「アイと私(シ)」


 私はじっと目の前にあるグラスを睨み付けたまま、目的もなく言葉を吐き出していた。私の関心はもっぱら、そのとめどもなく放出される語句にではなく、透明な黄金色の液体の手前に見える、ガラスの表面にへばりついている小さな白い繊維のかけらに向けられていた。

「人は認められてはじめて自分の存在を確認できるんだ……。人生に意味はない。しかしそんなことは今更議論しても始まらないことなんだ。意味がないことなんか意識していないで済むくらいに今が満たされているなら……」

 アルコールが思考回路を鈍化させているのが自分でも分かる。何を言っているのだろう。何を求めているのだろう。グラスを手に取って揺らしてみる。液面に反射する光の色が微妙に変わる。カウンターの向こう側で、バーテンダーの白いワイシャツがせわしなく上下に振られているのが分かる。

「何かしていないと生きている気がしないから、何かをやっている……それだけなんだ。それ以外に、何の目標もない。そして、それが時々……とても耐えられなくなると感じることがある。分かるかい?」

 返事はなかった。問われたのが自分自身だったとしても、こんなことを言われては困惑するだけだろう。馬鹿げている。もうこんな会話は打ち切らねばならない……そう自分の中で既に気持ちは決まっていたが、今やそれを打ち切るきっかけすら掴めなくなっていた。

「つまらないよな……そうだよな。何か解決策がないかと思って言っている訳じゃあないんだ。そう、解答はない。原因も疑問も、全ては自分の中にある。そして自分そのもの自体、自分ではどうしようもないものの一つだ。自分が感じることを自分で感じさせないようにすることなんか出来ないんだ。思うことを止めることはできない……そうだろう?」

「そうですね」

 私は一瞬、反応が遅れた。何か言葉が返されてくるなどとは期待していなかったのだ。今の言葉は確かに自分に向けられて発せられたのだろうか。いや、本当に相手が口に出した言葉なのだろうか。

 私は、おそるおそる顔を右に向けた。

 そこにいたのは、さっきまで私の話を無視していた相手ではなかった。

 今右隣に座ってこちらを向いている人物は、細い眉毛に細い目……白目が見えぬ程つり上がった目と、鷲鼻の下に薄い唇が並んだ、細面のどこか病的な青白い顔をしていた。髭は薄く髪は無造作に真ん中で分けられていた。そしてその顔は、忘れようにも忘れられぬ程脳裏に刻み込まれた、この世で私が最も憎悪するものだった。それは美醜の基準とは全く無関係に、文字通り一種の生理的嫌悪感を催させた。

 そこにあったのは、私の顔だったのだ。

 私と全く同じ顔をした男が、私の隣に座って、私に向かって微笑んでいる。

 

 私は混乱した。

 この男は一体誰なのだ。

 そもそも私は……誰か別の人間とこの店に入った筈ではなかったか。

 誰と?

 思い出せない。

 男だったか女だったか、年上だったか年下だったか……一瞬前のことのはずなのに、その記憶がないのである。体中をゆっくりと回っているアルコールのせいだろうか。確かに意識はどこか虚ろだ。誰とここへ来たかということが深刻なことに感じられないほど、私の他人に対する無関心は程度が進んでいる。そもそも、連れだって飲みに来る、などという相手が私にいたはずがないではないか。

 そうだ。私は人とまともに会話などしたことはない。

 私は力のこもらない眼差しで再び相手を観察した。相手は依然として微笑したままだ。そこに軽蔑心も憐憫の情もない。心から同情している、ということが何故か手に取るように分かった。そして、それに気付くと共に、私の中に生まれた嫌悪感はさらに増大した。

 口にしなければならない問いは頭の中で無数に繰り返されていたが、私は何も言わなかった。言うことができなかった。そして相手は、そんな私を見ながら武装解除の微笑をずっと続けている。こちらから喋らない限り、決して口は開かないつもりらしい。

