「エンゼル・キャット」



 彼は、背中にがりがりと響く音で目が醒めた。
(……戻って来たのか……)
 わざわざ首を伸ばして確かめる必要もなかった。遠慮もなく人の背中の甲羅で爪研ぎをする猫などそうざらにいるものではない。
「もうお前さんはどっかへ行っちまったものだと思っていたよ……」
 にゃあ、と挨拶代わりに声を挙げて、相手はそれに答えた。
「私がどこへ行くと言うのよ? そんなんじゃあないの。あの家の人達、ここからずっと遠い原っぱで、あたしのことを車に乗せるのを忘れて帰っちゃうんだもの。本当にもう、揃いも揃ってどこか肝心の所が抜けているのよね、あの人達。おかげで二日間、歩きっぱなしよ。もうくたくた。見てよこの体、育ち盛りだっていうのに、すっかり痩せちゃってさ。爪も伸びちゃうし」
 こちらが起きたことを知って、例の調子でぺちゃくちゃと喋り始めた相手の方をちらりと見上げると、彼はゆっくりと溜息をついた。
(……相変わらずだなあ、この子は……自分が厄介払いされたなんてこと、考えもしないんだろうなあ……)
 相手は喋りながらまたがりがりを再開した。
「どうでもいいけど、爪なら他の場所でも研げるだろう? なんで俺の背中を使うんだい?」
「とっても滑らかに仕上がるからよ」
「俺の甲羅はどうなる?」
「いいじゃない、どうせあなたからは見えないんだから!」
「そりゃそうかも知れないが……」
「お腹がすいたわ。昨日はちっぽけなパン屋のおばちゃんが、ほれほれ〜、ほれほれ〜とか哀れっぽい声を出してパンを持った手を差し出してくるから、仕方なくそれを食べてやったんだけどさ。この近くにはパン屋もないし。だいたいあの家の人達は、私のごはんのことも忘れてどこ行っちゃったのよ!」
「……まあ、ごらんの有り様なんだけど……」
 そう言って彼は首を前に突き出した。
 彼らがいるのはそこそこ広い庭の芝生の上なのだが、目の前にある筈の邸宅は、一夜にしてすっかり焼け落ち、無惨な姿をさらしている。
「さっき私も見たわよ。家がなくなっちゃてるわね。煙を出し切ったタバコみたいにちっちゃくなっちゃってる。誰が元に戻すのかしら」
「さあね……」
「でもそれじゃあたしが困るじゃない。はるばる遠い原っぱからわざわざ歩いて帰って来てやった私の苦労はどうなるのよ。一体何がどうなっているの?」
 実は彼にも事情はよく分かってはいなかった。この庭の隅でじっとしていた間に、聞くともなしに耳に入ってきた人間達の会話の内容から推測すると、昨晩のうちに、ここのに住んでいた「あの人達」……すなわち雄と雌のつがいとその子供二人は、「心中」とか「自殺」とかいう病気で突然死んでしまい、その夜のうちに家は火事になって焼けてしまった、ということらしい。それ以上のことは彼にも分からなかった。子供までが二人共突然死んでしまうなんて、そんなことがあるのだろうか。まだ寿命が尽きているとは見えなかったが。いまや我が物顔で好き放題のことをしている人間達ではあるが、どうもその生態は彼のような爬虫類には理解できないことが多いのだ。
「いずれにせよ、あの人達とやらのことは諦めた方が良さそうだ……」
「冗談じゃないわよ。それじゃあ誰がミルクとキャットフードを寄こしてくれるの?」
「俺は知らないよ」
「……全く、あの人達の要領の悪さは分かっているつもりだったけど、まさかここまでひどかったとはね! きっとあの不器用な奥さんが、お料理中に火をこぼしちゃったのよ。ほんとにもう、何でもところ構わずぽとぽとこぼすんだから。あたし達猫族は、とっても清潔好きなんだから、ちゃんとやってくれなきゃ困るのに。あたしもこれでいろいろと忙しい身だったけど、それでもお湯が吹きこぼれそうになった時なんかは、にゃあにゃあ鳴いて教えてあげたりしたのよ。あの人達も頭悪いからさあ、猫語の一つも理解できないんで面倒なんだけど、鳴けばとりあえずこっち向くからさ。そっか、私がいなくなってから二日しかたたないうちに、もうこの有り様ってわけね。全く世話が焼けるわね。ほんとにもう、あの人達はあたしがいないと駄目なんたから……」
「いずれにしても、キャットフードは当分諦めるしかないね」
「しょうがないわねえ。あのパン屋のおばちゃんの残り物でも片付けてあげるか。行きましょうか。方向はあっちよ」
 子猫はつんつんと彼の頭を左前脚の肉球で叩くと、そのままその脚を左側へ伸ばした。
「……何で俺が行くんだ?」
「あたしはもう疲れちゃって一歩も歩けないの。あなたが運んで行ってよ」
