CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



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第四話 永山
 信濃邸に隣接する駐車場を兼ねた空地は、五メートルほど離れた脇を小川が流れ、夏ともなると草花が咲き競い、鳥や虫、小魚等が見られる。
 が、田沼が急用で空地に車を乗り入れたのは、冬まだ寒い日の午前十一時前。強い寒気団が入り込み、昼前でも気温が低い。
 降り立った田沼に康志、志貴、亜矢子が寄って来る。いつもと違い出迎えとは、よほど遺産の行方が気になるらしい。田沼は挨拶に次いで冬美を悼む言葉を述べたあと、くぐもった唸り声を立てる曇天を見上げた。
「怪しい雲行きだ。雪になるかな」
「ああ。でも、あの“ごごご”という音は雲のうねりではなく、飛行機ですな。ここは都会の喧噪から離れたいい場所だが、旅客機だか貨物機だかの航路の真下なのが玉に瑕」
 康志が代表する形で応じた。冬美の遺体の酷い有様を目の当たりにしなかった分、他の二人ほど顔に憔悴の色は表れていないと見受けられる。
「そんな話よりも先生。遺産はどうなるの?」
 亜矢子が一歩前に出た。その眼の周りには隈ができていたが、期待からか爛々としている。娘の死と妻の体調不良とで言葉数の少ない志貴とは対照的だ。
「中でお話しします。皆さん、おられますね?」
「勿論。さあ、早く早く。風邪引いてしまうわ」
 亜矢子は年甲斐もなく田沼の腕を取り、屋敷へ引っ張って行こうとする。四人が日本家屋の方へ移動を始めた矢先、大粒の雪が舞い出した。

 警察が引き上げ、屋敷内の慌ただしさは薄らいでいた。冬美の死は落着した訳ではなく、解剖結果を待って判断が下されるという。
「冬美ちゃんが亡くなって、七割貰える権利が私に回ってきたんでしょう?」
 遺言を開示したのと同じ日本間に入り、田沼が腰を落ち着けるや否や、亜矢子が聞いた。声が裏返り気味の彼女とは正反対なのが康志や志貴の娘三人で、苦虫を噛み潰したような表情を……いや、秋季一人、無表情だ。
「大崎さんがおられるんですか。まあ、よいでしょう。美希さんの体調がすぐれないようだし、手短に済ませたい」
 穏便に進めようと心掛ける田沼。咳払いを挟み、改めて口を開く。
「説明を始めます。ご不幸にも冬美さんが亡くなられましたが、これは冬美さんの遺贈放棄を意味しません」
「――それ、どういうこと?」
 顔色を変え、膝立ちになる亜矢子。大崎が泡を食った体で宥めた。衣擦れの音は、他の者達の発するざわめきにかき消される。
「重蔵氏から孫や姪に財産を遺すのは遺贈と言い、特定の物、例えばビル一つを譲るというような形を特定遺贈、全遺産に対する割合を指定して譲る形を包括遺贈と呼びます。冬美さんへの遺贈は後者に該当し、この場合、法定相続人と同じ権利義務が生じます。放棄も家庭裁判所での手続きが必要になる。この手続きが行われない限り、冬美さんは放棄したと見なされない」
「じゃあ、私に七割は……」
 首を横に振る田沼。亜矢子はその場にへなへなと頽れた。「当てが外れてお生憎様」という囁き声がしたが、そちらを睨みつける気力すらない模様だ。
「では、どうなるんです?」
 俄然、興味が湧いたとばかりに身を乗り出し、足を組み直したのは康志。他の相続人も似たり寄ったりで、居住まいを正す。田沼は彼らをちらと見やり、敢えて勿体ぶった口ぶりで応じた。
「先刻、同じ権利義務が生じると言いましたが、違いがなくもないのです。遺贈には代襲相続が認められません。被相続人である重蔵氏が遺言書で特に『冬美の死亡時にはその子に贈る』等と触れてあれば、代襲相続でなく、遺贈として認められるが、今回、これに当てはまる文言はなかった。それでも受遺者に対する被相続人の顕著な想いがあったなら、受遺者の子供への代襲相続が認められることも皆無ではないが、冬美さんにはお子さんも胎児もなかったようですから、斟酌しなくてかまわんでしょう」
「要は、冬美ちゃんに子がないから関係ないってことだ。小難しい言い回しはやめて、結論をお願いしますよ、田沼さん」
 大崎が苦笑面を作った。苛立ちを押し込めたような、無理のある笑いだ。
 田沼は唇を内側に噛んで湿らせると、ゆったりとした態度で続きを述べた。
「受遺者死亡の扱いとなります。冬美さんに行くはずだった遺産は、遺言書にあった三つの条件があと……五十二日以内に、いずれも成就しなかった場合、法定通りに分けるものと解釈できます。条件三は不成就確定ですので、考慮に入れません。条件一、二のどちらかが成就すれば、それを優先します。共に成就したときは、全てを福祉団体に寄付云々が生きてくる」
「結局、遺留分の方が多いじゃない! それっぽっちしか受け取れないなんて」
 ヒステリックに叫ぶ亜矢子。萎んでいた風船が急に膨らんだ感じで、元気を取り戻したのはよいが、姦しい。大崎なぞ、芝居ががって両耳を押さえた。
「忘れぬ内に言い添えておくと、黙っていても遺留分だけは転がり込むとお思いの向きが多いようですが、遺留分を侵害された方は、遺留分減殺請求権を主張してください。でないと遺言にある通りを認めたと見なされます」
「何だって。保障されると言ってなかったか?」
 康志が足を崩し、声を荒げた。田沼は落ち着いた調子で答える。
「法の下、権利が保障されるという意味です。誤解させたとすればお詫びします。この一週間、お尋ねの電話一本なかったので、もしやと。ちなみに時効は一応、一年と思ってください。それと、お孫さん達に遺留分の権利はありません」
「そんな大事なことを……危ないところだったわ」
 春香は唇を尖らせてふーっと息を吹き、手のひらで顔を扇いでみせた。ひきつった笑みは、背筋に冷や汗を感じたのかもしれない。その隣に座る夏江が、
「ふりだしに戻るってとこかしら。そういえば伯父様、お相手探しは空振り?」
 と、康志に身体を向けた。康志は意図を隠そうともしない。
「当てがない訳じゃない。人選して説得に掛かるとこだったが、冬美ちゃんが事故に遭ったと聞きゃ、飛んで帰らずにおられん」
「ふーん。その割に、ここに着いたのは今朝だったわよね」
 嫌な空気になったのを機に、田沼は片膝を立てた。雪道を帰るのは避けたい。
「私はこの辺で。急でしたので、スケジュールが立て込んでましてね。何かあれば連絡を」
 誰も聞いてやしないと感じつつ、腰を上げ、踵を返す田沼。と、懐の携帯電話が振動した。その場で取り出し、事務所からだと認識。通話を始める。
「――寺西さんが見えて、何? 放棄の手続きをしていた?」
 大声を張り上げる。舞台を去りかけた田沼に再びスポットライトが当たった。

