CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



***********************************
第二話 久遠絵理


 信濃家の広大な敷地の中には二棟の屋敷があり、一つは純然たる日本建築で、亡くなった重蔵の他、長男の康志、次男の志貴夫婦、そして長女の亜矢子が暮らしていた。邸宅の前には和風庭園が広がっている。常に庭師が入り、手入れを怠らないので四季折々の変化が訪れた人々の目を楽しませるのだが、その向こう側に前景にはいささか不似合いな白亜の洋館が聳えている。母屋とは全く趣を異にするこの館は明治の始めに建てられたもので、重蔵はこちらもいたく気に入っていた。目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫達が大きくなると、ここに一人一人の個室を持たせていることにもそれが見て取れるだろう。
 瀟洒な白い扉を開け、広い玄関ホールからリビングに入った途端、昼は四方に大きく開けられたフランス窓から明るい日が注ぎ、夜は吹き抜けの天井から金の鎖でつり下がった豪奢なシャンデリアの明かりで、中央に据えられたグランドピアノがスポットライトを浴びた舞台のように現れる。ここを重蔵が手に入れた際、妻にせがまれてわざわざ欧州から取り寄せたものだ。明治生まれの多恵には、この艶やかに光るピアノはそれ自体、豊かさと気品の象徴であり、階級意識を満足させる道具でもあった。けれど贅沢に狎れ、ことさらにそれらを主張しなくていい立場になった娘や孫達には、もはや部屋の装飾の一つに過ぎなかった。かつては高名な師につき、彼女らもレッスンを義務づけられていたが、多恵が亡くなってからは、ほとんど触れる者さえない。

「何もかも、お爺様のせいよ。冬ちゃんばっかり贔屓するから」
 母屋での夕食を終え、自分達専用のリビングで腰を落ち着けた三人の内、始めに口を開いたのは夏江だった。あれ以来こうして姉妹が一所に集まるようになったのは、自己防衛の意識が働くのだろう。重蔵の遺言状が呼び起こした波紋は、日を追う毎に大きくなるばかりで、一族を巻き込んだ不協和音の兆しがここかしこに現れていた。誰もが常に周りにいる人間の顔色をうかがい、付け入る隙あらばと狙っている。そんな不穏な空気の波は、絶えず人々の脳漿を小刻みに揺らし、大海に放り出された小舟のように、平衡感覚を失わせつつあった。
「いつまで同じ事を言ってるの。仕方ないじゃない。貴女も随分諦めが悪いわね」
 長女の春香が慰めにもならぬ言葉を返す。
「あれから一週間か……。何か進展はあったのかしら」
「さあ、どうかしら。康志伯父さんだけが走り回ってるみたいよ」
「ふうん。伯父さんったら早々に独身主義の看板を投げ捨てて、お相手探しに奔走中って訳ね。でも今更、あんなヒヒじじいの所へ来てくれる奇特な人がいるのかなあ」
 夏江が小首を傾げると、春香が眉一つ動かさずに答えた。
「そりゃあ、いるでしょ。億とつく財産がオマケでついてくるなら、相手がヒヒだろうと、チンパンジーだろうとかまやしないわ。年食ってる方がお買い得ってもんよ」
「あら、嫌だ。なんだかんだ言っても、春姉ちゃんが一番、言うこときついんだから」
 肘で小突く真似をしながら、夏江は笑う。瓜実顔の春香が穏やかに微笑む様子は、観世音菩薩にも似て優しげに見える。ところが少々腫れぼったい奥二重の目元が時折凄みを帯びた色に変わると、周囲を驚かすような毒を吐くのだ。
「それに」
 と、春香が続ける。
「私が頭に来るのは、単にお金の問題じゃないの。お爺様ったら冬美のことが心配なら素直にそう書けばいいのよ。それをあんな……。あれじゃ、まるで私達家族を信用してないみたいじゃないの。気分が悪いったらありゃしない」
「本当にそうね」
 頷きながら夏江はポケットから細いシガレットを取り出して唇に挟むと、金のライターで火を点ける。するとふいに春香が立ちあがり、肩に掛かったセミロングの髪を苛立たしげに振り払った。そして手近の西側の窓に向かって歩き出す。
「ああ、ごめんごめん。すぐに消すから」
