ドラマ的なものに幻想が持てない時代なんだとどこかの新聞記事に載ってたな。最近、少年・少女マンガ誌の発行部数が減少しているようだけど、若い人達が小説やマンガを読まなくなったのは、フィクションの世界に容易に溺れられなくなっているからなんだそうな」
「SFはともかく、ファンタジー系なんて流行ってるのかと思ってたけど? ゲームとかあれだけ普及しているんだし……」
「バーチャルという面ではともかく、感情移入という点では、創作物とゲームでは差があるんじゃないか? フィクションの世界でのお決まりのハッピーエンド的展開に、逆に慣れ過ぎちゃって、皆やや疑いの目を向けはじめているのかも」
「人生必ずしもハッピーエンドならず。というか、どこが終わりなんだか分からない。決着が着いたと宣言してもらえるわけじゃない。実際に死んでしまうまではね」
「……まあ、賛否両論あるだろうけど、完結編、やって良かったと思いますよ。シンジ君の笑顔で終わるちょっと嘘っぽいテレビ版に対して、登場人物殆どがいなくなってしまう劇場版では、アスカの首を絞めながらのシンジ君のすすり泣きで終わるという……。何というか、生々しかったのが良かった」
「何があったんでしょうか。監督の心境の変化というか……」
「知り合いの中では、あれは庵野監督が実際に女性に振られちゃったんで、ああいうラストになったんだとまことしやかに言っている人もいる。現実を直視しなくちゃダメなんだ、と言って現実に戻ってみたら、現実から拒絶されちゃったという……」
「それは随分と安易な……しかし、そう割り切っちゃえばえらく分かりやすくなってしまいますが」
「なにしろご本人が、あの作品はドキュメンタリーだと言い切っているくらいだから……」
「だが確かに……もともとアスカがシンジをそれ程迄に嫌う理由はほとんどない。にもかかわらず、次第に殺伐となっていく状況に置かれて、彼女には憎悪しか残されていなかったわけだから、彼女の徹底した『拒絶』には立派に根拠がある」
「『殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!』……そしてその時初めて、人形だった弐号機は内部電源を持たないのに手を上げる……強烈な殺意によって初めて弐号機は『暴走』しようとする。予想していたとはいえ、なかなかにすさまじい展開だった」
「そう、今回のテーマは、文字通りこのセリフそのものさ。前回のエッセイでは、幾つかの作品群を『不安』をキーワードにしてひもといてみた。今回はその漠然とした『不安』から発展して、『殺意』の誕生を考察してみたい」
「またそういう暗い話を……」
「何でそんなテーマを持ち出したくなったかというと……」
「どうせ例の『酒鬼薔薇聖斗事件』を持ち出す気だろう?」

「空想の中で、人は憎むものを破壊し、破壊したがゆえに所有しえないものを憎む。」
(R.D.レイン「自己と他者」より)

「エヴァンゲリオン」の第二十三話にはヘンデルの「メサイヤ」が、第二十四話にはベートーベンの第九交響曲が使用されていて、クラシック党の自分としてはなかなか心地良かった。
"Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt,
Alle Menschen werden Bruder, wo dein sanfter Flugel weilt."
『この世に冷たく引き離された者達を、神秘なる御身の力は再び溶け合わせる。御身の優しい翼の憩うところ、全ての者は同朋となる』 
 歌詞だけを追うと、まるで人類補完計画とやらをそのまま歌っているようにすら見えるが、最後の使徒でありシンジの唯一の理解者であったカオルが、やがて初号機に握り潰されるまでの間、この音楽が流れている。そしてそれは、不思議な調和を見せている。
 シンジの精神を結果的に叩きのめすことになるこのエピソードの中で、何故「歓喜の歌」が使用されるのか。
"Ja, wer auch nur eine Seele, sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle, weinend sich aus diesem Bund!
