「短編小説」のコーナー

「評論/不安の時代〜京極夏彦、シュワンクマイエル、エヴァンゲリオン」



「アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』については、どうしてこだわるかというと、正直、他人事とは思えなかったというのが一番大きな理由かも知れない」
「それでフィルムブックやサウンドトラックCD、そしてCD・ROMまで集めたってわけ?」
「……まあ、普通なら、主人公の碇シンジは最終的には他の十三体のエヴァとの戦いに勝利して、アスカとは反発しつつもくっついて、レイはシンジをかばって戦死、碇指令も全ての責任を取って死ぬ、というのがパターンだろうと思っていたんだけど……」
「レイはともかく、アスカも最後には自信を喪失し病室で横たわっているところで退場。トウジの退場同様、なんとも後味の悪い……」
「でもだからこそ共感を覚えたのかも知れない。アスカについて言えば、別にシンジに負けたわけではないし、客観的に考えてみれば何も別に自信を失う必要などないのだけど、回復不可能なほど救われない状態へと落ち込んでいく。でも自分にもそういうところはあるなと思った。終盤近くの『どうでもいいわよ、もう……』という彼女のセリフはとても切実に感じた。何を言われても、決して励ましにはならないという状態は、確かにあるんだ」
「精神的な弱さに共感してしまったと?」
「弱さなのだろうか。最終話近くではそんな会話も出てくるけど、微動だにしない精神が強いとも思えない。アスカとは対照的に描かれる綾波レイは、迷いも泣き言も甘えも見せないけれど、精神的に強いとは言えないだろう。精神の不安定さは誰の中にもある」
「薬品を使って精神の安定を得ようという人達が増えてるようだね。この間NHK特集でやっていたけれどね。米国では、対人関係がうまくできない人間も、SSRIとかいう薬を使うと普通の人々同様に社会生活が営めるようになるんだそうだ。学校になじめない子供達に、コカインよりも持続時間の長いリタリンとかいう薬を投与して落第させないようにしているともね。薬で心の平和が得られるというなら、我々の精神なんてその程度のものさ」
「薬の必要な人間とそうでない人間にどれほどの差があるか、ということかもな。大友克洋の『AKIRA』でも登場人物の少年達が執拗に『クスリ』を求め合う姿が新鮮だった。向こうで受けているのも、案外そこら辺に逆にリアリティを感じているからかも知れない」
「どうだかなあ」
「いずれにしても、登場人物が、一致団結する方向に向かっていった『機動戦士ガンダム』とは違って、『エヴァ』では人物は次第に拡散していく。連係プレイで敵と闘う事もあったエヴァの三人のパイロットも、リツコ、ミサト、加持ら大学時代からの友人だったネルフの三人も、シンジの友人、トウジとケンスケさえも、最後には皆見事にばらばらになる。単に死に別れるだけではなく、コミニケーション・ブレンクダウンに陥っていく」
「コミニケーション・ブレンクダウン?」
「チャールズ・M・シュルツの漫画『ピーナッツブックス』、そうあのスヌーピーとチャーリー・ブラウンの四コマについて、コミックスでそう解説してあるのを思い出したよ。『ピーナッツブックス』の登場人物達は、皆小学生くらいの子供なんだけど、作品の所々にそんな哲学的な味付けがされている。作者がどこまでそう意識しているのかは分からないけど……。主人公のチャーリー・ブラウンは何をやってもダメな男。本当はもっと好かれてもいい筈なのに、自ら落ち込んでしまうので誰も彼を救えない。スヌーピーはチャーリーを凌いでしまうほどの万能犬だけど、言葉が喋れないから結局は周囲から誤解されたままになってしまう。他の登場人物、天才児ライナスや短気なルーシー、音楽家のシュレーダーにも同じ事が言えて、誰もが理解されたがっているのに理解し合えないでいる、片思いばかりで相思相愛のない世界……まあ、敢えて言えばスヌーピーとウッドストックは例外的に相思相愛と言えなくもないが……。四コマ形式ということで、あまり深刻にはならないように描かれているけれど、そこに共感を覚えるファンも多いと思う。ライナスの気持ちが分かるのは私だけよ、チャーリーの気持ちが分かるのは僕だけだ……という風に。『僕人類は愛しているよ、我慢ならないのは人間共さ!』というライナスのセリフはいまだに座右の銘にしているよ」