 夏江が慌てて灰皿に煙草を押しつけると、春香はやれやれと言いたげに席に戻った。彼女の煙草嫌いはずっと昔から周知の事実だった。
「ところでさ、秋ちゃんはどう思ってるの?」
 ばつが悪いのか、夏江はさっきから一言も発していない妹に水を向ける。秋季はテーブルの上に両肘をついて顎を乗せたままの格好で、面白くもなさそうに答えた。
「……確かに、あれはおかしいね」
 抜けるような色の白さは同じだが、秋季は肉感的な体型を持つ姉達と違い、ほっそりとしなやかな体をしている。表情に乏しく口数も少ないので、周囲に冷たい印象を与えがちだが、それはまた、彼女の発する言葉の中に、他者の心の奥を見透かすような鋭さが含まれているからかも知れない。
「わあ、秋ちゃんだって考えることは一緒なんだ」
 夏江は大げさに喜んで見せたが、秋季はため息を付いて彼女の早とちりを訂正した。
「あのねえ、私がおかしい、って言ったのは、あの遺言書全体の事だよ」
「え? どういう意味?」
 姉二人の口が綺麗に揃った。
「だって、よく考えてみなよ。あれは冬美だけの為に書かれたもんじゃないって事くらい、すぐ分かる。始めは確かにそうだけど、次は伯父さん、その次は私達、その次は叔母さん……受けとる人間が見事にコロコロ変わるんだよ。これじゃお爺様は本当の所、一体誰に遺産を渡したかったのか、サッパリ解らないじゃない」
「そっか……。そう言えばそうよね」
 夏江は目を丸くしたまま続けた。
「冬ちゃんが遺産を受け取る可能性はかなり低いかもしれないわ。あの伯父さんなら、本当に明日にでもどっかから適当に相手を連れてきて、婚約しそうだもん」
 夏江はがっくりと肩を落とした。康志に渡すくらいなら、まだ冬美が相続した方がましだと言いたげだ。
「きっと裏がある。とんでもない秘密がね」
 その秋季の言葉が終わらない内に、表の方が騒がしくなると入り口のドアが乱暴に開けられた。亜矢子が婚約者の大崎を連れて姿を現す。
「夜も更けてきたというのに、ノックもしないでいきなり入ってくるなんて。吃驚するじゃないですか」
 春香がやんわりと窘めたが、それにひるむ亜矢子ではない。
「ああら、そんなの私の勝手じゃない。ここは私の家でもあるのよ」
 口元からはアルコール臭が漂っているものの、それほど酔ってはいまい。姪達を睨め付ける視線は、憎しみを薄める作用を何ら受けていなかった。
「済まないねぇ、君達。彼女、今日は飲み過ぎちゃってさ。ちょっと休ませてよ」
 そう言いながら、大崎は亜矢子の肩を抱きかかえ、ソファーに移動させる。
「それならこんな所にいないで、早くベッドでお休みになった方がいいんじゃないかしら?」
 春香が尚も食い下がったが、「まあまあ、少しだけだから」と、終始笑顔の大崎に軽くあしらわれてしまう。
 近頃この二人は、特に用もないのにこの洋館を頻繁に訪れるようになっている。元々亜矢子は子供の頃からこの館に強い憧れを抱いていた。いつかは自分が住むものと思いこんでいたのに、父親は娘である自分を差し置いて、姪達に明け渡してしまったのである。その時から彼女の内部で芽生え、押さえつけられてきた憎しみが、今度のことがきっかけで一気に噴出したらしい。
「私達、結婚したらここで暮らすんだから。あんた達は、出て行ってよね」
「またそのお話? そんなの納得できないって言ったはずよ、叔母様」
 春香が仕方なく、くだを巻く亜矢子に付き合っている間に、夏江はちらりと大崎に目をやる。身長は優に180CMはあるだろう。ソファーから投げ出された長い足は、テーブルに挟まれて窮屈そうに折れ曲がっている。高すぎるほお骨を除けば、造形は概ね整っていると言えよう。いつ来ても不機嫌な亜矢子とは対照的に彼はいつもにこやかだが、何か抗いがたい力を夏江は感じていた。
「ああ、今日もまた閉じたままだ」
 ふいに立ちあがると、大崎がピアノに歩み寄った。黒光りするボディを少し撫でてから大屋根を開け、突上棒で支える。
「ねえ、このピアノ、スタインウエイ社のだよね。時価一千万近くするって知ってる? 君達にとっちゃ、おもちゃのオルガンと大した違いはないだろうけど」
