「短編小説」のコーナー

「嗤う骨皮筋右衛門」



「嗤う骨皮筋右衛門(わらうほねかわすじえもん)」

 骨皮筋右衛門は人に飼われる犬という物を好まない。
 体中を毛にくるませ、首輪に付けた紐で人の手を引っ張りながら道をはあはあと歩く犬達を見ていると不快を覚える。それだけではない。その犬達は決まって通り過ぎざまに彼に対して貪欲そうな目を向けるのだった。
 奴等から見れば、この己の姿こそ、歩き回る食材にしか見えていないのかも知れぬ。その見え方は即ち、真の己の姿に善く似合っていて、似合い過ぎているが故に何だか余計に嫌だった。
 ならばそれは、結局犬そのものが嫌いなのだと言い換えても同じことだろう。

   筋右衛門にはいわゆる掛け替えの無い人間という者がいなかった。
 思わず自問自答せざるを得なかった。何が拙いのだろう。
 建築技師としての技量は完璧と言ってよいほどである。あの男の作る骨組みは間違いがない、と職場の者達は囁きあった。何を言えば、余りに隙がなかった。言うことはいつも筋が通っていた。
 筋右衛門の部下に福助という男がいる。
 福助はお調子者である。上にいる者に対してはいつも遜っている。散々頭を下げ回った後で、そういう自分を嗤って見せることも忘れない。職場で笑顔など見せたこともない、いやそもそも顔の作りからして笑顔など作ることのできない筋右衛門とは好対照を為していた。筋右衛門はたとえ上司でも筋の通らないことはあくまでも拒否した。
 その結果として、評判は完璧でも、満足のいく実績を残すまでには至っていない。
 福助は冗談混じりによくこう言った。
「骨皮の旦那さんは固すぎるんでさあ」
 からかっているのか、それとも大真面目なのか、この男の真意は今一つ筋右衛門にも分からなかった。お調子者には違いないが、決して悪意のある物言いをしない男である。
「確かに固いだろう。否定はせぬ」
「いえ、背格好のことじゃありやせん。その性格でさあ。笑ってご覧なさいな」
「こうか?」
 筋右衛門は福助の方に顔を向けた。福助はまじまじとそれを見たが、相手の表情に何の変化も見つけることはできなかった。毛髪のない頭部、その下の真っ黒に落ちくぼんだ両眼孔。穴だけの鼻。顎は……成る程笑っているようにも見えないこともないが……。何処からどう見てもその頭はしゃれこうべそのものだった。

   勿論、情報収集という点で遅れを取っている事も否めない。
 筋右衛門は酒もジュースも飲めなかったからだ。一日六百ミリグラムのカルシウム剤で事足りた。
 酒宴どころか昼食にも付き合わないとくれば、この会社組織の中で巧く調整をとることは難しくなる。
 次第に筋右衛門は己の職務に対する意欲を失いつつあった。

 ほんの些細な事で、人間は生きる意欲を失うものである。
 その決定的な出来事は本人自身にとっても意外な形で訪れた。
 筋右衛門には一人話し相手と言っていい女がいた。谷村石子である。
 石子は何故か筋右衛門のやや理屈っぽい話も嫌がらずに聞いた。大人しい、というより表情に乏しい職場の同僚だった。自分でも気付かない内に、筋右衛門は石子との会話に安らぎを覚えていたのかも知れぬ。
 恋愛感情とは異なる、そう筋右衛門は考えていた。己は相手には何も要求する積もりはない。相手を拘束したり、矯正したりする意図はない。ただ、この空しい人生、話し相手がいるのも悪くはないと感じていたのだ。最新の建築理論、カオス理論、複雑系……石子は筋右衛門のそんな止めどもない話にただ頷くだけだった。石子の静かな表情を眺めることは、僅かながら慰めになる、そう筋右衛門は己に言い聞かせていたのだった。
 しかし、そうではなかった。
 ある日突然、石子は彼に近付かなくなった。
 もう会う積もりはない。その一言で、全ては終わった。
 筋右衛門は何一つ理由を聞くことはできなかった。
 当然ながら推測はついた。この自分の体。骨以外に何もない体。性器すら存在しない体。
 会っている意味もない。
 ……その方が善いのだ。
 そう筋右衛門は呟いたが、そう口にした途端、己の体の隙間を、文字どおり骨と骨の隙間を、冷たい風が吹き抜けていった。
 最初から何も望んではいなかった筈だった。最初から分かっていなくてはならない筈だった。話し相手がいるのも悪くない、僅かながら慰めになる……いや、慰めになるどころではなかったのだ。何の約束も交わした訳でもなかったのに、筋右衛門にとって石子は全てだった。必要欠くべからざるひととなっていた。
 全ては手遅れだった。否、最初から手遅れだった。今や職場に対する意欲どころか、生きる事に対する意欲そのものが失われつつあった。
 他人から見れば些細なことであった。しかし筋右衛門の人生には、その些細なことを上回る物が何もなかった。