 田沼は状況を確認すべく、そのまま帰途についた。大まかな事情は以下の通りである。
 既に成人した三姉妹と違い、未成年者の冬美には法定代理人が付く。通常、養父母の志貴夫婦が務めるが、今回のような遺産絡みでは、冬美と養父母との間で利益相反が起こり得る故、家裁で特別代理人を選出せねばならない。加えて、冬美は実の両親から一財産継いでおり、重蔵の睨みが利かなくなったあと養父母が暴走しないとも限らない。後見監督人的立場の人間がほしいところである。
 こういった諸々を背景に、生前より重蔵から代理人の件を託された田沼は、冬美の実父の事業上の知人だった寺西勇二に頼んだ(田沼自身は遺言執行者故、代理人を兼務するには問題がある)。長兄の急逝で家業を継いだ寺西だが、若かりし頃は大学で法律を学んだ常識人で人柄もよく、適任と思われた。
 その寺西が今朝、田沼の出発後に事務所を訪れ、冬美の遺贈放棄の手続きを進めつつあったと言った。申述書を家裁に提出済みだが、冬美の死によってどうなるのか、解釈を定める必要がある。帰る間際に田沼が忙しなく語った判断は、「審理開始前なので認められない可能性が高いが、申述書の扱いが難しい。一種の遺言書と取れる余地もある。ただ、禁治産者や準禁治産者の宣告こそされてなかったものの、軽度のダウン症だった冬美には、遺言書等の公的文書作成に当たって医師二名以上の立ち会いが望ましい。遺贈放棄申述書の場合、家裁に本人が出頭しての真意確認が後にあるため、申述書を書く際の医師立ち会いはなかったかもしれない」というものだった。
「結局、亜矢子さんにとって糠喜びに終わる可能性大って意味よね」
「多分ね。もし遺贈放棄が認められたら癪だから、康志伯父さんを結婚させて、寄附に持ち込んでやろうかしら」
「寄附だと私達の取り分、ないよ」
「そうなのよね。お父さん達しか貰えない」
「田沼センセもしっかりしてくれなきゃ。なまじ法律の知識のある人を代理人にするから、裏で話を進められちゃうのよ」
 昼食を終え、夏江と春香は、夏江の部屋で好き勝手なことを喋っていた。
「当てが外れたと言えば、探偵もよ。生意気に、忙しくてすぐには行けないだなんて。待ってられないっての。私達だけでも行動を起こさなくちゃ」
「それなんだけど、夏江。七割持って行かれることはまずなさそうだから、亜矢子さんや大崎さんに罪を被せるの、やめにしてもいいんじゃない」
「安心できないよ。万に一つでも目があるなら潰しちゃおう。探偵が来られないと分かって、一人で計画を立てたの」
「どうしても決行するのね」台詞とは裏腹に、愉快そうに唇をU字にする春香。
「私に任せといて、春姉ちゃん。冬ちゃんの事件をあいつらのせいにするのは難しくても、別の事件を起こせば簡単」
 夏江はその豊かな胸の上を叩き、自信満々に請け負った。

