「魔女からの手紙」


 (一)レベッカからペーターヘ。一五九○年。

 レベッカは、暗い独房の中で夫へ手紙を書いていた。

 魔女専用の牢獄は、窓一つすらなく、自分の書いた字すら読める状態ではなかった。そうでなくとも、彼女の指は「指締め」によって潰され、右目は既に失われ、傷だらけの素足の裏には既に細かい刻み目がびっしりと付いている。おそらくその手紙は、いずれ没収され、夫の手に渡ることなく裁判記録に添付されるだろう。それでも彼女は一心不乱に書き続けた。

 魔女は元々呪術師であり、民間療法を担った助産婦のような存在だった。魔女の箒の素材となるエニシダもハーブの一種として使用された物だったし、魔女の化身とされる豚も元々は豊饒のシンボルであった。しかし、十字軍を契機として成立した異端審問の制度は、その裁く相手として神に敵対する魔女を選んだのだ。十五世紀から十八世紀までの間に犠牲となった者の数は、三十万人とも、九百万人とも言われている。

 魔女の印は体のどこかに存在し、その部分だけは痛みを感じないとされていた。従ってその印が視覚的に判別できない場合には、全身を針で指してその箇所を確かめるという方法がとられた。従って、頭の先から足の先まで、彼女の体に拷問を受けなかった箇所は一つもなかったが、最も耐え難かったのは腹痛だ。度重なる水責めの結果だろうか、彼女の腹部からは夥しい血が流れた。絶望と苦痛に気を失いそうになりながらも、彼女の血走った片目は必死に自分の書き記した文字を追っていた。

「愛するあなたへ。何も心配することはありません。私は潔白です。私は何もしていないのですから、何も自白できるはずはありません。 

 ここへ連れて来られたら、ひどい拷問が待っていると皆から言われましたが、そんなことはありません。私は大丈夫です。きっともうすぐ釈放されます。これは何かの間違いなのですし、私は人様の恨みを買うようなことは一切行ったことがありませんもの。それに、もし私が魔女なら、こんなところからはさっさと空を飛んで逃げてしまうはずです。

 アンナは元気にしていますか? またわがままを言ってあなたを困らせているのではありませんか? あなたはあの子には甘いから。もうすぐお姉さんになるのだから、もっとちゃんとしなさいときつく叱って下さい。

 生まれる子には何と名付けましょうか。私が戻るまでに決めておいて下さい。もし男の子なら、あなたのお父さんの名前を頂くのが一番良いと思います。きっといつか、今私のお腹の中にいる赤ちゃんが成長した頃には、このことを家族で静かに語り合って過ごせる日が来るでしょう。

 だから私の為に悲しまないで下さい。私は天にいらっしゃる神様と同様に潔白です」

 (二)ペーターからレベッカヘ。一九四○年。

 ペーターは、暗い独房の中で妻へ手紙を書いていた。

 飲み水すら満足に与えられていない状況で、ひび割れの無数に出来た指先はひっきりなしに震えているという有り様だった。悪臭が鼻を刺す。人間としての尊厳はここへ来て一週間で完全に失われたと言って良い。そうでなくとも、彼の腎臓は既に腐りかけており、死は既に時間の問題だった。

 その手紙が妻の元へ届く可能性は限りなく低かった。妻のレベッカも下手をすれば別の収容所に連れて行かれているかも知れないのだ。しかしそれでも、彼は無我夢中で書き続けた。

(人種生物学上劣等な人間全ての根絶……だがアインシュタインが、マルクスが、フロイトが劣等な人間だというのか? 能力のある者達を根絶やしにする必要がどこにあるというのだ? 

 おそらく彼らは本気なのだろう。私達を移送した兵士達は、何の罪もない人間達を家畜以下に扱った。よろしい、迫害も甘んじて受けよう。どうせ長くは保たない政権だ。敗戦国のドイツが、全ヨーロッパを、全世界を敵に回して、いつまでも戦えるものか。いずれ戦争は終わる。それまで私がここで生き延びられるかどうかは怪しいが……)

 しかし、彼の懐疑的な精神さえも、虐殺されたユダヤ人の数が、僅か数年の間に六百万人にも及ぶことになるとは予想できなかったのである。そして殺されたのはユダヤ人だけではない。ポーランド人やチェコスロヴァキア人も含めるとその数は一千万人に達するとも言われている。

「愛しい妻、レベッカへ。もしかしたら私はここから出られないかも知れない。また弱音ばかり吐いてと、君は言うかも知れないが、ここでの生活は希望を持ち続けるにしては厳しすぎるのだ。

 アンナのことなら心配はいらない。叔父の所にかくまってもらっている。彼なら大丈夫だ。アンナがわがままだなんてとんでもない。あんなに優しく利発な娘は他にはいくら探しても見付からないだろう。別れ際に、こんなことはそんなに長くは続かないから、きっとお母さんを連れて戻って来る、その時は弟か妹が一緒だよと言ったら、赤ちゃんのお世話は私がやるわと微笑んでくれた。

