「短編小説」のコーナー

「ヒトリ」



 彼は自分の我慢できないことがあると、すぐに怒りだし、周囲が見えなくなるタイプだった。

「どこに行きやがった、ばばあ! さっさと出て来やがれ! ぶんなぐってやる!」
 俺は手にしたバッグをテーブルに叩きつけながら、大声で怒鳴った。おんぼろな他人の家に放火したり、ガキ共を半殺しにしたりしてから、家に帰って、ゆっくりとばばあとじじいをぶん殴ってから、メシを食ってぐっすり寝る。それが俺の日課だった。殴るのは好きだ。こ気味良い骨の響く音が、拳を通じてこっちに伝わってくる。それを感じるといつも、御機嫌な気分になれるってもんだ。
 テーブルと椅子を蹴っ飛ばし、ウォーミングアップをしたが、ばばあもじじいも顔を出さない。あのグズ共め! ビビって俺を避けてやがるな!
 俺は歯をむき出し、拳に力を込めてがんがんと家の壁を叩いた。奴等は姿を見せない。どこへ行きやがった? 俺が恐いのか?
今さら? なんなら、外へ出で通行人の一人や二人、殺してやろうか? わずか十二才にして殺人術を究めている俺だ。素手で相手を殺すくらい簡単なんだぜ?
 俺は金属バットを部屋から持ち出すと、そこら中の物を叩き壊してやった。じじいの書斎のくそ生意気なIBMのパソコン、ばばあの寝室のへたっぴいなルノワールのにせもの、下らない沢山の食器……。そいつらが断末魔の声を上げるたびに、ほんの少し気持ちが晴れた。しかしそのうち、金属や陶器やガラスの乾いた破裂音もいい加減耳障りになってきた。
 ちくしょう、イライラする! そのイライラを解消したいがために、そこら中の物を叩き壊してやるんだが、その音を聞いてますます救いがたいストレスが襲ってきやがる!
「なんだくそやろう! どいつもこいつも俺をコケにしやがって!」

   彼は怒りを押さえ込むことができない体質だった。気に入らないことに直面すると、すぐにキレてしまい、みさかいなく人や物にあたりちらした。
 どうにもならない怒りだけが、俺の体の内側で煮えたぎっている。家の中から最後の窓ガラスを叩き割った瞬間、俺は頬に軽い痛みを感じた。どうもガラスの破片で頬を切ったらしい。触ってみると赤い血が手のひらを濡らした。くそっ、いまいましい! 血を流しているのが他人なら、ぞくぞくと喜びがこみ上げてくるところだが、自分が血を流すのはまっぴらごめんだ!
 ひとしきり暴れて少し疲れてきたので、ここらでひと休みだ。タオルで顔と体を拭いてから、外へ出てみることにした。
 半壊したタンスの引き出しから、ようやく白いタオルを取り出し、体に当ててみた。
 何だ、こりゃあ!
 血だらけじゃないか!
 体中、どこもかしこも血だらけだ。汗かと思っていたのはみんな血だった。
 不審に思って、鏡の前に立つ。鏡はバットを叩きつけたため、ぼろぼろに割れて半分近く剥がれ落ちており、映っている自分を良く見ることはできなかったが、どうやら体中のあちこちの血管が切れたり、皮膚が裂けたりしているらしかった。皮膚の下で内出血を起こしているらしく、赤いまだら模様が顔や腕に浮き出ていた。
 さすがの俺も戸惑いを隠しきれなかった。自分の体に何が起こっているのか、全く理解できなかった。汗の代わりに血が流れてやがる。怒りのあまり、本当に血管が切れてしまったらしい。目も潤血し、なかなかすさまじい表情をしている。不愉快な感情が湧き起こり、傷の手当もせずに、金属バットを掴んだまま外へ飛び出した。
 家の外にも何故か人がいなくなっていた。
 家の前の道は、誰も歩いていない。
 一体どうなっているんだ? ついさっき、学校から家に帰る時には、普通にガキ共が騒ぎながら歩いていたっていうのに?
 ふと気が付くと、車の音が聞こえた。
 間違いない! 誰かが車を走らせていやがるんだ!
 家の前の道を真っ直ぐ左に行くと、車が激しく行き交う大きな道路に出る。俺は急いでその道路へと向かった。
 その道路に出た途端、俺は驚きのあまり、思わずその場に立ち止まるのを忘れ、そのままトラックにひかれてしまいそうになった。
 確かに、車は走っていた。
 だが、訳が分からないことに、行き交う車の運転席には誰も乗っていないのだった。
 無人の車が、平気で道路を飛ばしている。
 何だこれは!
 こんなことが有り得るのか?
 俺は急いでその道路にまたがっている歩道橋を駆け上がった。
 歩道橋の上からは、近くの駅を通る列車が走るのが見えるはずだ。
 そして、しばらく待つと、確かに列車が走っているのが見えた。しかし、懸命に目を凝らして見つめたが、乗客の姿らしき物は全く見えなかった。
 一体どうなってやがるんだ? 地球上の全人類が、一瞬にして透明人間にでもなったというのか。
 それともこの俺の目が、急におかしくなって、生身の人間の姿だけが見ることができなくなったとでもいうのか?
 ならば俺の目に映らないだけで、周囲にはちゃんと人間が歩き回っているのに違いない。
 俺は金属バットを振り回しながら、そこら中を歩き回った。自分の振り回しているバットが、見えない人間共のうちの誰かにぶつかり、その振動が俺の手に伝わることを期待して……。
 しかし、全く手応えはない。
 ……ならば、これならどうだ?
 俺は無人の車が走っている道路のわきに立つと、こちらへ向かってくる紺色の乗用車のフロントガラスへ向けて、いきおいよくバットを振り下ろしてやった。
 ガシャンと音を立ててフロントガラスが砕けた。
 しかし、その乗用車は少しもスピードを落とさず、何事もなかったかのように、そのまま走り去っていった。
 何なんだ! 本当に、誰もいないっていうのか?
 単に姿が見えないだけなら、俺に何か仕返しをしてきてもいいはずだった。
 再び怒りがこみ上げてきた。
 誰かが、俺を愚弄していやがる!
 とまどう俺を見て、笑い物にしている奴等がいるに違いない!