 筋右衛門は一人風呂に入りながら考えた。
 己は何の為に生きているのか。いや、そもそも本当に生きているのだろうか。
 骨皮筋右衛門とは名ばかりの、皮膚も筋肉もない文字通り骨だけの体である。肋骨の隙間を上手に洗うことすら骨が折れる。
 何もせず、じっと身動きせずに座っていたならば、誰もが白骨死体と思うであろう。己は生者と死者との中間地点にいる。いやむしろ、死者に近い側に居る。
 意味がない。存在理由がない。只の動く骸骨だ。骸骨を必要と思う者など居るものか。近世の西欧では髑髏を書斎に飾るのが流行した事もあったと聞く。そういう時代に生まれるべきだった。
 筋右衛門は自殺を想う様になった。

 死を決意したというもののなかなかこれが上手くいかない。
 天井から紐を吊るして首にかけたが、丸一日ぶら下がっていても一向に死ぬ気配がない。鏡を見ると、そこにはぶらぶらと骸骨が一体部屋の中央に吊るされているだけだ。
 手首を切っても、若干の刻み目がつくだけで血も出ない。
 水に入っても窒息しない。そもそも呼吸などしていなかったのではないかと、今さらのように気が付いた。
 マンションの八階から飛び降りた。やたら痛いだけで死ねなかった。肉や脂肪で甘やかされて来なかった分、筋右衛門の骨は通常の人間の数倍丈夫にできていた。自分の頭をとんかちで殴ったくらいでは傷一つつかなかった。
  何故それが、自殺ができないか。
 筋右衛門は眉根を寄せて俯いた。
「この……この方が善いのだ。元々無いに等しい命なのだから詮方ない」
 周囲の人間達は筋右衛門の自殺行為を迷惑がる様になっていた。筋右衛門自身も次第に死ぬ事に対する意欲すら失い始めていた。

   見も心もぼろぼろになった状態で、一人夜中の公道を歩いていると、ふと前方からよろよろと年老いた野良犬が近付いて来た。薄汚い灰色をした小さな野良犬。いつもならば、さっと避けてその場を立ち去る所なのだが、筋右衛門自身はもはや何意志のまま行動する気力すら失っていたので、そのまま互いに近付き合うままに任せていた。ふと考えた。この犬はまさしく、今の己の姿そのものだ。そう思うと、今まで犬を避けていたことが愚かしく感じられた。以前は不用意に犬等に近付いたら己の骨を二、三本持って行かれたりはしないかと恐怖していたのだ。しかし、死を願う己が骨を惜しむなど矛盾も甚だしい。己の下らない骨など犬に食われてしまえ。
 筋右衛門は近付いてきた野良犬にそっと手を伸ばした。
 犬は差し伸べられた骨を訝しげに見上げた。
 一瞬、目と目が合った。
 犬の真っ黒の瞳には、筋右衛門の黒い眼孔同様、恐怖も不安も猜疑心もなかった。
 犬は二、三度微かに首を縦に振った後、ちろちろと筋右衛門の手を舐めた。
 それだけだった。
 犬は筋右衛門の手の先をくわえて行こうとはしなかった。