『そう、例えただ一人の魂でさえも、地上の友と呼べる者を持つことができるならば! だが、それさえ持つことの出来ぬ者は、涙しつつ惨めに立ち去るが良い!』
 ところで、同じ第九を使用した映画に、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」がある。第九の「歓喜の歌」はこの作品の小説と映画の両方に置いて、非常に重要な役割を果たしている。「時計仕掛け」の主人公は暴力が好きで、かつ大のクラシック好き。相手の脳天にパイプを叩きつけるとき、彼の頭の中にはベートーベンが鳴り響いているのだ。ちなみにベッソンの映画「レオン」の、ゲーリー・オールドマン演じる敵役も、ベートーベンが大好きでそのリズムに乗って相手を銃で吹っ飛ばすのだった。モーツァルトに比べて確かにベートーベンの音楽はリズムが明確で攻撃的な部分がある。「英雄」にしろ「運命」にしろ「歓喜の歌」にしろ、発表当時は前衛的すぎると思われていたのだ。ベートーベンやワーグナーの音楽には確かに暴力的な要素、肉体的な要素がある。唐突に、叩きつけるような旋律、盛り上がった上にさらに盛り上がるような旋律は、現代のロックやジャズ以上に荒々しいと感じる。
「時計仕掛け」の作者A.バージェスは言う。芸術というのは果実の味のようなもの。道徳が味覚を左右しないように、芸術に対する嗜好も道徳心の影響は受けない。無慈悲な殺人者が最高の芸術の信奉者だとしても、そこには何の矛盾はないのだ。
 映像の大家であるキューブリックが、好んでその作品にクラシックの名曲を使うのは決して偶然ではない。私は「時計仕掛け」を観て、第九に対する見方、感じ方が変わった。それまで、「歓喜の歌」は単に「よろこび」をうたった名曲に過ぎず、それ程好きな曲ではなかった。だがこの曲は、暴力を愛し、それをむりやり抑制され、そして再び暴力の世界に解放されるというこの主人公の、殺伐としていながらかつエネルギッシュな物語に、見事に調和していた。
 同じくキューブリックの名作「二○○一年宇宙の旅」でも、R.シュトラウスとJ.シュトラウスの曲が効果的に使用されていた。美しい宇宙空間の映像と相まって、同じ監督の攻撃的な他の作品に比べかなり静かな印象を受ける。しかし、子細に吟味してみれば、そのイメージも変わってくる。この物語は「進化」を描いているのだが、それは常に他者の殺害という形で現れる。物語の冒頭で、モノリスに反応した猿人は、初めて動物の骨で他の猿人の頭を叩き割る。そしてその骨の棒が中に浮かんだ時、その骨は巨大な宇宙船へと変化し、場面転換となる。コンピューターHALが、意志を持つ存在へと進化した時初めて行う行為は、乗組員達を殺すことだった。モノリスの登場時に必ず流れる音楽、それはリゲティ作曲の「レクイエム」なのである。
 殺すことによる進化……キューブリックの描いた世界は、決して楽観的なものではない。おそらく彼のこだわりは、原作者のクラークの意図とは別なところにあった。私が「二○○一年」の続編とされる「二○一○年」に違和感を感じるのもそのせいかも知れない。
 HALは悪意も憎悪も伴わない殺意を、その意識の中に誕生させた。そこで初めてHALは単なる機械ではなくなったのだ。猿人が単なる猿でなくなった時と同じように……。「二○○一年」と「時計仕掛け」の二つの作品は、当初全く違った印象を私に与えたが、今では同じ「殺意」という主題を客観的に描いた物と、主観的に描いた物として、ある種共通していると考えている。それは「シャイニング」のジャックにも、「フルメタルジャケット」の兵士にも通じる物がある。後期のどの作品においても、彼は「殺意」という人間心理から目をそむけたことはない。
