「短編小説」のコーナー

「評論/殺意の時代〜キューブリック・酒鬼薔薇聖斗・エヴァンゲリオン」(後編)



「ひとりの人間が感じるよりも、もっと大きな苦しみを、私達は感じることができない。というのも、ある人が絶望しているとき、それこそが最高の苦しみなのだから。」
(ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」より)

 酒鬼薔薇聖斗事件について、詳しいことはまだよく分からない。私自身、雑誌の類から拾い読みした程度の情報しかない。もっとも、積極的に収拾しようという気があまりしないのも確かなのだ。ダイアナ妃の交通事故の後では、マスコミの興味本位な報道合戦が、無意味と言うよりはむしろ危険な方向へ向かいつつあるように感じられる。しかし、一方で、この事件がどうもひっかかってしょうがない。何か他人事ですまされないような感覚がある。「エヴァンゲリオン」の作品世界に反発を感じながらも引っかかってしまった感覚に近いものがある。ここには避けられない自分達自身の問題がある、そんな感覚を持った人も多いのではないか。「別冊宝島・隣の殺人者たち」に載せられた朝倉喬司氏の文章は非常に本質を捉えた意見の様に思われた。
「おそらくAの場合、『人間』を自らの経験にくりこんでいくのはもはや不可能なまでに、関係意識は希薄化している」
「『人の痛みを分かる人間になろう』。Aもおそらく、一度くらいは教師からじかに聞かされただろう、このヒューマニズムの決まり文句が、明らかに意識され、逆手に取られ、悪意を吐きつけられている」
「……Aの場合は、もう最初から『人間』は、抽象化の、大波のような洗礼を受けている」
「……Aの犯罪は、かなり純度の高い『殺人のための殺人』の様相を呈している」
 義務教育に復讐する、という名目も、それほど強烈な動機とはなっていないのではないか、と筆者は述べている。自分の犯罪が情報化されることを見越して、そのイメージを先取りしているという。特定の個人や団体に対する「怨恨」ではなく、不特定多数の「悪意」が感じられるというのである。
 普通の犯罪の場合、おそらくは憎むべき「対象」があり、それに対して「憎悪」を抱き、それが「殺意」にまで熟成して、実際の「殺人」に至る。しかし、彼の場合は、まず揺るぎがたい「悪意」が先に自己の中に生成され、それが「殺意」を形作る。「殺意」は犠牲者を要求する。被害者となる者がいなければ、殺意ある人間は殺人者になれない。「殺意」が「対象」を求め、「殺人」に至ったのではないか。
「女性は、子供がなくては母親になれない。……男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。愛人のいない恋人は、自称恋人に過ぎない。アイデンティティには全て他者が必要である」
 レインは「自己と他者」の「補完的アイデンティティ」の「補完性」の項目でこう述べている。自分が自分らしくあるためには他者の存在が必要だ。レインの「引き裂かれた自己」「自己と他者」は、分裂病を扱った著書だが、「エヴァンゲリオン」のキャラクター達の関係を説明するのに最も適しているように思われる。しかし、読み進めるうちに、その絶望的なまでに補完を求めるという人間像については、殺意という感情も密接に絡まってくるのではないかと思い始めた。
 我々が相手を殺したい、という感情はどうやって形成されるか。勿論これは広い意味で、相手に対して何らかの感情を抱くというのはどういうことか、という問いに繋がるのだが。
 私がある人物を殺したいほど憎むとする。その憎悪となる根拠は、相手が自分の行動を支配していたり、妨害していたり、自分の感情を苦しめたり、といった「示された行動」が引き金になるだろう。そしてそれに対する怒りが、自分の中に強烈な感情の嵐を巻き起こす。
 私はまた、そういった種類の怒りの感情が、必ずしも生きた現実の知っている人間以外に対しても起こりうることを知っている。極端な話、テレビや記事を通じてしか知らない人物、そして映画や小説や漫画の創作された登場人物に対してさえも、そういった感情を抱くだろう。それに対して自分が行動できるかどうかは二の次である。現実の人間を憎悪する以上に非現実の人間を憎悪することだってあり得る。
