「短編小説」のコーナー

「となりまち」



 僕がいつから隣町に行くことができなくなったのか、良く思い出せない。多分そんなに昔のことではないと思う。何しろ、一人暮らしを始めるようになってからまだ五年も経っていないのだ。
 虚無感と喪失感に耐えられなくなって、これという不満もないまま退職し、趣味だった絵も小説もやめてしまい、何もしない毎日を送っているうちに、気が付いたら隣の町に行くことができなくなっていた。
 歩いて二十分くらいの距離なら、移動する分には何の支障もない。しかし、それ以上遠くへ行こうとすると、突然、自分がどこにいるのか分からなくなるのだ。ふっと感覚が遠くなり、慌ててその場を引き返すのである。丁度立ち眩みで目がくらんだり、水に入って耳が聞こえなくなったりするような感覚に襲われ、物も見えていて音も聞こえるのにも関わらず、何が何だか分からなくなってしまうのだ。
 もちろん、バスや電車などもっての他だ。車内のアナウンスが突然何を言っているのか分からなくなるのだから。慌てて次の駅で降りて、引き返す。何故か引き返すことだけはできるのだ。
 だから今では、歩いて二十分以上離れたところには行かないようにしている。全く生活には困らない。すぐ近くにコンビニエンスストアとレンタルビデオと電気屋とクリーニング屋があるのだ。正直な話、それ以上のものは何もいらないのだ。
 十年分働いて貯金していたので、全く最低限の生活なら家賃を払いながら何とか十年くらいはしのげるはずだ。それ以降のことは考えても仕方ないので、考えないようにしている。今はただ、自分の体から離れようとしない虚無感が収まるのを静かに待つだけだ。
 だが、虚無感は一向に僕の元を離れていこうとはしない。

 それが僕を、いやこの世界を支配しているのではないかという感覚は、ある日突然芽生えたものだっだ。全く突然に、僕の頭に閃いたのだ。そうだ。そうでないはずがない。何かが支配しているのでなければ、僕が隣町へ行けないなどという現象は起こり得ないではないか。
 それは僕を支配し、僕の肉体を少しずつ食べているのだ。
 僕の心と体は次第に無感覚になり、少しずつ失われている。昔心の中にあった感情も、今ではエネルギーを失い、何を見ても感動しなくなっている。走り回るのが嫌いではなかったはずなのに、今では歩き回ることさえ、いや、口を開いて喋ることさえ億劫だ。食べても味がしないし、朝起きたときには既に疲れ切っている。  僕は今やそれの餌なのである。

「人は皆歯車なんだ。この世界を構成する機械の一部、たくさんある歯車やネジの一本一本に過ぎないのだよ」
 テレビの中で、恐竜が喋っている。ティラノサウルスにしては流暢な日本語だ。腕が小さいので今一つ格好はつかないが、首を傾げながら流し目でこちらに向かって語りかけている。僕はこの番組が好きだ。恐竜が人間のように暮らしている、というのも面白いが、一方的に喋っているのに何だか話し掛けられているような感じがするのが心地良い。
 試しに僕は話し掛けてみた。
「人は歯車なんかにはなれないよ。歯車やネジが一本欠けたって機械は止まってしまうけど、人が何人死んだって世界は止まらないもの……」
「……だから人を一人殺せば、この世界は止まり、君だって自由になれるのさ。試してごらん」
 恐竜はこちらを無視して一方的に喋り続けた。テレビだから当たり前なのだが、僕は何だか淋しくなって、反論するのをやめた。
「君の回りでは一人も人が死んでいないはずだ。少なくとも君は、この町に来てから人が死ぬところを見たことがないはずだ。目にしたものといえば、テレビの中の死、新聞の中の死、香典を要求される死……。みんな嘘っぱちなんだよ。本当は誰も死んでいないんだ」
 ……そうかも知れない。もし僕等がそれにとっての食糧に過ぎないのなら、勝手に死ぬのを認めてはいないはずだ。
「君達は本当はこの町から自由になりたいのだろう? だったら人を一人殺すことだ。その時、歯車が一つ欠けることにより、この世界は無慈悲に時を刻むのをやめ、君達は自由になれるだろう」