「『我々は歴史から何も学ばない。我々は数学からさえ何も学ばない』っていうサリーのセルフもいいな」
「……それでその、コミニケーション・ブレイクダウンを描いているということで、『エヴァ』の世界はリアリティを獲得した。なれあいはあってもそれ以上の人間関係は難しくなっている世界を描くということで。個々のキャラクターは、望む物を得ることはできず、次々と病院送りになっていく。殆どの主要登場人物が、病院のベッドで点滴を受けながら寝ているシーンがある、なんていう作品は今まであまりなかったからなあ」
「その病院送りってところが、君にとっては特にリアリティがあったってことかな」
「人は精神的に追い詰められると本当に病気になってしまう。病は気から、という言い回しには意外と真実味がある。脳の神経回路、ホルモンのバランス、全ては気がつかない内に、自分の意志のコントロールを超えて崩れていく。コントロールできるのならそれはストレスにはならないんだ」
「しかし確かに、キャラクターが精神的に痛めつけられ続けている、という点が妙に印象的な作品だったけど……」
「アスカの自信喪失に至る様、レイの不安故の無関心、シンジにとっての家族、ミサトにとっての恋愛、それらが妙に自虐的に描かれているところが、逆に身近に感じたのだけど、この一見マニアックな作品があれだけ話題になったのは、そういったコミニケーション・ブレンクダウンの状態を極めて現実的に感じている人達が多いからではないのかな。ちなみに『エヴァ』の制作者が影響を受けたと思われる『ガンダム』の制作者富野氏は、あまり『エヴァ』の世界を気に入ってはいないらしい。人対人の戦場でのジレンマを描こうとした『ガンダム』に対し、正体不明の敵を前にホームドラマしていると言えなくもない『エヴァ』の世界は、戦争を知らない世代ではない富野氏にとっては生ぬるく感じるのだろうけど……。父親は発狂し母親は別の男と暮らしている……ある意味で両親から完全に自立しているアムロと比較して、父親の支配下であえぎながら、母親を取り込んでしまったらしい人造人間の中に入って戦いを強いられるシンジの方が、現代の学生世代の感じている一種の息苦しさに訴えるものが大きいのかも知れない」

 痛めつけられ、縛り付けられ、封じ込められた生命体。京極夏彦の連作には共通したイメージがある。「姑獲鳥の夏」のホルマリン漬けの無頭児、「魍魎の匣」の四肢を切断された箱詰めの少女、「鉄鼠の檻」の檻など。あの独特の閉塞感。息苦しさ。それは「魍魎の匣」において頂点を究める。命ある物……ただの人の命ではない。物語前半に置いて、その内面が切々と語られる主要な登場人物が。この場合は楠本頼子と柚木加菜子だが……「楠本頼子は、柚木加菜子のことが本当に好きだった」と始まる第一章から、微妙な心のやりとりが交わされた後に、生きながらの四肢切断という悲惨な結末に至るまでを、筆者は乱れることなく淡々と描写していく。
 頼子は崇拝していた加菜子の涙が許せなくて、彼女を駅から突き落とす。加菜子は病院に運ばれ、四肢を失う。作家の久保竣公は、列車の中で雨宮が抱いていた箱の中に、四肢を失ってもまだ生きていた加菜子の姿を見る。彼はそれと全く同じ物を欲しいと思い、少女を次々と捕らえてはその四肢を切断していく。楠本頼子もその犠牲になる。