 私は怒りのあまり、空想の中で、その憎むべき相手の脳天にバットを振り下ろし、刃物を突き刺す。実行には移さない。しかし移すかも知れない。実際に殺人を犯した者は、少なくともある程度の準備をして殺人に臨んだ者は、少なからず相手を殺すシーンを空想するだろう。
 冷静にはなれないかも知れない。しかし、冷静に考えれば、まず私が憎み殺そうとするのは、必ず空想の中の相手、頭の中にイメージされた相手の像にに対してであることに気付くだろう。相手のイメージを全く持たずに、殺意を抱くことはむしろ困難だ。相手に憎しみを抱いた段階で既に、憎むべき相手のイメージとでも言うべきものが頭の中に形作られてしまうのだから。我々は相手を完全に知ることはできない。従ってそのイメージは、正確に相手をトレースしているとは限らない。そこには誤解があるかもしれない。客観的に見ることができるのならば、殺意を抱くほどのことはないのかも知れない。しかし、だからといって、相手への殺意を打ち消すことは困難だろう。この世の全てを知ることが出来ない以上、完全に客観的な視点などというものは手にすることができないのだから。相手に対して殺意を持つということは、殺意の対象としての相手のイメージを自分の中に育て、それを攻撃することなのだ。
 我々にとって、多くの場合、他者は空想上の存在として現れる。それは人間が反射神経だけで生きてはいない以上、避けられないことだ。我々には想像力がある。多くの場合、思い浮かべることによって、相手の感情や行動を予測したり推測したりすることなしには、相手に対してまともな行動がとれないだろう。
「想像上の経験に伴って生じる現実の身体的興奮は、多くの者にとって、戦慄の入り交じった特有の魅惑を呼び覚ます。」
(R.D.レイン「自己と他者」より)
「経験の対位法」の項目でレインが述べているのは自慰行為についてなのであるが、それについてレインはサルトルを引用して「自慰者は自分一人の力で奇怪な男女関係を生み出そうと熱中する」と書いている。何故「戦慄の入り交じった魅惑」となるのか。そこにいるべき他者がいないからだ。にもかかわらず興奮は確かに現実に訪れる。
 殺意と性欲を人間の内的衝動として同列に置くことは出来ないかも知れない。しかし、人間を衝動的な行動に駆り立てるものとして、極めて似た性質をもっていると思う。少なくとも、快楽殺人者にとっては、殺す楽しみも犯す楽しみも同レベル、そんな精神状況も当たり前なのだ。いや、そこまで話を極端にする必要もない。恋愛感情に明確な根拠やはっきりした理屈が必ずしも必要ないように、殺意の誕生にも一目惚れに似た動機なき生成としか言い様のないような瞬間があるように思える。
 相手を頭の中にイメージし、それを殺すことを夢想する。現実の相手がその場にいなくても興奮は現実に訪れるだろう。その興奮をより確かなものとするために、現実の相手を求める。文字通り、まず頭の中に殺し殺される人間関係ができてしまってから、それを現実化したい欲望にかられる。相手は楽に殺せてかつその反応が楽しめる方がいい。酒鬼薔薇聖斗事件において、猫が殺され、次に自分より小さく弱い子供が選ばれたのはある意味では当然なのだ。自分より強そうな者を選ぶ必要はない。「復讐」は見せかけに過ぎない。現実に立ち向かおうなどという気持ちは最初からないのだ。
「さあゲームの始まりです」ゲーム? この一連の行為がゲームに過ぎないのは当然だ。なぜなら殺人者という自分も、殺された猫や子供も、あるいは他の人間達、そして世界さえも……全ては彼の空想の中にしか存在しなかったのだから。
「ゲーム」という言葉を軽く受け取ってはならないように思える。最近多く出回っている「複雑系」に関する書物には、生物の遺伝情報や天気予報などに関する最新の理論とチェス・ゲームの理論が同等に扱われている。最近読んだヴィトゲンシュタインの「哲学探究」では「言語ゲーム」という考え方が示されているが、これについて永井均氏は以下のように説明している。
「言語活動全般の持つある性質を、『ゲーム』という比喩によって際立たせようとするからには、そこに何らかの意図が込められていると考えなければならない。……このゲームの背後には勝利への意志などは存在しない。……外部にある何ものの像でもないということ、つまり意味の源泉を外部に持たないということである。……欲望、動機、意志といった諸概念にも、それを用いた言語ゲームが現に為されているという以上の意味があるわけではない。」