「あ……済まないけれど……お会計を……」

 カウンターの上に置かれたグラスの方へゆっくりと視線を移しながら、私は殆ど独り言のようにつぶやいた。

「六千四百五円です」

 その涼しげな声の響きに、私は思わず顔を上げた。

 バーテンダーがにこやかに笑って、レシートをトレイに載せて差し出していた。

 そして私の目の中で、バーテンダーの顔が私自身の顔と重なっていった。

 その変化はスローモーションでも見るようにゆっくりと訪れたが、次の瞬間、私は目の前に白い服を着てにこやかに立っている男の、見慣れていた筈の元の顔をすっかりと忘れてしまっていた。

 まさしく、その一瞬前までバーテンダーとしてすぐそこにいた男は、私自身と同じ姿に変わっていたのだ。細い目をした、病的な青白い顔の、気色悪い自分自身の姿に。

 意識は完全に混乱していたが、私は物も言わずに機械的に背広の内ポケットから財布を取り出し、一万円札をトレイに載せた。そして斜め後ろへと体を傾けて周囲を見回した。馴染みの店内には何一つ変わったところはない。バーにしては天井は高めで、暗い照明の中でオレンジ色に鈍く光る壁が周りを囲んでいる。カウンターは七人くらいなら横に並んで座るだけのスペースがあり、四つずつの椅子に囲まれた丸テーブルがその後ろに五つ並んでいる。

 合わせて六人程の客が店内にはいたが、今やその全員が、私と同じ顔をしていた。

 私が後ろを振り向くと同時に、その中の何人かがこちらへと顔を向けた。そして皆が同じように、私に向かって微笑んでいたのだ。

 表現しがたい恐怖が背中から湧き上がってきた。アルコールによってもたらされる幻覚にこんなものがあったとは……しかし、それにしても意識ははっきりしている。酔っている時に感じる、あの独特の昂揚感や一種の無防備な幸福感というものは全く感じられない。現実からふと遊離しているような、あの感覚がないのだ。

 私はふらつきながらも、辛うじてその店から外へ出た。釣り銭を貰ったかどうかは覚えていない。

 地下鉄の車両の中で、私は扉のすぐ隣のシートに腰を下ろしたまま、うつろな目で周囲を見回していた。

 ここでも、座席に座っている全ての人間が私だった。服装はそれぞれ違っていたが、顔は皆同じで、全員が私を同情の眼差しで見つめ、微笑していた。拷問でも受けているような最悪の気分だった。周囲に自分と全く同じ人間達がいるということ、そしてそれらの全員が、私に顔を向けているというこの単純な事実が、私を苦しめていた。

 人の視線は恐ろしい。それが無関係の他人ではなく知人であればなおさらのことだ。ましてや相手が自分自身となれば、その恐怖は倍増する。今までどれ程までに、他者の無関心を支えにして生きていたかを痛感した。

 私自身の顔はいつも私にとっては嫌悪の対象だった。どこがどうというのではない。まさしくこれが自分の顔であるということ、そのことだけで嫌うのに充分だった。私は自分が嫌いだった。自己嫌悪こそ唯一疑うことの出来ない自分自身の感情だった。こんな私のような人間が、白昼堂々と外を歩いているとは……そう考えるだけでうんざりする程だった。

 車両にいる私と同じ顔をした人間達も、もしかしたら同じように異様に感じているのかも知れない。張り付いたような微笑を続けているにも関わらず、私に近付こうとする者は誰一人いなかった。よく観察してみると、彼ら自身も無意識のうちに、互いに触れ合うことを避けているようだった。話し声一つ起こらず、不気味なほど静まり返った車内で、私はしばらく呆然としていたが、やがていつの間にか、他の者と同じように意味なく微笑みを浮かべている自分自身に気付いた。

 地下鉄の駅を出て、人通りの少ない夜の道を自宅へと向かう。自分の借りているマンションにたどり着くまでは、曲がりくねった細い道を十分程の間歩かなくてはならない。終電間際のこの時間ともなると、通りかかる人間は殆どいない。毎日のようにこの道を通るのだが、元来臆病なところのある私は、いつも以上に背筋に寒気を感じていた。今晩だけは、誰ともすれ違いたくはなかった。