 そう言いながら鍵盤蓋を開いて、右の人差し指で一つ、キーを叩いた。
「ううん、やっぱり僕じゃ駄目だな。ねえ亜矢子さん、聞かせてよ。ホロビッツも絶賛したと言う、このピアノ独特のイニミタブルトーン、つまり『比類なき響き』ってヤツをさ」
 指名された亜矢子は、訳が分からないと言った顔つきで婚約者を眺めている。
「だから何か曲を弾いて欲しいんだ。ベートーヴェンのピアノソナタなんてどう? 駄目ならエリーゼのためにでも、いっそネコ踏んじゃったでも……」
 そこまで言われて、亜矢子は立ちあがった。赤く血走った目で大崎を睨みつけると、演奏用の椅子に腰を下ろす。次の瞬間、ピアノソナタ第14番「月光」の第3楽章が、その技巧をひけらかすように激しく流れ始めた。
 しばらくすると春香が立ち上がり、無言のまま窓を開ける。ピアノに侍っていた大崎が、いつの間に火を点けたのか、銜え煙草でそちらを振り向いた。彼女にちょっと肩をすくめて見せると、何食わぬ顔でその隣の窓を開けに行く。春香はそれを見て更に憮然とした表情になると、部屋を突っ切って反対側の窓も開け放した。と、その時――
「あ、あれは、何?」
「なあに? 春姉ちゃん」
 春香の声に気がついた夏江が問いかけると、
「あそこで、何か白い物が……」
 震える指で彼女が外を指さすのを見て、大崎がドアから飛び出した。亜矢子も後に続く。春香や夏江、秋季までも、何か容易ならぬ気配を感じて駆け出していた。
 しかし、外に出た5人の前にはいつもと変わらぬ景色があるばかりで、怪しい人影などは見当たらない。
「気のせいじゃないの?」
 夏江がそう言いかけた時、突然後ろから地響きとともに大音響が鳴り響いた。
「な、何? 今のは」
 今度は内側に向かって全員が走り出す。扉を開けた途端、その惨状が目に入った。ついさっき、自慢の音色を誇らしげに披露したばかりのピアノが無惨にも変形し、床に這い蹲っている。その大屋根の上には黄金色のシャンデリアの残骸と共に山茶花の真っ赤な花びらが散らばり、そして――白いワンピース姿の冬美が倒れていた。右手に一枝の山茶花を手にして。

「冬ちゃん!」
 慌てて駆け寄った春香と夏江が彼女を揺すぶったが、冬美は動かなかった。よく見るとその頭部からは、周囲の花びらに負けぬほど真っ赤な血液が長い弦を伝い、まるで彼女の為に設えた棺のようなピアノの内部に滴り落ちていた。
「救急車……、それに警察を」
 そう言って電話に向かう秋季の腕を大崎が掴んだ。
「なぜ、警察まで?」
「だって、これは事件だよ」
「そうとは限らないよ。ほら」
 大崎は上を見上げた。吹き抜けの高い天井からぶら下がった金の鎖が途中でぷっつりと切れている。そこから1mあまり離れた場所には二階の踊り場の手摺りが見える。
「冬美さんは、あそこからこのシャンデリアに飛び移ったんじゃないかな。その衝撃と重量に耐えかね、鎖が切れた……」
「馬鹿な事言わないで。なんでそんな危ない真似を」
「隠しても無駄だよ、僕は知ってるんだ。君達が表沙汰にしたがってない事も」
 それを聞いて秋季の顔が一瞬歪むと、顔を背けた。
「冬美さんは軽度のダウン症だった。そうだね? 実の母親はかなりの高齢で彼女を産んでいる。時々あの子の呂律が怪しくなる事からそれに気付いたんだ。尤も、僕はその事をどうこう言うつもりはない。ただ彼女は最近になって急激に変化した人々の態度が理解できず、極端に怯えていた。さっきの僕達の騒ぎを聞きつけ、慌てて逃げ出そうとしたんじゃないかな」
「それにしたって、何もこんな」
 秋季の言葉を遮るように、春香が口を挟んだ。
「忘れてた。そう言えば私が夕食後に一旦二階に上がろうとした時、階段の途中に割れたガラスが散らばってたわ。たぶんあの子が生けてた山茶花の花瓶よ。踏むのが恐くて思わず上がるのを止めちゃったけど」
「じゃあ、それで冬ちゃん……」
 夏江が口元を押さえながら、そう言いかけた時、秋季がかぶりを振った。
「違う。そんなはず無いよ、だって」
 そう言いながら、彼女は冬美の白い腕の先を指さした。
「いくらあの子でも、右手にあんな物を持ったまま、鎖に飛びついたりしない」