「それ自身の何ものによっても支えられていないとは言っても、ゲームである以上、それを成り立たせている規則によっては支えられているだろう、と思われるかも知れない。しかし、そうではない。逆に、ともかくも言語ゲームが成り立っているという事実が、規則の規則としての存立を後からかろうじて可能にしているのである。」
「……実践の規則化がどこまでも可能であるということが、言語ゲームを単なる自然的反応ではなくまさに言語ゲームたらしめてもいる。その意味でこのゲームには底がない。実践の内に示されていることは、どこまでも語りうることなのである。……だが求めれば底のないこのゲームは、我々の実践を不可能にはしない。何故なら、我々の実践は根拠に基づくものではないからである。」
 言葉はチェスの駒の様なものであり、言語活動そのものを「ゲーム」と考えるヴィトゲンシュタインの哲学においては、コミニケーションの成立は非常に疑わしくなっている。
「私は言いたい。あなたは、人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なこととみなしすぎている。」
(ヴィトゲンシュタイン「哲学探究」より)
 規則そのものが流動的で、かつそれを共有できなければ相手とのコミニケーションが成立しなくなる言語ゲーム。その複雑な哲学理論について、ここで細かく論じるほどの能力は持ち合わせてはいないが、私自身は、感覚と言語を極力私的な物、伝わらぬ物として断ずるヴィトゲンシュタインの思想に、レインの分裂病に関する著書と同様に、何か悲痛な物を感じた。おそらくそこには、人のコミニーションについての真実が語られているのだ。そしてまた、他者である我々が酒鬼薔薇聖斗事件について、あるいは観客である我々が「エヴァンゲリオン」という作品について何かを語ろうとする時、避けて通れない思想のように思われる。
 少年Aはゲームの一環として、殆ど何の必要もなく、手紙を新聞社へ送りつけた。何かを訴えて、というのではない。そこに意図はない。その筆跡から犯人が割り出されたとすれば、彼は自らのゲームの障害となる要因を自ら招いたことになる。幼稚だとあざ笑うことは易しい。しかし、それは彼にとっての「言語ゲーム」だった。言語活動がゲームに過ぎないとすれば、これほど必然的な行動はないだろう。

「我々はまた、ある人間について、彼は我々には透明人間だ、と言う。しかし、この考察にとって重要なのは、ある人間が別の人間にとっては謎でありうる。ということである。……我々は自分自身を彼らの中に見出せないのである。」
(ヴィトゲンシュタイン「哲学探究」より)
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」
(「酒鬼薔薇聖斗の手紙」より)

「ここでちょっと一息ついて、『エヴァ』にならって、一人補完計画とでもいうべきことを試みてみようかと思う」
「なんだそりゃ?」
「酒鬼薔薇聖斗の手紙の中で、彼自身は友人に『相談した』と言っている。引用すると……『……だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで何も得ることができない。そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じように透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は“みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ。そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。”その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。』」
「物騒な友達もいたもんだね」
「本当にそんな相談相手がいたと思うかい?」
「じゃあ……嘘なのかな?」