 小さな十字路の角に古ぼけた清涼飲料の自動販売機が置かれている。何気なくそちらの方に顔を向け、その機械の正面のデザインを見て、思わず鳥肌が立った。

 自動販売機の正面にあしらわれた、手に缶を持って商品を宣伝しているタレントの上半身の写真。

 そのタレントの顔も私だった。あの忌まわしい笑みを浮かべていた。

 自分は完全に発狂したに違いない。そう結論を下した私は、足早にその場を駆け出そうとした。その時、こちらへ向かって近付いてくる光があった。

 その光源が発している小さな金属音から、それが自転車であることに気付き、私は思わずその漕ぎ手の顔を見まいと目をそむけようとしたが、既に遅かった。薄いグレーのトレーニング・ウェアに身を包んだその自転車乗りも、まさしく私と同じ顔をしており、私が目をそらす前に、既に視界に収まっていたのだ。暗闇の中でより陰影を深めたその作り物のような顔は、私と同じ目でこちらを見つめていた。

 早く帰り着かなくては……マンションまであと四分程度。

 出し抜けに犬が私へ向かってけたたましく吠えた。通り沿いのやや広い一軒家で飼われている、まだ小さなビーグル犬。その小柄な体に似つかわしくなく、毎日通りかかる人間達に向かって強気で吠え立ててくる。いつもなら、少しくらい吠え立てられても気にしないところだが、私の萎縮した心臓は鼓動を速め、全身の毛が逆立った。まさか……まさか犬までが。

 確かめる必要はない……そう思った時には既に顔を横へ向けていた。一瞥をくれたとき、そこにいたのはまぎれもなくいつもの犬だったが、どことなく顔が歪んで見えた。まるで人間のように両眼が前を向き、鼻の色が皮膚と同じで……「変化」が始まりかけているようだった。

 一瞬立ち止まった私は、今まで自分の靴音にかき消されていたもう一つの足音に気付いた。こちらへ近付いてくる者がいる。音は前方から聞こえてくる。頼む、こちらへ来ないでくれ……。

 十メートルほど先の道路の左側から、すっと一つの人影が現れ、こちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。そろそろ夏も近いというのに、黒く長いコートに身を隠している。真新しい革靴がゆっくりと、しかし周囲に響きわたるほど大きな音を規則的に立てていた。不自然に鍔の広い帽子を深くかぶっているので、顔が影に隠れてうまく判別できなかったが、そこにあるのも自分の顔であることを、既に私の心臓の鼓動が訴えていた。

 私は反射的に視線を落とし、そこにしゃがみこんでいた小さなビーグル犬と目と目が合った。予想していた通り、その犬の顔は私と同じになっていた。犬は既に吠えるのをやめ、あの醜い微笑をこちらへ向けていた。

 私は視線を真っ直ぐと定めることすらできないまま、足早にその場を立ち去った。そしてその後すぐに、すれ違った人物の顔を確かめなかったことを後悔した。もしかしたら自分と同じ顔ではなかったかも知れない。

 得体の知れない恐怖感がそっと背中から忍び寄って来た。空を見上げると、漆黒の天の中に満月が輝いていたが、その月の表面にすら自分の顔のシルエットが浮かんでくるようにさえ思った。

 誰もいないマンションの一室に帰り着いたとき、私はやっと孤独に戻ることによって落ち着きを取り戻した。自分は酔っているだけだ。朝になれば全て元に戻っている筈だ。着替えもせずに、私はそのまま自分のベッドへと倒れ込んだ。天井に目を向けると、そこには私が貼り付けた、ターナーの風景画の複製がある。人物画ではなかったことがもっけの幸いだった。

 ベッドのすぐそばには、黒い電話の子機が置かれている。誰かに電話をして自分の正気を確かめようか。だが、もしその返事が自分と同じ声だったら……。考えてみれば、仕事上の必要がない限り、私は自分から他人へ電話を掛けたことはない。受話器を取っても、誰に掛ければよいのか分からない。友人も知人もいない……いたかも知れないが思い出せない。家族や親戚に連絡を取るなどということは考えたくもない。私はじっとその鈍く黒光りする通信機器を見つめていたが、結局それを手に取ることはなかった。