 個々の人間達の微妙な心の揺らぎが丁寧に描写される世界と、残虐性に満ち溢れた猟奇的な世界が並列して描かれる。というか、その両極端な世界が並列し渾然一体としているが故に、京極夏彦独特の、単なる犯人当てに終わらない作品が成立していると言える。
 虐げられた意志ある命のイメージ。「新世紀エヴァンゲリオン」においても、人造人間エヴァンゲリオンは人工的につくられた生命体であり、かつシンジの母親を取り込んだ意志のある生命体でもあり、拘束具でその力を押さえ込まれた存在である。そして操縦者はエントリープラグの中に液体と共に詰め込まれ、そのプラグがそのまま人造人間の体内に挿入されるという何とも生々しい構造になっている。その神経接続によるシンクロ率が低いと操縦はできないし、逆に高すぎるとパイロットは肉体を失い融合してしまう危険を伴う。それは母親の子宮をイメージしているというよりは、むしろ「魍魎の匣」の箱詰めされ自由を奪われた肉体に近いような気がする。
 もっと直接的に視覚的なイメージで「息苦しさ」を表現している物に、チェコの映像作家、シュヴァンクマイエルのアニメ作品があげられよう。そこではもはや生物にとっての「生」は、人形にとっての「動」と等価値になっている。短編「フード」では、生きた人間は場面によっては人形と入れ替わる。ある人物が部屋に入ると、そこにはもう一人の人物が黙って座っており、その首にはメニューがぶら下がっている。相手の目玉をボタン替わりに押すと、その人物の腹から朝食セットが出てくる。それを食べ終わると、今度はその人物が動かなくなり、次に入ってきた人物はまたその男の目玉を押して食事を取り出す。「食」といういかにも生物的な行為が、自動人形の機械的な反復運動に置き換えられていくことによって、我々の生がもつ機械性、機械との類似性に改めて気付かされるようになっている。「ファウスト」では、主人公は人形に扮することによって人形劇の世界の中に取り込まれ、最後には解体されその腕を犬がくわえて去っていくシーンで終わる。人間の生は人形のそれと等価値なのだ。社会主義国を徹底して批判した「スターリン主義の死」では、レーニンの胸像が帝王切開され、チェコのゴドワルド大統領の血塗れの胸像が産声を上げながら出てきて、粘土細工の労働者を次々と潰していく。シュワンクマイエル自身は政治批判としてこの作品を作っているのだが、肉体を無生物で表現しているその形そのものにむしろ強い印象を受けた。非生物的な生命の姿をここまで徹底して追及している映像作家を他には知らない。
「死の王」というドイツ映画が単館ロードショーで公開されていたが、これは死体が延々と腐っていく様を間に挟みながら、一週間一日一日の「死」をテーマにした短編を並べた作品で、あおり文句の割には淡々とした描写にむしろ戸惑いを感じた。しかし根底に流れている物はどこか共通している。生と死が等価値ではないかと暗に示唆していることだ。
 京極作品の中では簡単に沢山の人間が殺されていく。しかも普通ではない、しかし単純な動機で。本来ならそこまでやると安っぽくなってリアリティが感じられない筈なのだが、なぜかそうは感じられないのだ。「鉄鼠」の犯人は相手が悟りを得たその瞬間に相手を殺してしまう。相手が悟りを得て、生の煩悩から救われたからというただそれだけの理由で。「絡新婦の理」の犯人はただ人物関係に網を張り巡らせただけで、自らのコントロールさえきかないところで自動的に殺人が行われるように仕組んだ。自動的に殺人が行われるネットワークシステムという発想は、いかにも京極世界ならではのものだ。
 京極堂は犯人に向かって言う。「幾ら居場所を獲得するためとは云え、あなたはいったいあなたの後ろに幾つ骸を転がせば気が済むのです」