 犬が食らうのは骨ではなく肉だ。そもそも犬の好物の肉と脂肪と皮膚をたっぷりとその身に纏っている普通の人間さえ犬に襲われないのだから、骨ばかりの筋右衛門が犬を恐れる必要は無かったのだ。
 犬は一心に筋右衛門の骨の指をしゃぶっている。
 黒い瞳は、厚い瞼に半分ほど隠され、どこか夢見心地の様でもある。
 筋右衛門は暫くの間舐められるがままにしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。犬は名残惜しそうに筋右衛門を見上げた。
 筋右衛門は自宅への道を歩き始める。犬もその後を付いていく。
 結局筋右衛門はその犬を飼うことにした。

 筋右衛門の家には今野良犬が十三匹いる。
 尤も既に飼われているのであるから、今や野良犬とは言えぬ。
 生きる意味があるのではと思い始めた、などと言えば当然筋右衛門はそれを否定するであろうが、犬を飼い始めてから自殺未遂を繰り返さなくなったのは事実である。いずれは独りぼっちでこの部屋で死ぬ事になるだろう。その時に、この犬達が何処かに己の骨を埋めてくれるに違いない、そう筋右衛門は期待したのだろうか。犬を飼い始めて以来、評判は一転した。
 筋右衛門は精力的に職務を果たした。人当たりも至って良くなった。
 独り身で何故にそこまで出来るのかと、皆は不思議がった。

 だがその評判も長くは続かなかった。
 筋右衛門は犬達が住み易い様に、自宅を取り壊し、犬達だけの小屋を作った。夏を迎える頃には筋右衛門の家は柱を残してほぼ解体されてしまった。犬達が小屋で休んでいるときも、筋右衛門は一人じっと雨が降ろうが風が吹こうが唯一残された縁側に座っているのだった。
 他の者達がその状態を心配しても、己は衣食住の心配を他の人間程気にする必要はない、骨だけの我が身、外界の環境の変化に耐えられないほど上品には出来てはおらぬ、そう言って笑うのだった。
 さすがに職場の同僚達も不審に思い始めた。
 筋右衛門が仕事を休み始めて一週間程経った頃、部下の福助がその場所を訪ねた。

 刺すような夏の陽射しが、執拗に項に当たる。
 福助は汗を拭い、気の進まない道程をのろのろと歩んだ。
 そして骨皮の自宅に辿り着いた。
 ……本当なんだ。
 骨皮の自宅の外壁は粗方なくなっていた。柱の上に屋根が乗っているだけという感じである。畳は剥がされている。家財道具も殆どない。ところどころ天井がない。積まれた畳は全滅だった。
 ……どうやって住んでいるのか。
 その時
 ははははははは。
 笑い声だった。
 分かった。分かったぞ。
   生きるも独り、死ぬも独り。
 ならば生きるの死ぬのに変わりはないぞ。
「え?」
 何処じゃ、何方じゃ……福助は立ち上がった。しかし廃屋には人は気配もない。人……。
 生き物の気配がした。犬小屋か?
 福助は骨皮家の庭の犬小屋を覗いた。
 一瞬、暗くて分からなかったが、そこには十数匹の野良犬達が大人しく座っていた。六畳ほどの広さの小屋の中に、きちんと各々がしゃがみ込んでいた。福助が中を覗いても、吠えようともしないのだった。
 そして福助は仰天した。小屋の中央には、犬達に囲まれるようにして、蒼白い髑髏が据えられていたのだ。
 良く見ると、回りの犬達も、めいめいが人間の骨の一部を携えていた。口にくわえているものあり、両前脚の間に抱いているものあり、頬をこすりつけているものあり。
 それは骨皮筋右衛門の体だった。
 死んだのだ。そう、筋右衛門が生きていないのは確実だった。さすがに骨だけの不死身の体とはいえ、ここまでばらばらにされていたのでは助かるまい。
 生きながら犬達に噛まれ、解体されたのだろうか。彼らにとって大事な飼い主が、ある日突然餌をやらなくなったら……やることができなくなったら……彼らは飼い主の体を引っ張り……しかし、それにしては、犬達の姿は穏やかで、髑髏を囲み守るその姿は荘厳ですらあった。
 いずれにせよ、筋右衛門は死んだ。独り淋しく、犬小屋の中で。

 ……それなのに……。
 筋右衛門は。
 嗤っていた。
 福助は意味もなく、ただはらはらと泣いた。

(嗤う骨皮筋右衛門 了)


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