 部屋の照明を消し、目を閉じてそのままじっとしていたが、少しも眠くならなかった。周囲の人間全てが自分という、この状態がもしいつまでも続くとしたら……。頭の中で妄想が広がる。世界中にいる人間全てが自分と同じ。その全ての人間が、そのまま同時に年を取り、そして死へと向かっていく。白髪に皺だらけの、異臭を放つ死にかけの人体が、街に溢れ、空間を埋め尽くし、醜く蠢いている。これ以上吐き気を催す光景があるだろうか。そして臨終の場を見届けるのは、同じく老化している自分自身達。これはもはや葬式とすら呼べまい。最後の一人が絶命するとき、その私自身がたった一人で死を迎えるとき……それが人類の滅亡なのか。いや、それならば全ての人間が同じ私という人間に置き換えられた時点で、既に人類は絶滅していたと考えるべきかも知れない。

 臨終の床にある私は、力無く叫ぶ。

「このままみんなして死んでしまうのか。誰もいなくなってしまうのか」

 しかしそれに答える者はいない。皆不安げな、曖昧な微笑を繰り返すばかりだ。死に損ないの複製共が、歯の抜け落ちた乾いた口を力無く開けて笑っている。

 死に行く老人となった自分の姿に同調していく自分自身を感じ、得体の知れぬ恐怖感が再び背中から自分の肉体を浸食してきた。

 どうせなら今死んだ方がましなくらいだ。

 無理矢理自分を寝かしつけるために、机の引き出しから薬箱を取り出し、ベンザリンを二錠程飲み、問題なく朝がやってくることを望んで再びベッドに身を横たえた。

 しかし、朝はやっては来なかった。

 目覚めた時、私は再び闇の中にいた。いつの間に眠りについたのか、いつの間に目が覚めたのか定かではない。机の上に置かれたデジタル時計は午前七時十分と表示されている。時は刻まれているようだ。しかし身を起こしてカーテンを広げても、屋外は夜の闇に包まれたままだった。自分の顔の陰影が刻まれた満月が、宙に浮かんでいる。

 こんなことが合理的に起こり得るだろうか。

 私は自問自答するしかなかった。

 これは現実ではない。仮想空間の出来事なのだ。

 そんな映画があったじゃないか。自分自身の肉体はどこか異世界の培養槽に浮かんでおり、薬物を注入され、脳神経にはコードが接続されていて、外部から感覚をコントロールされているのだ。自分の肉体の置かれている場所が、異星人の宇宙船の中なのか、政府の秘密の研究所なのか想像もつかないが、少なくとも今自分が目にしているのは現実の世界ではなく、他人が全て自分に見えるのも、おそらくは電脳装置のバグかもしくは実験の一部として組み込まれたプログラムのせいに過ぎない。他者が全て自分自身などということは、現実にはあり得ないことだと私自身も知っているではないか。

 だが確かめようがない。そして誰かがこの仮想現実に介入してくれない限り、私はここから抜け出すことはできない。自分の運命は姿の見えない他者にゆだねられていることになる。私の仮説は少々幼稚過ぎるかも知れない。しかしそこにいくら複雑怪奇な説明を重ねていっても、おそらくは何の解決も見出すことはできないだろう。

 私はただひたすら恐怖するしかないのか。

 それとも、単に私が狂っているだけかも知れない。

 「自己像幻視」と呼ばれるものがあると何かで読んだことがある。自分自身の姿が見えてしまうという、いわゆるドッペルゲンガーという現象だ。意識障害やアルコールによるせん妄状態にある時、そして健康者でもひどく疲労しているとそんなことが起きるという。また精神分裂病の症状の中には、他者が何者かに乗っ取られて自分の目の前に現れるというものがあるそうだが、自分以外の他者が皆異質な人間にすり変わっている、という点ではこの感覚に近いのかも知れない。

 もしくはそこに私自身の一種の願望があるのだろうか。これは私の望んだ世界ではないのか。他人全てが私と同質で、私を理解し、私を放って置いてくれる世界。他者の恐怖のない世界。人と触れ合うことができず、会話すらかわすことができない私にとっては、まさにうってつけの世界ではないか。

 だがこの世界は、私の孤独を癒すものとはならないだろう。私と同じ顔をした者達は、私と同じように他者を拒絶する。相手と距離を置いて、ただ武装解除の微笑を浮かべるだけなのだ。むしろこれは、一種の罰だと思った方が理屈が合う。他人を受け入れる術を持たない私に対する罰なのだ、と。