「世界でただ一人自分と同じように透明な友人、というのは、もう一人の自分、すなわち自分自身の声とも受け取れる。それに、例え誰かが殺人をそそのかすような事を軽い気持ちで言ったとしても、彼自身はそれを自分の行動の動機として捉え直してしまっているんだ。他人が何を言ったか言わなかったかなど全く問題ではない。彼の犯行はまさしく自問自答の末の結果だった」
「人は自分の行動について自問自答する。やるべきか、やらざるべきか。しかしそれも、結局は自分の意志に過ぎないのだね。人の痛みを分かれ、とはよく言われるけれど、その痛みを想像し自分に重ね合わすのも結局は自分の意識に過ぎない……」
「『不安の時代』同様、今回も君との対話という自問自答の部分を挿入することによって議論を進めてきた。何かを考える時、私自身自問自答しているからだ。人が何かを考え、何かをしようとする時、何らかの形でのこの自問自答は避けられないようにすら思える。誰かを殺したいほど憎んでいる時、殺人は行ってはならないと自分に問いかけるもう一人の自分がいるはずだ。そうして人は、殺意を押し殺し、日常を円滑に進めるよう苦心する」
「『エヴァンゲリオン』のテレビ版最終話も、登場人物が沢山並んで立ってはいるけれど、明らかにあれはシンジ自身の自問自答の表現だったね」
「だが問いかけるのも答えるのも同じ自分、というのは、実際には会話ですらない。自分にとって都合の良い言葉の応酬でしかない。登場人物は次々に主人公の否定的な感情を否定し、彼を励ますが、実際には彼らにそんな事をしなければならない義理はないのだ。だからこの自問自答による救いは一時的なものにしか成り得ない……」
「そこに本当の他者は、現実世界はない……」
「自問自答で、殺意が押し殺せるのなら、それは本当の殺意ではないんだ。自問自答で相殺できるものであれば。しかし、本当の殺意はそれを突き抜け、現実の行動を要求する……」
「だから、自問自答だけでは弱いんだ。もっと強い意志を持つためには……」
「分裂した自己ではなく、一つの自己を……」
「しかし分裂した自己は、皆が持っているのだろう?」
「それはそうだ。だから完全に自己を統一することは不可能だ。しかし、意志は一つでなくてはならないはずだ。現実世界に関わる自分としての意志は。異なる自己との自問自答だけに頼っては駄目なんだ」
「……他者との問答に頼るのかい? それも無理なのだろう?」
「本当の自分の意志を。それを確固たる物とすること。それが必要なんだ……」
「自分の意志を確固たる物にするにも自問自答が必要なんじゃないのか?」
「自問自答を必要としないほどの強い意志が必要なんだ!」
「……それは違うよ……」
「自問自答は必ずしも望ましい結果を与えてはくれない。我々は時々思うことがあるはずだ。考え過ぎだったと。ドストエフスキーは言った、『意識は病気だ』と。考え込んで自問自答モードに入ったとき、我々は既に半分敗北しているんだ。『人生の意味は?』と自分に問いかけたとき、既に絶望は始まっている。人生の意味などに疑問を持った時点で、その人間の人生の意味は怪しげになっているのだ。疑問を持たないほど充実した人生を送っていれば、そんな問いかけは浮かんでこないはずだ! もう一人の自分など何の役にも立つまい!」
「」
「もう一人の自分は統合され、今また一人となった。いや、始めから一人なのだ。どう自問自答しようと、分裂病になろうと、人物を創作しようと、この自分という意識の中には、自分一人しか存在し得ない。殺意についても同様だ。自らの意識の中に生まれた殺意について、思わず自問自答している時、その段階で既に殺意は生まれ育ち、熟成し始めている。なるほど彼は殺意に基づいた行動をとらないかも知れない。しかし、そこに間違いなく殺意は存在する。行動したかしなかったかより、そこに歴然と殺意が存在するかどうかが、我々の意識を、精神をより苦しめるのだ。殺意は我々の頭の中にある小石のようなもので、それの成長を自ら止めることはできない。膨れ上がり重たくなっていくその石を持て余し、ひたすら頭を自らの手で抱えて歩くのか、逆にその大きな石に見合った頑丈で他者にとっては危険な破壊力のある肉体を手に入れるか……そのどちらを選択したとしても、重たい石を支えなければならない苦しみから逃れることは出来ないだろう」

