「夢」
〜断片的な夢から喚起された風景からの逃避行
私はがらんとした殆ど何もないと言っていいような殺風景な部屋の中に座っていた。
だらりと力無く下ろしている手の平の感触から、畳の部屋にいることが分かる。
周囲はしっくいでできた白い壁。頭上には、木目のはっきりした天井。木目の模様が、何か油の浮いた汚れた液体の表面の様に見える。
丸い蛍光灯はくっきりと部屋の中を照らし出しているのに、私は何故かぼんやりとしか周囲の状況が分からない。私は何処にいるのだろう。
微かに背中の方から音がする。
おもむろに振り向くと、何もないと思われていた部屋の隅には、小さな黒いテレビが置かれていた。
モニターには外人の子供の顔が写っていた。
いつの間にスイッチが入れられていたのだろう。僅かにぶつぶつと耳障りな雑音がする以外には、音は聞こえない。その映像が放送なのかビデオなのかも分からない。私はじっとその映像を見つめた。何故か体は思うように動かず、金縛りにあったように硬直していた。
画面に大きく写っている子供は、金色の髪の毛を短く切っていて、男の子なのか女の子なのかはっきりとは分からなかったが、私の直感がそれが少年であることを教えてくれた。年齢は、そう十才位だろうか。肩までしか見えないが上半身は裸のようだ。その肩をやさしく撫でる太い腕。姿は見えないが体格の良い大柄な男が子供の背後にいるらしい。少年はくすぐったいらしく、その太い腕に触られるたびに歯を見せて笑っている。
やがて、背後から回された腕に握られた太い縄の様な物が、一瞬にして少年の口を塞いだ。少年はそれでも相手がふざけていると思っているらしく、肩を揺らせて笑うのをやめない。私は何か不吉な感情にとらわれたが、無言のままその映像を見つめた。やがて大きな鉋の様な物がその見知らぬ大人の腕に握られた。私はそれに見覚えがあった。子供の頃、鰹節を削らされた時に使っていた物だ。
一度その刃で指先を切って血を流したことがある。
少年の口元を縛り付けている縄に力が入り、小さな頭が後ろにのけぞったかと思うと、その鉋がおもむろに少年の鎖骨のあたりに押しつけられた。
刃が子供の白い肌に食い込む。
鉋はゆっくりと引き上げられ、皮膚を伴った肉が削がれた。
少年の目が大きく見開き、苦痛にもだえながら逃げようとするのが分かる。しかししっかりと体を押さえつけられているので、その拷問から逃げることは不可能だった。
画面に顔を現さないその人物が、少年の肉を削ぎ落とそうとしていることは明らかだった。まるで鰹節を削るように、鉛筆を削るように、少年の体の肉は削ぎ落とされていく。何故か殆ど血も滴らずに、刺身の一切れ一切れのように、少年の肉片はぽろぽろと床に落ちていく……。
いつの間には私はその映像の中の世界にいた。
とはいうものの、白い壁に囲まれた部屋の畳の上に座っていることに変わりはない。
しかし私の視界の中には、上半身が肉を削がれて骨だけになっている少女の姿があった。
そう、それは少女だった。何故私は先程の子供が少年だと思ったのだろう。いや、その時は確かに少年だったのに違いない。電池の切れた玩具の様に、壁に背中を付け、足を広げて座り込んでいる。表情は見えなかったが、微動だにしないその姿から、既に絶命しているかの様に見えた。しかし、その少女は生きていた。苦痛すら感じなくなってはいるが、生きていた。
上半身が骸骨となったその少女は、人形のようなぎこちない動作でその場から起きあがると、部屋を出て廊下へと去って行った。
少女は復讐を忘れてはいないだろう。
「○○が殺された!」
中年の女の叫ぶ声が廊下の向こうから聞こえた。
誰が殺されたのだろう。
少女の肉を削ぎ落とした人間だろうか。
私は他人事のようにその叫びを聞き流したが、自分も狙われるかも知れないという考えが頭の中をよぎった途端、それは他人事ではなくなった。
そうだ私も狙われるかも知れない。
なぜなら私は彼女が切り刻まれるのを黙って見ていたのだから。
私は急に恐ろしくなって、その部屋を飛び出し、廊下に出た。廊下は狭く、突き当たりが階段になっていた。ここは一階だった。上へ逃げよう……。私は階段を駆け上がった。背後で叫び声が上がった様な気がした。
私は焦げ茶色の階段をひたすら上った。この木造の家は一体何階まであるのだろう。いつまで上っても屋上にたどり着けない様な気がした。もっとも、屋上まで行ったらどうすれば良いのだろう。……知ったことか。少女が階段とは反対方向に行ったから、私は階段を上がらざるを得なかったんだ……。
四階まで来た所で、私は廊下へ出て、小さな扉が僅かに開いていた部屋と逃げ込んだ。
その部屋は物置のように狭く、暗かった。
再び下から叫び声がした。それが襲われた中年女の声なのか、襲ってくる少女の雄叫びなのか分からなかった。
私は扉を閉め、両手でしっかりとドアノブを握りしめた。
ばたばたと足音が近付くのが分かる。
少女は扉の向こうまでやってきて、その場に立っているらしい。
私は最初、待つことにした。子供ならあきらめて他の部屋を探すかも知れない。
何故か向こう側にいる少女は、扉を叩こうとも叫ぼうともせず、じっとその場から動かずにいた。
どれくらいの時間が経ったことだろう。
気の遠くなるような長い時間が過ぎた様な気がした。次第に私は、何もかも気のせいではなかったかと感じ始めていた。
実際には何も起こらなかったのではないか。
部屋の外には誰もいないのだ。
私はそっと扉を開けた。
叫び声を上げる間すらなかった。その瞬間、私の膝のすぐ上を、鋭い包丁が横方向からかすめたのだ。
少女の姿は大きく変貌していた。
大きさは三十センチほどしかない、人間というよりは、毛をむしられた子供の猿の様だった。上半身が骨だけでなかったら、さっきの少女と同じ存在だとは気付かなかっただろう。その生き物が、自分の体ほどもある大きな包丁を持って襲いかかってきたのだ。よくかわすことができたものだ。
私は逃げた。逃げようとした。
私が足を踏み出そうとした廊下には、その生き物が持っていた物と全く同じ形をした包丁が数十本散らばっていた。
私は瞬きもせずに、目の前に広がる活字を追い続けた。
私が抱えているその分厚くて重い本は、茶色い皮で装丁された豪華なものだったが、その内容はグロテスクで、どこか通俗的ですらあった。
私は恐怖にふるえる自分の物語を自分で読んでいた。
おかしい。私は今さっきまで小さな怪物に追われていたのではなかったのか。
いや、追われている。私は確かに怪物に追われている。
その怪物に追われている私の物語を私が読んでいる。
書物の別の部分には、女性の論客によって書かれた、人の心に生まれる残虐性とその解消法についてのまことしやかな説明文があった。
何を冷静に分析なんかしているんだ?
私は今すぐにも刺し殺されるかも知れないというのに。
(終)