 理屈が合う……なんという薄弱な根拠だろう。しかしこの罰は確かに効果的だ。私が最も嫌悪する、最も耐えられない存在で世界が埋め尽くされているとは。もう一人の自分に手を差し伸べて、相手の肌の感触を味わう自分を想像しただけで寒気がした。何故それが耐えられない行為なのか、自分でも説明がつかない。ただそれこそが最も恐るべき瞬間と成りうるだろうことは容易に想像がついた。意識を持ったもう一人の自分と目と目が合う、その経験を思い返すだけで叫び声を上げたくなった。

 

 自殺をしてみようかと思った。しかし、不思議なことにできなかった。

 自らの肉体を嫌悪する以上、これほど適切な処置があるだろうか。しかし一方で、自分は既に死後の世界にいるのと同じではないかと思った。死ぬときは人間皆一人きりだ。だから死んだ後には自分しかいない。ここと同じだ。死んでいても死んでいなくてもどちらでも構わないような気持ちだった。死の苦痛を恐れていることは否定できないが、それ以前に自殺に望みが抱けないでいる自分がいた。強烈な絶望でもいい、大義名分でもいい、自殺にはもっと何か内に秘めた強烈な感情が必要なように思われた。

 ならば殺人は?

 別な自分を一人、殺してみたらどうだろうか。

 多分、力に殆ど差はない。その気になれば、抵抗らしい抵抗もなく殺せるに違いない。殺しても構わないではないか。どうせ皆同じモノなんだから。

 この場合、殺すのは自分だ。他人ではない。だから自殺と変わりあるまい。

 それに、何か違う結末がそこに訪れるかも知れないではないか。

 自分を殺した瞬間、全てが反転し、世界は正常に戻るかも知れない。この夢遊病者の幻覚のような世界が、一瞬にして現実の世界となるのではないか。自分と同じ人間の死という、この強烈な打撃が、朦朧としている今の自分を現実へと引き戻してくれるかも知れない。

 そこには未だかつて感じることのできなかった、新しい体験が生まれる筈だ。

 少なくとも、何かが変わる筈だ。

 別の自分を殺すこと。その発想は自然と自分の心の中に芽生えたが、そこには興奮も戸惑いもなかった。無感動なまま、私はその考えを実行に移すべく行動を開始した。

 私はクリーニングしたばかりのワイシャツをタンスの中から引っ張り出し、ネクタイを締め、これから勤めにでも出掛けるかのように、いそいそとブルーの背広に着替えた。身の引き締まる思いがした。そしてキッチンへと足を運ぶと、扉の中から最も切れ味の良いヘンケルの包丁を取り出し、そのまま背広の内ポケットへと差し入れた。刃物を仕舞う場所としては少々小さいがこの際仕方がない。刃先が少し布地を破ったが、そのまましばらくは支えて置けるだろう。背広姿で包丁を振り上げる自分の姿を想像して幾分滑稽な感じがしたが、少なくとも自分には最も相応しい装いだ。私はそのまま自分の気が変わらないうちに部屋を飛び出すことにした。

 内ポケットにある包丁を右手で上から押さえたまま、犠牲者を探し求めて夜道をゆっくりと歩いた。相手を殺しても良いのだと思うと、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。しかし、あくまでそれは想像の域を出ない。いざもう一人の自分を目の前にして、そのまま行為に及ぶことができるだろうか。怖じ気付くのではないか。殺して良いということと、殺せるということとは違う筈だ。

 三分と経たぬうちに、一人の人間が近付いてきた。かすかな期待を裏切り、それはやはり自分自身と同じ顔をした人間だった。灰色の作業服を着てうつむいたまま近付いてくるもう一人の自分。

 殺せる。

 殺せる。

 今なら殺せる。

 ……。

 ……そして相手はそのまま通り過ぎた。できなかった。何故できなかったのか。そこには良心の呵責というものは存在しなかった。ただ初めて水に飛び込もうとする子供が躊躇するように、その一歩が踏み込めないだけだった。