 彼は怒りの衝動を自分でコントロールする事ができない人間だった。
 すさまじい憎悪の感情にひとたび飲み込まれると、彼は怒りで我を忘れるのだった。

 ちくしょう! 俺をバカにしていやがるのか? 俺を何だと思っているんだ?
 この俺を……この俺を……。
 この……俺は……誰だ?
 ふと気が付くと、自分が何故怒っているのか、いや、そもそもこの俺が誰なのか、何という名前の人間なのか分からなくなっていた。
 何なんだ、俺は?
 一瞬、血の気が引いた。そんなことも分からなくなっているなんて!
   よろめく体を近くにあった電信柱にもたれかけさせながら、俺は呼吸を整えようとした。しかしあまりうまくいかなかった。
 次の瞬間、異様な感覚が俺を襲った。
 周囲に誰かがいる。誰かがいる気配がする。
 くそう、やっぱりそこにいるんだ、透明の人間が! 
「てめえら! てめえら隠れていないで出てきやがれ!」
 俺は周囲の家々の窓ガラスに響くほどの大声でそう叫んだが、どこからも答えは返って来なかった。
 俺は一人なのか?
 俺が一人のはずがない! 
 ……いや、一人だ。
 俺は一人なのか。
 ……そうだ、俺は一人だ。
 もう一度自分に問いかけた。
 俺は誰だ?

 俺はもう一度試すことにした。
 金属バットではなく、今度は自分の生身の体で。
 再び車道に出た。相変わらず無人の車がスピードを出してびゅんびゅんと通り過ぎていく。
 俺は意を決した。バットでフロントグラスを割ってやった程度では駄目なのだ。
 俺はタイミングを見計らって、こちらへ向かって走ってくる無人の乗用車の前に立ちはだかった。これで止まらなければ……。
 その瞬間にも、先程の問いかけが頭から離れなかった。
「俺は……誰だ?」
 車はまっすぐこちらへ向かって走ってくる。
「俺は……そうだ……思い出した……」
 無人の乗用車が俺の体にぶつかるその直前、その一瞬、俺は自分が何者だったかを悟った。
「俺の名は『ヒトリ』……そうだ。確かそうだった。さっき確かに『俺はヒトリだ』とそう言い切ったはずだ……」
 俺はやっとのことで自分の名前を思い出すことができたが、その時には俺は既にバスにひき殺されていた。車は走るスピードを下げることなく、俺の体を数十メートル近く引きずっていった……。

 『ヒトリ』は死んだ。
 最後の人間が死亡し、そしてその世界には文字通り誰もいなくなった。

(完)


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