 そう、「絡新婦」の犯人は自分の居場所を獲得するためにこの計画を練り上げたのだと言う。居場所が欲しい、それは「エヴァ」のパイロットも言っていたことではなかったか。シンジの母親は消失し、友人のトウジは片足を失い、心を通わせたカヲルを自らの手で抹殺することになる。彼の意志に関わらず、死体が増えていく。そして自らそれを意図したにも関わらず、「絡新婦」の犯人もその自動的な殺人ネットワークを自ら止める事ができなくなって苦悩する。
 シンジの殺した使徒、渚カヲルは言う。
「…このまま死ぬこともできる。生と死は等価値なんだ、僕にとってはね」
 生と死はなぜ等価値なのか。この言葉を単純に聞き流すことができなかったのは、自分自身があまりにそういった作品群に慣れ親しんで来たためなのかも知れないが。
 ふと気が付いてみると、まるで人形に等しいような空しい生を送っている我々は、その息苦しさの中に自らを見失い、自らの肉体に箱詰めにされた意志にとって、生と死の境界線は、動いている人形と動いていない人形の違いほどにまで曖昧になっている。それが自分の死であれ、他人の死であれ。

「それで、『エヴァ』の自己啓発的最終話についてはいかが?」
「基本的には、ビデオ・リメイクおよび映画版まで待つつもり。伏線が解決されていない以上、認めるわけにはいかないな」
「あれはあれで、という意見もありますが」
「良く分からないよ。なぜ『僕はここにいてもいいんだ』で『おめでとう』となるんだよ。何の解決にもなっていないじゃないか。大体どうしてあの話の流れで『父に、ありがとう』なんだよ。感謝する理由など何もないじゃないか。親友を傷つけ、好きになった人間を殺すところまで追い詰められながら、そう簡単に相手を許せる筈がないんだ。シンジがゲンドウと和解する必要性など何もないはずなんだ。個々の登場人物にはそれぞれ背景があり、その行動にはそれなりの動機がある。別に碇ゲンドウの行動そのものについてどうこう言う気はないが、シンジがゲンドウを認めるためにはそれなりの物語上の理由付け、段取りが必要なはずだ」
「親と子の関係というのは、まあ極端に描いた方が作品として面白くなるのは確かだけどね。特に父親はね。京極夏彦の『魍魎』の美馬坂博士も凄いけど。実の娘との間に生まれた、娘でもあり孫でもある加菜子を『箱』に封じ込めるという……こうしてみると、『エヴァ』と京極世界も見事にシンクロしていますな。京極世界の方が、近親相姦のオンパレードで相当生臭いのも確かですけど。さすがに『エヴァ』も近親相姦は扱っていないし」
「……もっとも母親を取り込んだエヴァ初号機に、シンジのエントリー・プラグが挿入されるところや、母親のクローン体と思われるレイとシンジの関係なんかには、相当あやしいものがあるけど。
『魍魎』が他の作品と異なる点は、美馬坂幸四郎という非人道的な、しかし意志の強固などっしりした人物が中心に居座ることによって、作品の構造が揺るぎないものとなっていることだ。『鉄鼠』や『絡新婦』の犯人も事件の中心にいるのだが、その地盤は揺らぎやすく、意外と脆い。
 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも言えることだろう。小林秀雄は『……空想的な家長の代わりに、フョオドル・カラマーゾフという血腥い頑丈な人物が、宰領するカラマーゾフの一家を、僕等はもはや「偶然の家庭」と見ることは出来ない』と書いている。フョオドル殺害を巡る三兄弟の運命は、実際、殺される父親自身が握っていたと言っても過言ではない」
「現代に置いて父親を描くことは難しいだろうけれど、『エヴァ』のゲンドウはなかなかのところまで描かれているだけに、安直なオチは認めにくいというところか。そう言えば手塚治虫の作品でも、父親の描かれ方には興味深いものがあるよな……」