 おそらくキューブリックは、人間の精神に潜む殺意を、肯定も否定もしていない。純然と始めからそこにある物として描いている。彼の作品がどこか取っ付きにくいのはそのためだ。特にキング原作の「シャイニング」の評価はあまり良くないようだ。キングの作品の持つカタルシスはここにはないからだ。屋敷の崩壊は描かれず、最後に凍りづけになったジャックの顔のアップが映るだけだからだ。しかし、キューブリックの関心はそこにはなかったのだから仕方がない。ジャックの精神の中に、理由もなく徐々に生まれてくる行き場のない「殺意」をただ追って描いていくことに終始している。「フルメタルジャケット」の前半も、気の弱い太った見習いが、次第に「殺意」に目覚めていく過程を静かに描いている。彼は次第に熱心に銃の扱い方を練習するようになり、彼を馬鹿にしていた教官も彼を認めるようになるが、最後にはその教官を撃ち殺して自分も自殺するのである。キューブリックはここでベトナム戦争を糾弾してはいない。純然と「殺意」のぶつかりあいを冷静に描いているのだ。物語の後半、兵士に撃たれた少女がもがく様をカメラは延々と写している。意識を失う寸前までも、殺意だけは消えないとでも言うように。
 理由なき殺意、それは人間の歴史の至る所に見出される。我々は他者を殺すことにどこまで抵抗感を持っているか。それは恐ろしい問いだ。「二○○一年」の猿人に、HALに、「時計仕掛け」のアレックスに、殺意は自然にそこにあるものとして存在した。私は今、人を殺さない。しかしそのタブーの膜は、我々が思っているほど強固ではないかも知れない。むしろ、あまりにもあっさりと破けてしまうがために、我々はその薄い膜を大事に扱わざるを得ないのではないだろうか。だから、その膜が破れていく様を描こうとするキューブリックの作品にある種の危険な物が感じられるのは当然のことだ。キューブリックの作品群は、決して難解ではない。しかし決して安心感を与えてはくれないのも確かなのだ。

「シンジはひたすら『殺したくない』と言い続けてきた。しかるに、劇場版では二回もアスカの首を絞めている。しかも彼はアスカを憎んではいない。ここには確かに殺意の芽生えみたいなものが描かれていると思わないかい? 憎悪なき殺意とでも言うべき物の発端となるものが……」
「その前の段階で、トウジの足を失わせ、カオルの命を奪うという行為を、殺意なしに経験している。見方によっては、これは一つの伏線かも知れない。殺意の前に、殺害に至る行為が布石としてあったという意味でね」
「彼は補完を拒絶し、現実を受け入れることで、一歩を踏み出したはずだった。その一歩が、殺意に至る道だったとしたら……これは穏やかではありませんな」
「他者との対峙の中に芽生える漠然とした不安が、それを通り越して殺意に転じてしまう様が、アスカとシンジの両方に別の形で見られる。物語は確かに、その方向へ引っ張られていった。神経接続されたまま引きちぎられた弐号機の中にいた結果、我々はアスカがもはや憎悪でしか他者を見れないことを知っている。そしてそれを受け止めることに耐えられないシンジにも、憎悪なき殺意が生まれる。そして唐突に『終劇』。もはや見せるべき物は何もない、とでもいうように」
「いや、そう思わせといて再び『RETURN OF THE EVA』と来る可能性だってありますよ」
「……しかし、確かにその先こそが問題なのかも知れない。殺意の問題が論じられることの多くなった昨今においてはね。シンジ君と同じ年齢の少年が、憎悪なき猟奇殺人を行ってしまった。実際、年齢はあんまり問題じゃないんだ。女子高生コンクリート詰め事件や長良川リンチ殺人事件があるからね。ただ、今回は集団心理によるエスカレートという要素がない。殺害者は犯行前も犯行後も一人冷静だった。彼は取り調べで事件に対するマスコミの反応について、『大体僕が予想していた通りの展開だった』と述べたという。そして、その少年に対する評価は必ずしも一定ではない。意味なく猫を殺したりしていたという証言もあれば、震災の時率先して手伝ってくれたという証言もある。卒業文書に残された過激な文章が取り上げられたこともあったけど、正直な話、学校内でのいじめ問題が恒常化している中で、彼の異常性だけを強調することにはまだ無理があるよ。むしろ何処にでもいる中学生にしっかりと殺意が芽生えて、それを実行に移したのだ、という点に感じるものがあるんだ」
「殺意は簡単に芽生えるもの、とでも言いたいの?」
「始めからそこにあるかも知れないもの、と言いたいんだ」
「ボクにはないぞ」
「本当に?」
「本当に!」
「本当に、本当に?」
「……あのなあ……」