 夕刻を迎え、信濃家の屋敷と周辺はきれいに雪化粧した。既に降り止み、空に残る雲も風で流れ行く。予報通り、今夜から快晴に向かうのだろうか。
 春香は手首を返し、腕時計を自室の壁時計と見比べた。時刻にずれはない。机上の携帯電話に視線を移し、「そろそろかしら」と呟く。
 夏江は大崎が洋館二階の客間に一人でいることを確認後、出て行った。計画の詳細は秘密にされたが、携帯電話を鳴らすのを合図に、隣の空地に来てとだけ言われている。事前に、「うまく行きそうになけりゃ中止よ。もしばれたら、私達こそ相続人から廃除されかねないわ。相続人じゃない大崎をはめる分には、まだ言い逃れが利くと思うけど」と忠告したが、果たして首尾は……。
 夏江の計画は大凡想像できた。客間の窓が空地側に開くことから、大崎に飛び道具で襲われたと装うのだろう。大崎が以前、野良猫を追い払う目的で強力なパチンコを作ったが、あれで撃たれたことにするつもりかもしれない。幸い、亜矢子は日本屋敷の書斎に篭もり、法律関係の本を手当たり次第に調べている様子なので、大崎のアリバイを証明できる者はまずいまい。
 春香がもう一度、時計を気にした刹那、外から妙な物音が連続して耳に届いた。悲鳴らしき極短い音、どさっという音、固い物同士がぶつかる音、そして最後に液体の跳ねたような音を、ほぼ同時に聞いた。風のおかげで定かでない。
 夏江ってば大げさじゃない? 春香はそう思いながら携帯電話を手にし、待つ。だが、次に部屋に響いたのは着信メロディではなく、気忙しいノックだった。
「春香ちゃん、いるか?」
 大崎の声に、後ろめたさからびくりとする春香。深呼吸で心を落ち着け、携帯電話の電源を切ってから、平静な声で応じる。「何事です、騒々しいわね」
「聞こえたかもしれないけど、さっき変な音がして外を見たんだ。そうしたらね、人が倒れてるんだよ。どうも夏江ちゃんみたいな気がする」
 春香は内心、大崎を陥れる最善の言動は何かを考えたが、結論が出る前に、見に行こうと強引に誘われた。言われるがままも腹立たしいので、相手を待たせ、コートを羽織った。

 春香は思わず大崎の背中に隠れた。
 屋敷から約十五メートル離れた空地の一角で、俯せの夏江は後頭部を潰され、激しく出血、絶命していた。足を揃え、両腕を斜め上に広げたY字姿で、左手の先にはひまわりが一輪、雪上で黄色い主張をしている。洋館のそこここに飾ってある造花の一つらしい。右手の先には、拳大のラグビーボール型の石があったが、血は付いていないようだ。
 そして周辺には、夏江の行きの足跡以外、人が行き来した痕跡は疎か、雪を汚す物は何も見当たらない。
「雪の密室、足跡なき殺人……てやつなのかな?」
 大崎の無理に戯けたような台詞は、強い風と勢いを増した小川の流れが奏でる不気味な音に飲み込まれた。