 そんな馬鹿な、と彼は反論しようとして止めた。さっきからぜいぜいと聞こえる不規則な息遣いから、子猫が衰弱し切っているのは分かっていた。口だけは達者だが、何分にもまだ幼い。彼は仕方なく四つの脚を踏ん張り、のそのそと進み始めた。
「ここからどれくらいだい?」
「二、三キロはあるかしら。もっとかな……良く分かんない」
「そんなに遠くまで歩いたことはないよ」
「いい運動になるわ。あなたは少し太り過ぎだって思っていたもの」
「……別に太っている訳じゃないんだが……」
「このまん丸く突き出した背中! これで太っていないですって? まあこの際どうでもいいわ。お腹すいちゃったから、急いでね」
「明日の夕方くらいには到着すると思うよ。途中に車道がなければね」
「飢え死にしちゃうわ!」子猫は叫んだが、その声はどことなく弱々しかった。「それに車道がなければってどういうこと?」
「俺のこの脚じゃ、信号が赤になる前に道路を渡り切ることはできないんだよ」
「あたしは大丈夫よ。十秒で渡って見せるわ」
「俺をその場に置いてかい? 車に轢き殺されちゃうよ」
「あなたの背中は固いから大丈夫よ。私の爪でもびくともしないもの」
「車ってやつらは大きくて重いからなあ、ちょっと無理だと思うな」
「やってもみないうちから諦めるのは駄目だわ。それって弱虫じゃない。大丈夫よ、何とかなるものだわ。何とかなるって、猫族では一番大事な哲学なのよ。隣にいた三毛猫のおばちゃんに教わったの。彼女、一週間前にどっか行っちゃったけど。こんなことならついて行けば良かったかもね。頭のいい猫だったわ。まああたしの様に美人じゃなかったけどね。尻尾も短かったし。あなたは哲学とかちゃんと勉強してる?」
「まあ亀並にはね。先輩から教わったよ。曰く、人生はとにかく焦らないこと」
「何それ」
「要するにのんびり行こうぜってことさ」
「そんなの駄目よ。焦るときはちゃんと焦らなくっちゃ。ご飯が来た、と思ったら、すぐに食べないと、お皿を片付けられてしまうかも知れないのよ? のんびりしてて良い時はのんびりしてて良いけど、急ぐ時は急がなくちゃ駄目!」
「のんびりするのは君たち猫族も一緒かと思っていたよ」
「冗談じゃないわ、一緒にしないで。猫族は肉食獣なのよ。油断大敵、見かけで判断しては駄目なの。それにしても、あなたのろいわね!」
「こればっかりは、生まれつきでね」
「あの家のご主人さんとやらも、あなたみたいな人だったわ。とにかくのろいし、遅いし、喋らないし、つまんない人なの。あんな人になっちゃ駄目よ。いっつもつまらなさそうな顔しててさ。もう駄目だあ、とか、もう死ぬしかない、とか訳の分からないことばっかりぶつぶつ言っててさ。あたしも優しいからさあ、そういう時はしょうがないからにゃあとか鳴いてすり寄って、相手してあげるわけよ。奥さんも子供達もてんで話にならないの。あたしでなくちゃ駄目なのよ」
「なるほど」
「本当に良く分からないことばかり言う人だったわ。お金がない、お金が返せないなんていつも口癖の様に言っていたけど、ちゃんとポケットに持っているんだから。あたし知っているんだ。いつも小銭を持ち歩いてて、それを道に置いてある大きな金属製の箱に入れると、タバコとかビールとかぽんぽん出てくるのよ。なんで持っているのにないなんて言うのかしら」
「まあ、人間ってのは時々理屈に合わないことを言うからね」
「子供達だってそうだわ。仲の悪い姉弟だったわ。いつも喧嘩ばっかり。あたしがいないと、姉の方が弟を怒鳴りつけて、拳骨で殴って、後ろから蹴飛ばすんだもの。弟の方はわんわん泣いてばかり。あたしにも兄弟がいたからさあ、そりゃたまに喧嘩もしたけど、猫族にはちゃんとルールがあってね、むやみに爪を立てたりしないものよ。なのに彼らときたら血が出るまで喧嘩するんだもの。そういう時はね、あたしはわざと近付いて行くの。あんまり近付き過ぎると、あたしまで蹴飛ばされるから注意が必要なんだけどね。そばに行って、にい、にいと声をかけてやるの。すると弟の方が泣きながらあたしを抱きかかえてその場にうずくまっちゃうわけ。姉の方は、なによあんたなんかうちのこと何にも分かっちゃいないくせに、とかなんとか言ってどっか行っちゃうの。それでなんとかその場は収まるというわけ。本当にもう、手に負えないんだから。あの家のことを一番分かっているのは、このあたしに決まっているじゃないのよねえ」
「まあ、お前さんはいつもあの家の中にいたからなあ」
「お腹すいたわ。もっと早く歩いてよ。本当にもう、あの人達、あたしがいなくちゃどうしようもないくせに、なんでいきなりこんないじわるするのよ。あの人達があたしを置いて行っちゃったその前の日の夜、あの人達何をしていたと思う?」
「さあ……」
「にらめっこよ」