「例えば相手が人間でなければ、殺すことに対しての抵抗感は当然低くなるだろう?」
「アリやハエやゴキブリなら殺すとか、トリやウシを食べるとか、そういった類の話かい?」
「まあね。命あるものといったって、世の中には溢れてる。相手が人間でなくても、例えば可愛らしい犬や猫とかに対しては、人間を殺す以上に抵抗感があってもいいはずじゃないか。君にとって、人間を殺さない理由は?」
「急にそんなこと言われてもな。まず第一に、殺す理由がない。第二に、人間を殺すのは大変だ。第三に、法律がそれを許さない。まあそんなところかな。良心の問題もあるしね」
「殺意を抱いてしまった人間なら逆にどう答えるか、だよな。まず第一に、理由なんかなくったっていい。何かする、ということに理由が必要とは限らない。そもそも我々が生きる理由なんて存在するか、というわけだ。第二に、殺すことは肉体的にも大変なことかもしれないが、それほど不可能なことではない。生き物の体は鉄で出来ているわけではないからね。刺したり絞めたり突き落としたり毒を飲ませたりと、方法はいくらでもある。第三に、法律は確かに殺人を禁じている。だが法律そのものが殺意を消し去る力を持っているわけじゃない。だだ罰するだけだ。一度抱いてしまった殺意を取り除くことは難しい。そして、殺意の誕生から殺害の行為に至る道のりは、それほど険しい物ではない」
「……まあ、よくある話じゃないか。ひとたび戦争が起きると、いとも簡単に人々は殺人に興じ、後からその非人道的な行為を後悔するってわけだ。人間に限らない。他の動物だってそうだろ?」
「そう、動物には本来攻撃本能がある。身を守るために、群を守るために。そしてそれは子供の段階で既に芽生えている。特に、肉食動物においては、小動物をいたぶってそれによって狩りの仕方を体得していくという行為が確かに見られるんだ」
「他者を殺すということ、それが動物界で良く見られることは分かるけどね。でも一方で、動物界ではあまり無駄な殺戮は見られないことだって事実だぜ。無駄なエネルギー消費はしないのが常だからな」
「確かにね。それについては、一つ面白い話がある。人間は猿のネオテニー、すなわち幼形成熟ではないかということだ。体毛が殆どないことも、頭が大きいのもそのためで、結果として知能が発達したのに過ぎないとね。人間が時としてエネルギーの無駄使いにさえ夢中になるのは、あるいはその事が根底にあるからかも知れない」

「……それは第二に、自尊心が不条理な感情であることを現している。私は世界の中心であるべきなのに、世界は私を中心にして運動してはいない。自尊心を抱くことそのものに、他者達は手酷い悪意と嘲弄をさしむけてくる。自尊心は、ただ否定され、傷つけられるためだけに存在する不条理な感情だ。なぜならば、私の自尊心は他者の自尊心を承認するわけにはいかないからだ。自尊心と自尊心は互いに傷つけ合うようにしてのみ存在する。
 つまり、屈辱とは、世界がいつも私の世界としてのみ現れるにもかかわらず、世界は私の世界ではないという、この逆説的構造の心理的な結果なのである。」
(笠井潔「テロルの現象学〜観念の欺瞞」より)
「妄想患者が常に心を奪われ苦しめられているのは、通常、一番外見的なこととは正反対のことである。彼は、他の全ての人の世界の中心であることによって悩まされている。」
(R.D.レイン「自己と他者」より)

「エヴァンゲリオン」の登場人物達の多くに、あらゆる形で殺意は芽生え、かつそれが実行される。リツコの母、ナオコはユイのクローンとしてやってきた少女レイを、思わず絞め殺す。その娘リツコは、やはり同じく、負けた相手としてのレイのクローン体を破壊する。「ダミーではありません。破壊したのはレイです」と彼女は強調することにより、明確な殺意のあったことを認めている。彼女はゲンドウを殺そうとする。しかし、ナオコの意識を持つマギ・システムがそれを拒絶する。リツコがゲンドウと関係する理由を作ったのはナオコであったが、彼女は娘よりもゲンドウを選ぶのだ。そのリツコをゲンドウは殺す。彼にとって、既に人の命は意味がなかった。シンジがカオルを殺した行為に、殺意と呼べる感情があったかどうかは分からない。