 もし男の子なら、君の言うとおり、サムエルと名付けよう。でももし女の子なら、君と同じレベッカだ。他には考えられないね。

 ここのところ体中が痛むんだ。もしかしたら頑張りきれないかも知れない。その時は……いや、こんなことを書くべきではないな。私達は、何も間違ったことはして来なかったんだから、胸を張って生きるべきなんだ。

 それに、私はいつだって幸福だった。

 だから何があっても悲しまないで欲しい。」

 (三)レベッカからペーターヘ。二二九○年。

 レベッカは、暗い独房の中で夫へ手紙を書いていた。

 ペーパーレスのコンピュータが個人の通信手段の主流となった時代もあったが、今や全て「自然に帰れ」の名の下に、合成品は排除されていたのだ。

 科学技術の進歩は一瞬人々の生活を向上させたかの様に見えたが、二十世紀後半における未曾有のエネルギー消費により、地球資源は完全に枯渇し、文明はそのまま逆行を始めた。地下水は完全に失われ、内分泌撹乱物質が溢れだし、人口の三割以上が化学物質過敏症になった。

 人々は科学の発達こそ人類の衰退を早めた原因であると考えた。そしてその担い手であった「研究者」は最も憎むべき存在だった。もはや高い知能など、恐るべき破滅をもたらした科学という名の魔術を扱う者の証にしかならない時代がやってきたのである。あらゆる科学技術を捨て去るだけでは満足できなかった。

 最初の犠牲者達は人口受精児やサイバネティクスなど高度な科学技術の産物と見なされた者達だった。彼らが処分されこの世からいなくなってしまっても、慢性化した食糧不足は解消されなかった。さらに数百万規模の人口調整が必要だった。

 そこで知能の必要以上に高い者は、忌むべき科学文明を復活させる恐れがあるとして、極力これを処分するべきであるという決定が下された。しかし知能測定の手段は既に失われて久しく、単なる知能テストではごまかされてしまう。そこで採用されたのが催眠術と麻薬だった。意識の混濁した状況で詰問し、科学を肯定する発言を引き出す。そこには明確な基準も、公正な審査もなかった。結局、レベッカ自身も何が決め手になったのか分からぬまま、目が醒めた時には既に高知能者と診断され投獄されたのである。

 レベッカは夫と畑でジャガイモを栽培していた。イモの育て方と取引のための手紙の書き方、そしてイモとお金の数え方、それが彼女の持っている知識の全てだった。彼女は自分のどこが高知能者なのか理解できなかった。せめてお腹にいる子供だけでも見逃して欲しい、成人するまでチャンスを下さいと嘆願したが無視された。高知能者の遺伝子を残す訳にはいかない、それが政府の見解だった。

 レベッカは必死に考えた。考えてもどうしようもないと知りつつ。

(子供すら助からないと知ったら、ペーターは死んでしまうだろう。ただでさえ、私なしにはまともに生活できない人なのに……)

 彼女は手紙に嘘を書いた。彼女にとっては生まれて初めての嘘だった。泣きたくなったが、涙すら出なかった。泣くこともかなわぬ程の絶望が彼女を既に打ちのめしていたのだ。

「愛するあなたへ。もしかしたら頑張りきれないかも知れない、なんて弱音を吐いたりしないで下さい。自分から負けては駄目です。何があっても、希望を失わないで。

 私もアンナに会いたい。生まれた子を連れてあの子の元に……。でも私は帰れないのです。何故私があなたと別れて、一人死ななくてはならないのか分かりません。私は何の罪も犯していないのに。

 けれど悲しまないで。私の子供だけは助けてくれると、そう言われました。サムエルかレベッカか、まだ私にも分かりませんが、この手紙が着く頃には、あなたのところに私とあなたの子供が送り届けられる筈です。

 だって当然でしょう? 生まれたばかりの子供に罪はありませんもの。もしかしたら、私は自分の知らないところで何か罰せられるようなことをしたかも知れません。蜘蛛を潰したり、蟻を踏みつけたりしているかも知れません。だから自分のことはあきらめられるのです。でもこの子だけは! 何かの罪に問われるようなことは決してないのだと断言できるのですから!

 どういう形で死を迎えることになるのか、私はまだ知らされてはいません。でも最後まで頑張って見せます。最後の瞬間まで、そのほんの一秒前まで、何か奇跡が起きないとも限らないわ。その瞬間に、全てが許されて、皆が釈放されるかも知れません。何故だか分からないけれど、そんなことが起きてもおかしくないような、そんな予感がするのです。

 その時は、きっと一番にあなたの元へ駆けつけます。

 だから悲しまないで、私の大切な人へ」


(終)



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