 次のターゲットに賭けるしかない。

 そしてもう一人の自分がやってきた。

 茶色いジャケットを着たもう一人の自分。どこか悲しげな目で前方を見ている。

 殺せる。

 殺せる。

 今なら。

 ……。

 すれ違うその直前、相手は機械仕掛けの人形のようにこちらを向き、そしてあの忌まわしい微笑を投げかけてきた。その瞬間、私の殺意はタイミングを失い、阿呆のように微笑を返した。相手はそのまま通り過ぎた。

 自分には殺人はできないのではないか。

 そもそも相手に触れることもできないのに、殺すことなどできるのか。

 いや、できる筈だ。相手とコミュニケーションを取ろうとしているのではない、それをむしろ完全に断ち切る行為をしようとしているのだ。それはとりもなおさず、今まで自分がやってきた行為そのままではないのか。

 さあ、やってしまえ。

 奇妙なことに私はこの時、次の機会で踏みとどまってしまった場合は、殺人は諦めようと決意しかけていた。三度目のチャンス、これを逃したならば、もうこのことは考えまい……急いで部屋に戻ってその中に立てこもり、一人静かに死ぬまでそこから動くまいと、そう思っていた。

 そしてそう心を決めたとき、私は文字通り一歩を踏み出したのだ。

 三人目の私は、今の私と同じようなブルーの背広姿だった。これは何かの啓示だろうか。不思議と力は入らなかった。まるで相手に名刺でも差し出すかのように、ゆっくりと相手の前へと進み出て、右手でしっかりと包丁の柄を掴み出すと、そのまま相手の左の胸へと刃先を突き出した。

 最初相手の表情に浮かんだのは、恐怖でも憎悪でもなく、困惑の色だけだった。

 おそらく、その瞬間の私の顔もそうだったに違いない。そこには殺人を犯すに釣り合うだけの激情はなかった。何故こんなことをするのだろうという疑問が、そのまま表情に現れていたのではないだろうか。

 そして刃先がゆっくりと私の心臓を貫いていった。

 私の口から苦痛の叫びがほとばしり出た。

 そのまごうことなき自分自身の叫び声を聞いたとき、私の中に言いようのない恐怖、文字通り地の底から湧き上がるようなどす黒い恐怖が生まれ、一瞬にしてそれが全身を貫いた。自らの死を宣言する断末魔の声、その声を聞いている自分自身。そして……。

 激しく痙攣し、こちらにしがみついてくるもう一人の自分自身。その恐るべき感触。なま暖かい血液が、二つの異なる自分自身の肉体をまるで糊で接着させようとでもするかのように、絶え間なく吹き出してくる。そして目と目が合った。死に行く自分自身の顔。最も嫌悪すべきその顔には、怒りも恐れもなく、ただ絶望的な苦痛だけが現れていた。その他人には決して知ることのできない、自分自身だけが受け取ることのできるメッセージを、私の脳は感知していた。

 私は自分を殺した。

 自分の肉体が、血の海の中に崩れていく。

 しがみついて来る、力のなくなった腕をゆっくりと振りほどき、私はもう一人の私がその場に倒れ込んでいくままに任せた。

 これは何か、特別な現象なのだろうか。

 

 何かが変わることを私は期待した。

 表現しようのない究極の恐怖が私の体を駆けめぐった瞬間、それに合わせて世界が反転することを。

 

 しかし何も起こらなかった。

 世界は沈黙を守り通した。

 死体の側に、それこそ死体のように身動き一つせずに突っ立っていると、いつの間にか数人の私が近付いてきた。彼らは別に驚愕した様子も見せず、とぼとぼと歩いて来た。彼らはちらりと悲しげな、否定的な眼差しを私に向けたかと思うと、そのまま私を無視して死体を取り囲んだ。そしてその中の一人が白いシーツを取り出し、示し合わせたように手際よくそれで死体をくるみ、そのままどこかへと運んで行ってしまった。

 私は彼らが立ち去った後も、その場に立ち尽くしていた。

 何も変わらない。

 私は何をしたのだろうか。

 私は何を期待していたのだろうか。

 私は一人の私を、私自身の一部を、確実に失った。

 ただそこには、殺人という行為に対するエゴイスティックな絶望だけが残された。

 (完)

 


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