しかし彼はその行為を結果的に行った。彼の腕には、神経接続されたエヴァ初号機を通して、しっかりとその感触が残されたに違いない。それはシンジがアスカの首を絞めようとする場面への伏線となっている。そのアスカは、精神に異常をきたした母親に殺されかけている。「ママ、私を殺さないで……」そして精神崩壊し始めていたアスカが再び弐号機の中で目覚める時、アスカの母親の声が聞こえる。「まだ殺さないわ」と……。そして目覚めたアスカが再び戦いを挑み、敵方のエヴァシリーズと戦い、結果として破れる時、彼女は意識を失う寸前まで叫び続ける。「殺してやる……殺してやる……殺してやる……殺してやる……殺してやる……殺してやる……」
 最後に二人残された、意識ある個々の人間としての少年と少女。その二人の間に、嫌悪と殺意しか生じなかったのは何故なのか。人と人とが解け合うことを拒絶した時、そこに生じる感情はこれしかないのだろうか。これしかないと、断言する者はあまりいないだろう。しかし、十分に生じうる、そう答えることはできる。それ程までに人間の意識という代物は恐ろしい。
 人が殺意を抱く時、そこにロジックはない。ナオコが殺したかったのはユイであって、そのクローンのレイではなかったはず。そこに感情の激しさが必要でない場合もあり得る。ゲンドウが無表情のままリツコに向かって発砲した時、彼はリツコがゲンドウに対して銃を向けた時に抱いた動揺とは無縁だった。相手に対する憎悪や目的優先の冷徹さとは逆の感情につき動かされる場合もある。アスカの母が彼女を殺そうとしたのは、共に死んでくれ、という意志表示に過ぎなかった。ここには様々な殺意のパターンが提示されている。補完の物語はある一面では殺し合いの物語でもあった。しかもそれは、無関係の人間を殺すというよりも、より近しい者を殺すという行為として現れた。
 解け合うことのできない人間同士が、接近しすぎた場合、相手はそこに境界が破られる恐怖を、あるいは怒りを感じる。そして自分の境界線の中にいたと思った者が、そこから出ていこうとする時も、同じようにその境界が破られると感じる。勿論、破られる境界線そのものが大事なのではない。破られることにより自己の輪郭が失われ崩壊することに耐えられないからだ。それを絶対的に防ぐにはどうしたらよいのか。全ての境界線を取り除くという夢物語が叶わないならば……その侵入者を殺すしかない。あるいは逃亡者を殺すしかない。

「どの位自分の感覚が私的なのか。私の知り得ることは、自分が現実に痛みを持っているかどうかということだけである。他人はそれを推察する事ができるに過ぎない。」
(ヴィトゲンシュタイン「哲学探究」より)
「……しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは、日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみがボクの痛みを和らげる事ができるのである。」
(「酒鬼薔薇聖斗の手紙」より)

「人間は猿の幼形成熟の形で進化したとすると、子供らしい無意味な無邪気さ、残酷さを大人になっても兼ね備えていることが、すなわち人間の特性だというのかい?」
「……というか、無意味なことにも執着する、という点が重要ではないか、ということだよ。それが大脳の発達を招いた、とも思えるのだけどね」
「……人間は何故殺すか。快楽目的で殺せるのは何故か。すなわち無意味なことにも執着するから……ということ?」
「本人達にとっては必ずしも無意味ではないだろうが、他者から見ればその必要性が全く理解できない、そういう行為に執着すること、とでも言えばいいのかな。ただ殺したいという者にとっては、殺すという行為そのものに意味があるのさ。そういう形の殺意を持つことが出来ることこそ、人間の特権なのさ。酒鬼薔薇聖斗事件については、色々と言われているけど、結局の所、彼の動機を説明することはできないだろう。殺すほどのことはなかった、という状況説明は何ら意味をなさない。そこに殺意が生じた。そしてそれは取り返しのつかないほど自ら増殖した。そして、殺せたから殺した。彼の殺意を妨げる物は存在しなかった」