「『鉄腕アトム』で、アトムの実の生みの親天馬博士は、アトムが成長しないことに気付くとあっさりとサーカスに売り飛ばしてしまう。彼を育ててくれるのはお茶の水博士という赤の他人なのだ。『アトム』の第一作『アトム大使』では、天馬博士は細胞縮小液でもう一つの地球からやってきたパラレルワールドの住民達を消滅させようと画策する完全な悪役だ。彼は自分をいましめるアトムを破壊するが、お茶の水博士によって修理されたアトムによって反撃され、自ら縮小液を浴びせられて消滅してしまう。『ブラックジャック』の父親は、重態の母親とB.J.こと息子の黒男を置いて外国へ行ってしまう。彼を支えたのは恩師本間博士であり、実の父親ではない。『どろろ』の百鬼丸の父親は、生まれてくる赤子の体を魔物に捧げてしまい、従って体の全ての器官を失ったまま産み落とされ、捨てられてしまう。彼を救い、父親代わりになるのは彼に義眼・義手・義足を作ってやった医者だった。『ジャングル大帝』のレオの父親パンジャも、『リボンの騎士』のサファイアの父親も物語の前半部であっさりと死んでしまう。『0マン』でもリッキイと行動を共にするのは実の父親より田手上博士の方だ。手塚作品に置いて、ヒゲオヤジこと伴俊作を始めとして、お茶の水博士、猿田博士、花丸博士など魅力的なおじさん達の出番はとても多いのに、彼らは皆揃いも揃って『父親』ではないときてる」
「確かに、言われてみるとそうだね」
「石上三登志氏との対談でも、『僕には父親の愛情なんて分からないんですよ』と言い切っているもんな。勿論そこには、権力の象徴と言う意味での父権に対する懐疑、という側面もある。終戦後、いきなり価値観がひっくり返った時期に作品を描き始めた手塚氏にとっては、人々を戦争へと追いやった当時の一般のいわゆる父親的なものへの反発があったのかも知れない。ただ、おそらくはそれだけにとどまらないと思うけどね。ヒゲオヤジやお茶の水博士の存在は、血のつながりよりもむしろ精神的なつながりこそが重要なのだと考えていたことの現れだと思う。単に『父親』だから従え、という短絡的な世界観は我慢ならなかったんじゃないかな。
 少々横道にそれたけど、要は単に『ここにいてもいい』から『ありがとう』という結末で納得できるはずがないだろう、という訳だ。これは結末じゃない、というか、むしろ物語はそこから始まったはずじゃないか。居場所はまず与えられた。シンジがそこで苦悩しているのは結局はそこで体験した様々な出来事に対して、許せないと思ったからだ。シンジはトウジを傷つけたことに耐えられずネルフを離れる。その時シンジはミサトに尋ねる。『教えて下さい、何故トウジなんですか』ミサトは彼のクラス全員が選抜候補者だったのだと答える。『全て仕組まれていたことだったのよ』そう仕組んだのは自分の父親である碇司令だった。許せないと思うシンジの心は正しい。その心を内に秘めながら、それでも人の命を守るためにもう一度闘おうと決心する心の動きも充分納得できる。だが、そこまでだ。そこから自分を巡る全ての状況に対して『有り難う』と言えるまでには、かなりの距離がある。というより納得できるプロセスが必要となる筈なんだ。しかし、それは描かれなかった。描くことが出来なかったんだ。絶望はそこからがスタートだと考えている庵野氏にとってはね」

 どうしようもない、許せない出来事というのは、それが回避できる方法がないほど状況が悲劇的な場合に絶望へと転じる。単に障害物が横たわっているだけなのならば、それを叩き潰せば良い。しかし、それがかなわぬ状況に追い詰められてこそ初めて人は強く「許せない」と感じるはずだ。キルケゴールの著書「死に至る病」では、絶望とは死さえも救いにならないと感じている状況である、と説明されている。死にたい、と考えることが出来る状態ならまだ希望があるのだというのだ。「かくて絶望、自己におけるこの病、は死に至る病である。この病は人間の一番尊い部分を侵蝕した。そこでは死は病の終局ではなしに、むしろ終わることのない終局である。これが絶望における人間の状態である」(「死に至る病」より)