「にらめっこ?」
「そう。ご主人さんと奥さんとが、テーブルはさんで向かい合って座ってにらめっこ。一時間近く、何も喋らないの。変な人達よねえ。まあ猫族の場合はね、雌は子供ができてから雄といちゃつくなんてことはしないけど、そうでない時は、雄と雌は会ったらすぐにくっ付きあうものだわ。にらめっこするのは雄同士だけよ。普通そうでしょ? 雄と雌のにらめっこなんて聞いたことある?」
「うーん、亀でもあんまりないねえ」
「結局、負けちゃったのはご主人の方。すまん、とか言ったりして。まあ当たり前よね。雄より雌の方が強いに決まっているもの。頃合を見計らってあたしが顔を見せると、ご主人がよしよしとか言って私を膝に乗せて、それでにらめっこも終わり。奥さんは物も言わずに奥の部屋に引っ込んじゃった。まあ、あたしは心が広いからさあ、まあ触りたいんなら触らせてあげるか、と思って大人しくしてたわ。結局ご主人の相手ができるのはあたしだけ。あたしあっての、あの家族なのよ……」
「そうだよねえ」
 彼は繰り返しうなずくしかなかった。子猫には理解できないかもしれないが、一度死んだ者は、人であろうと亀であろうと猫であろうと、二度と戻っては来ない。
 彼の背中で、子猫のお腹がくうくうと鳴った。その音を感じて、彼は何となく切ない気持ちになった。
「あの家が焼けちゃって、本当に困っちゃうわ。あの家の居間にはねえ、結構おっきなタンスがあったの。その近くに置かれているソファから、そのタンスの上に飛び乗れるようになるのが、あたしの人生の最大の目標だったんだけど。もう少しで十分なジャンプ力が身に付く筈だったんだけどな」
「そりゃ残念」
「あそこの子供達の、弟の方がね、結構絵とかが好きでね。あんまり本とか置いてない家だったけど、絵本を見せてくれたことがあったわ。あたしの体と同じくらいの大きな本でね。その中の羽の生えた猫の絵を見せて、あたしに似てるって言ったのよ。本当、子供よねえ。羽があるだけでも十分似てないじゃない。その絵本の猫は、エンジェル・キャットとか言って、天界からハートを持って人間界に降りて来るんですって。そんな猫見たことないけど、まあ少しは話を合わせてあげようと思ってさ……。ま、世話が焼けるったらありゃしないんだけど……。本当にあたしがいないとあの人達……」
 休まず歩き続けたが、最初の関門である広い道路まで来るのに四時間近くかかってしまった。人通りが殆どないので、気付かれずに済んではいるが、そろそろ変に思った人間達が近寄ってくるかも知れない。
 子猫は喋り続けながらも、時々目を細めて周囲を見回した。
「やっぱり引き返した方が良いかしら。入れ違いであの人達、帰って来ているかも。白々しくごめんよとか言うかもね。まあ誠意をもって謝るんだったら、許してあげないこともないわ。ごはんの一回や二回、我慢できないこともないし……」
「引き返すのなら反対はしないよ」彼はゆっくりと答えた。「俺はどっちでも構わないから……」
「あっ!」いきなり子猫が声を上げた。「あそこにいるのは奥さんじゃないかしら!」
 そんなはずはない……彼がそう言おうと思った時には、すでに子猫は彼の背中から飛び降りて、真っ直ぐ数メートル先の車の走る広い道路へ向かって走り出していた。
「危ない! もし車が……」
 彼は亀なので、考えたり喋ったりするのに少し時間がかかるのも無理はない。そんな心配が頭に浮かんだ時には既に、子猫は広い道路を横切って向こう側へと辿り着いていた。
 子猫はささやかなショウウインドウのある店の前で立ち止まり、きょろきょろと左右に顔を振った後、やがて諦めたように視線を足元へ落とした。どうやら人違いだったと納得したらしい。その場に腰を下ろすと、彼女はじっと彼の方を振り返った。
 彼女はまるで相手を責めるかのように、悲しげなまなざしで彼の方を真っ直ぐ見つめた。彼はその場に立ち止まったまま、黙ってその視線を受け止めた。
(……しょうがないじゃないか。俺に怒ったって……)
 いずれにしても、彼にはあの広い道路を横切ることはできない。
 子猫はやがて、行き交う車へ向かってにゃあと鳴きかけたが、何の反応も得られないと分かると、そのまま左を向いて、よたよたと歩き去って行った。
(戻って来るかな……)
 彼は子猫の姿を追ってゆっくりと首を曲げた。
 もっとも、永久に帰って来ないかも知れない、などとは彼は思わなかった。
 何しろ、あの家の人達は……たとえ死んでしまったとはいえ、彼女がいなくては駄目なのだから。

(終)

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