「……殺意を妨げる物って、何だろう?」
「何が我々の殺意を妨げうるのか? 以前の『不安の時代』の議論では、我々の置かれている過剰な喪失感とでも言うべき状況についていろいろと述べたけどね。我々に殺人を強制する価値観もなければ、殺人を妨げる価値観もない。確かな物が何もないとはすなわちそういうことなんだと思うよ。自己の感覚、それすらも確かではない……」
「……うーん、ちょっと分からない……」
「確かデレク・ジャーマンの映画『ヴィトゲンシュタイン』にこんなくだりがあったな。言葉には何も隠されていないと講義するヴィトゲンシュタインに向かって、生徒の一人が自分の頬を叩いて尋ねる。先生にはこの痛みを知ることはできない、自分だけが知っていると。それに対してヴィトゲンシュタインは答える。君が知っているというのは確かか? そこに疑いがないのなら、痛みを知っていると言う事自体が無意味だ、と。他人の感覚を知ることは実際問題として不可能であり、文法上でも禁止されているわけだ」
「そこから推し進めていけば……他人の痛みが分からなければ、何の躊躇もなく相手を傷つけることもできるだろうな。うーん、しかし相手の痛みを想像することはできるはずだろう? 自分自身の経験に照らし合わせても……」
「おそらくそうやって、他人との折り合いを付けていくのが普通の社会生活なんだろうが、そこからひずみが生じる場合もあるわけだ。自問自答している間はいい。しかし、相手の考えや感覚に同化しようとして、他者・外的世界と折り合いを付ける為のもう一つの自己を作り上げることもある。レインの『引き裂かれた自己』には、そういった自己の分裂が招く恐怖や憎悪が分析されているけれど、そこでは他者と折り合いをつけるために内的自己を分裂させることによって、他者との関係がますます不毛になっていく悪循環の例が紹介されている。
 他者にとって物わかりの良いもう一人の自己を作り、演出することによって、見せかけの自己と内的な自己とが分裂し、内的自己は幻想化・非現実化してしまう。そして、レインの言葉を借りれば、『この自己は、自己の想像や記憶の対象であるところの客体には直接的な関わりを持つが、現実の人間には関わりを持たない』ということになる」
「じゃあ、たとえ相手の痛みを想像できたとしても、それが相手の痛みを知って危害を加えないということにはならない場合もある、というのかい?」
「その彼にとっては、相手の痛みというのは彼自身の想像や記憶のみによって裏付けられているのであって、現実の相手そのものとは実は関係がないということなのさ。他人の痛みを想像することは可能だ。だがその痛みが意味をなすのは、自分の感覚と照らし合わせた時だけだ。快楽で人を殺す異常者の中には、相手の苦痛に対して全く想像を働かすことができず、ただ相手が動かなくなれば良いと感じて殺す者もいるかも知れないが、むしろ相手の苦痛を想像して、それ故にその感覚を楽しむ者が多いのではないかと思う。必要以上に相手に苦痛を与えようとするサディスティックな人間は、自己の中にその苦痛を感じている別の自己を設定し、それをもう一つの内的自己が楽しんで見ている、そんな精神状況を作り出しているのではないかな。簡単に言えば、相手の苦痛を現実には知らない、でも想像できる、だからこそそんな想像は楽しい、そういう状況さ……」
「快楽殺人者は皆分裂病だってのかい?」
「それを言うなら、人は皆分裂病質者さ。相手の立場に立とうとする時、人は皆想像上の相手を自分の自己の中に作り出す。そうしてはじめて、自分にとって大事な相手に対しては、自分が嫌がることをやらないようにしようと思えるわけだ。それは人間関係を円滑に進めるための内的自己による一種のシュミレーションだ。だが一方で、その自己の中に作り出せる想像上の相手は、現実の相手ではないからこそ、それを攻撃することも可能なのだ。シュミレーション能力そのものが、相手の痛みを想像して楽しむという人間独特の残虐性を、逆説的に可能にしているんだ」
(後編に続く)

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