 また、小林秀雄はドストエフスキーの「罪と罰」についてこう語っている。「作者の創作ノートのなかに、『一編の終末、ラスコーリニコフは自殺する』という文句が描かれている。だが、これも無駄であった。理由は明らかだ。作者は、主人公を殺すに忍びなかったのである。ラスコーリニコフの問題は、作者自身の問題であり、作者が自殺し得ない同じ理由によって主人公は死ぬことが出来ない。……彼の呑んだ毒薬は致死量を超えていた。物語は、死ぬ事もかなわぬほど深い絶望から始まったのであった」
 キルケゴールもドストエフスキーも、基本的には最終的に神への信仰を持ち出し、人間の限界の上に、絶望は罪である、と結論付けして終わる側面のあることは周知の事実である。例えそこに至るプロセスには現代人の苦悩に通じるものがあり、むしろそこにこそ真骨頂がある、と考えているにしても。しかしある意味で情報の国際化の中にいて、それぞれの宗教が相対的な価値観しか提示できなくなっている現代においては、単純な神への回帰は真の意味での救いはもたらしてはくれない。神など信じられないからだ。そこで無理矢理人間以上を望もうとすると怪しげな新興宗教や自己啓発セミナーなどが幅をきかせることになる。
 「imago」九十三年八月号のマインド・コントロール特集では、自己啓発セミナーなるものの取材記事が掲載されている。自己啓発セミナーの手法は、「マゾヒスティックなまでの自己否定をさせた後、カタルシスに持っていく」ことだという。十九世紀の人間の様には信仰を持てなくなっている我々は、替わりとなる絶対的なものを、何とか自分の中に見出そうと躍起になっているのかも知れない。
 なるほど今の時代でも、救われる方法には事欠かない。ただ現実における安易な救いは、物語における安直な結末よりも相当始末が悪いように思える。
 クーンツの「ベストセラーの小説の書き方」では、「読者はハッピー・エンドを好むもの」「困難の全てを正当化するに足るだけの、賢明な結末をもってくること」なとどアドバイスされている。これに従うと、例えば「エヴァンゲリオン」があれだけ売れている理由が分からなくなってしまうが。少なくとも今の段階では、説明されない「問題解決の放棄」がハッピーエンドだとは思えないし、困難を正当化するに足る「賢明な結末」とも思えない。要は救済が必要であることだけは自明のことだったが、それをプロットで説明することが出来なかった、ということではないか。物語の決着のつけ方と割り切ってしまえば楽だろうが、安易な自己啓発セミナーに終わってしまうのはかなり危険な考えである。
 救われた状態がどのようなものであるかは、人それぞれだ。簡単に納得し、救われてしまう人もいれば、懐疑と不信で全てを拒絶する人もいるわけだ。押しつけられた秩序、押しつけられた和解は、結局のところ本当の意味での救いにはならないかも知れない。
「エヴァンゲリオン」第二十四話に至るまでは、まさに懐疑と不信が数珠繋ぎになっている。主人公一人に的を絞ってみても、自分の周囲を巡る状況は謎のままである。何故だ、何故だ、何故だという問いに対して、誰も答えてはくれない。それは、実世界に身を置く我々一人一人が経験している状態である。謎は解明されず、難問は解決されないまま、第二十五・二十六話ではいきなり「一人一人の感じ方によって世界は変わる」と説明がなされ、「エヴァにのっていない自分も有り得るんだ」と唐突な告白がなされる。
「『仮想現実と現実の区別は自分では絶対につけられないんだよ。関口君。いや、君が関口君である保証すらないのだ。君を取り囲む全ての世界が幽霊のようにまやかしである可能性はそうでない可能性とまったく同じにあるんだ』『それじゃあまるで、僕が幽霊のようなものじゃないか!』私は、全世界から見放されたような、圧倒的な不安感に襲われた。」