 ……人殺しをすれば自由になれる。その言葉はテレビのコマーシャルほどにも強制力がないにも関わらず、僕の心を捉え始めた。それは僕を止めることができないかも知れない。何の動機もなく、見も知らぬ人間を殺そうというのだから。これは予測不可能だ。もしかしたら自由になれるのかも知れない。
 町を歩きながら、道行く人を眺めた。
 皆僕の知らない人達。すれ違ったが最後、二度と会うことがないかも知れない人達。すれ違った後には、もしそのまま振り返らなかったら、その人の存在は僕にとっては何でもなくなるのだ。視界から消えるということは、少なくとも内側にいる僕にとってはその人が死んだことと同意義なのだ。すれ違ったばかりの人が、その後ばったりと突然死したからといって、僕には何の影響もない。
 でも、僕に殺人ができるだろうか。
 犯罪を食い止めるのは一人一人の良心と、あとは法の裁きによる刑罰だ。今の僕に良心があるだろうか。知った人ならともかく、知らない人の死を悲しめるほどではない。法の裁きは何だかひどく面倒臭いとは思うが、やってしまった後はそれを食い止めることはできないのだから、良く考えるとどうでもいいことのように思える。
 だが人を殺すには人を殺したくなるような憎悪のパワーが必要だ。あの野郎、死んでしまえばいいのに、という位の憎しみが。
 今は回りに憎悪する人間がいない。
 かつては、程度の差こそあれ、人を憎悪したことはあった。父親の寝室に忍び込んでバットで頭を滅多打ちにすることを夢見たこともある。
 しかし今では、他人を見てもただ心が切なくなるばかりだ。
 道行く人はそれぞれが皆自分の生活を持っているのだろう。僕にはそれが感覚的に掴めない。他人のことなどどうでも良いのだ。しかし、だからといって殺せるというものでもない。それだけの気力もない。  結局、ぶらぶらと同じ道を歩き回って部屋に戻るしかなかった。

「何故人一人殺せない? その瞬間に君達は自由になれるのだぞ? 君はいつも現実感を持ち得ないことに絶望している。殺してごらん? きっと君は目覚める。目覚めざるを得ないんだ! 人殺しくらい何だ? 君が自分の作品の中で散々描いて来たことじゃないのか?」
 テレビの中の恐竜は、今や僕一人に向かって語りかけているようだ。それでいて、決して僕の言うことを聞こうとはしなかった。
「君は人を愛することにも、自分を愛することにも失敗した。何も感じず、何もできないでいる。  残された道は、人を殺すことくらいじゃないか。
 そうすれば君は覚醒し、再び地に足をつけることができるだろう」
 恐竜は声高らかにそう宣言した。
 僕に残された時間は残り少ないようだ。

   拳銃がそこらに売っているわけではないので、殺人に使える道具といったらナイフ位のものだろうか。僕は「ナイフ・ファイティング」という本を買って少し勉強してみることにした。読めば読むほど自信がなくなった。自分には殺人術は向いていないと思わざるを得なかった。それでも刃先の鋭い小さめの包丁を買って、コートの内ポケットに忍ばせるようにした。
 もしかしたらそうするだけで一種の高揚感が味わえるのでは、と思ったのだが、何も感じなかった。包丁など料理にしょっちゅう使っているただの台所用品だ。特別なものでもなんでもない。凶器として使用しない限りは。
 僕は包丁の入っている左の内ポケットを上から右手で押さえるようにして、黒のコートを着て町へ繰り出した。
 本当にそれで隣町へ出られるのだろうか。
 駅の近くの大きな交差点までやってきた。普通なら、ここから感覚が怪しくなる。先へ進めなくなる。
 夢見るように僕は行動する。
 目の前に身を乗り出してきた腰の曲がった老人。その顔は醜い。きっと性格もひねくれているのに違いない。生きている必要のない人間である。そして、僕でも勝てそうな相手である。
 僕は黒手袋をしたさっと包丁を取り出し、渾身の力をこめて、相手の無防備な背中へと振り下ろす。
 もちろん、背骨とぶつからないように、やや背中の左側の方を狙う。標的はあくまで心臓なのだ。この小さな包丁では届かないかも知れないが。
 刃先がゆっくりと突き刺さる。
 力を抜いてはならない。
 血が噴きだし、悲鳴が上がる。
 そして……そして……。
 殺人は他人事ではなくなり、僕は嫌でもその渦の中に巻き込まれ、あがかざるを得なくなるのだ。多くの人間が僕を叩きのめすだろう。

「両国の駅はこっちでいいんでしょうか?」
 老人は僕に尋ねた。
「ええ、そうです」
 僕は笑顔で答えた。
「でも見えないんですけど」
「このまま真っ直ぐ言って、パン屋の角を左に曲がって下さい。そのまま線路に沿って歩いていけば駅にぶつかりますから」
「そうですか。どうも有り難うございます」
「いえいえ……」
 僕はそう言って、信号を渡っていく老人を見送った。目の細い、上品な顔をした老婦人だった。しかし、老人が視界から離れると、私も顔をしかめてその場から引き返した。自己嫌悪の念だけが残った。

 それはこの町で僕を飼っている。
 今や僕は、自分の内蔵が少しずつ失われていくのをひしひしと感じている。舌が失われ、耳が失われた。目もなくなるだろう。
 僕の体はそれに食べられてだんだんとなくなっている。
 人を殺せば隣町に行ける。多分そうなのだろう。人を殺しさえすれば、僕はもうこれ以上それに食べられることもなくなるのに違いない。
 でも僕はそうしないだろう。
 僕は知っているのだ。隣町に行ったところで、そこには何もないことを。
 隣町には何もない。
 だから僕は全てを諦め、ただひたすら明日に絶望しながら、毎晩ベッドに身を横たえている。
(完)


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