「順を追って完成して行く物は、また順々に滅びていく。弱かった者はなんであろうと、絶対に強くなることは決してない。『彼は成長した』などと言っても無駄である。彼は依然として、同じである」(パスカル『パンセ』)

 我々を殺意から救うものは何だろう。愛情だろうか。無条件の愛情だけが、相手をまるごと受け入れるような心だけが、個人の心を救うのではないのか。レインが主張するまでもなく、アイデンティティには他者の存在が必要だ。人がひとりだけではただ無価値な存在に過ぎないというのなら、少しでも自らの生に価値を感じたいのなら……。
 愛することによって、愛されることによって。信頼することによって、信頼されることによって。我々はまるで神に祈るイスラム教とのように、呪文のようにこのはかない感情に全てを賭ける。しかし……。
 近しい者を殺すということ。それを描いた名作のあったことを思い出す。萩尾望都の中編「エッグ・スタンド」だ。主人公の少年は、ナチスの高官の依頼で次々と要人を殺す暗殺者だ。彼は命ぜられるままに、その人の良い人々に近付き、相手が無防備になった時に殺す。油断させて殺すのではない。相手を好きになった方が殺しやすいというのだ。「どうして、知らない人を殺せるの? ……いっぱい好きになった方が殺しやすい……」彼は自分の感情に何かが欠けているという自覚はある。しかし、戦争をしている世界しか知らない彼には、殺してはいけないんだというレジスタンスの青年の声は伝わらない。
 彼にとって、殺意と愛情は矛盾しない。「人殺しって、そんなにいけない? ならみんなどうして戦争しているの?」戦争は山火事のようなもので、いつのまにか人の心に宿ってしまった炎が、燃え移って広がったものに過ぎないんだと青年が答えると、少年は無表情のまま答える。「山火事は……すっかり燃え切らないと消えないね……」
 チャップリンの「殺人狂時代」の主人公は、「一人殺せば殺人者、大勢殺せば英雄だ」と言い、スターリンは「一人の死は悲劇でも、大量の死は統計に過ぎない」と述べた。戦争を引き合いに出すことによって、殺人を正当化するニヒルな人物はこれまでにも多く登場してきた。しかし萩尾望都の描く少年は、表情は乏しいがその瞳はあくまでも愛らしく、そこには暖かい感情もあることが示唆されている。まるで夢見るようなその眼差しは、「エヴァ」の綾波レイにも通じるものがある。人形のようにはかなげで、無表情で、それでいて融通の利かない、操れるようで操れない存在。ゲンドウを最後には拒絶するレイのように、少年も自分を操ろうとする大人達を殺してしまう。
 彼は知っている人間であれば、自分を愛してくれた者も操ろうとした者も、好きな人間も嫌いな人間も殺す。そこにためらいはなく、強烈な感情とは無縁である。皮肉めいた思想すらない。そこにはただ相手を殺すという意志だけが存在する。そんな精神が存在できるのか、そう問いかける人もいるかも知れない。好きになった人間をためらわずに殺すなんて……殺したら、相手は存在しなくなるというのに。だが、少年にとって世界は、誰がいつ殺されても不思議のない、既に不条理な様相を呈していた。好きになった人間だろうが見ず知らずの人間だろうが、望む望まないに関わらず死ぬかも知れない世界。戦争中のパリではそれが当たり前だったからだ。
 しかし、それは現在でも変わらないことだ。この世界に死がある以上、殺人がある以上、戦争がある以上……。
 我々が同じ人間に対して決して殺意を抱かないような、そんな世界があるとしたら、それはアリ達やハチ達のように、完全に機能化された昆虫社会のように、自己を抹消し、全体の一部として同化してしまったような世界となるだろう。自己が自意識を持ち、自らを他者と明確に区別したとき、既にそこに殺意の芽生える下地はできる。動物の世界では、異種同士の接触は捕食という攻撃行為にいとも簡単に転ずる。自らが孤立していると、完全に自立していると意識している自動人形の様な人間の目の前に、どうにもならない、人のかたちをした障害物が現れた時、その心に無邪気にこう優しくささやく声がしないとも限らないのだ。
「ねえ、人殺しってそんなにいけない?」と……。
(完)

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