 これは「エヴァ」のラストではない。京極夏彦の「姑獲鳥の夏」の冒頭の場面の会話だ。語り役の関口君は多分にシンジ君的なところがあるのだが、ここでは、憑き物落としの京極堂が、うつろいやすい関口君の精神を現実と夢幻の両方に交互に運んでいく。ある意味では「エヴァ」の終わり、不安定な現実の認識というところから、新たに「姑獲鳥」に始まる京極堂と関口君によって語られる、残虐でそれでいて不安定な、文字通り「妖怪共の」闊歩する事件が頻繁に起こる世界が始まるのだ。

「『生物は子供を産むために生きている訳だな。そしてその子供も子供を産むために産まれてくる訳だ。しかしそれじゃあ種を保存すること自体に意味があり、生きていること自体には意味がないことになる。生き物とは一体何なんだ?』『何でもないんだ。意味なんかありはしない。そういうものなんだよ。いや、そういうものだったのだよ』」(「姑獲鳥の夏」より)
 京極作品の世界に共通する、犯罪という姿で突きつけられる残虐行為……しかしそれだけでは、ここまで反響を呼んだ理由は充分説明できないと思う。ある種の喪失感、何も確かな物がないと言う喪失感が、普通の推理小説的な合理的でそつのない事件の解決を拒絶している。緻密な描写にも関わらず読後感にある種の曖昧さを感じるのは私だけではないと思う。事件が解明されても、誰も救われない。誰も満たされない。それは単に解決が解決にならないという物語の構造だけからくる物ではない。各登場人物それぞれが抱え込んでいる喪失感の相乗効果、一種の過剰な喪失感とでもいうべき不安な情景が、無意識のうちに一層身に迫る物として深く印象づけられているからだと思う。

「……『エヴァンゲリオン』の中でカヲルが語ったように、あるいは『姑獲鳥の夏』で京極堂が語ったように、あるいは『フード』その他の短編映画でシュヴァンクマイエルが表現したように……生と死が等価値であること、生きること自体に意味はないことを認識するところを出発点としなければならないというのは、考えてみるとえらくつらいことだね」
「物語なんぞを書いたり読んだりする前に早く首をくくりなさいな、なんてことになってしまうぜ」
「正直なところ、その認識からどう前に進むべきなのかは良く分からない。以上に述べた作品群も、それに対する直接的な答えを導き出してはいないと思う。ただ、そこに描かれてある喪失感、生の意味が失われかねないという喪失感には共鳴せざるを得ない。最近、よく自問自答することがある。今の自分に生きている意味などというものが本当にあるのだろうか。漠然と、それは疑わしいという答えが返ってくる。やりたいことはある。見たい物もあるし、作りたい物もある。その一方でやらなくてはならないこと、やるように言われていることもある。しかし本当に必要不可欠、絶対的に意義がある、と確信を持って言えることはあまりない。それなりに、これから生きていてもやることはあるだろう。しかしそれもなければないで構わないものではないかという意識がある」
「それはなかなかに碇シンジ君的精神状況ですな。みんなで輪になって囲んで拍手してやらなきゃ……」
「それもいいが、でも多分それで救われた気分になれるとは思えないな。じゃあどういう目に遭えば、どういう状況に自分を持っていければ良いのかと聞かれると今の自分には何も答えられないな。宗教も科学も、新興宗教も自己啓発セミナーも、アートもドラッグも電脳世界も……皆等しく怪しげに感じられる。何もかもが『これこそ確実、これを究めれば……』と訴えながら、一方でその曖昧さこそを最大の売り物としている様にも思われるんだ。そして我々は、悩めるシンジ君に、悩める関口君に、もう一度会いたいと思って、分厚いノベルズのページをめくり、レーザーディスクのスイッチを入れる。我々の抱いている喪失感を再確認するために……。もしかしたら、自分はその喪失感を純粋に楽しんでさえいるのかも知れないと時々思うんだけどね……」(完)


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