CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



***********************************
第五話 已岬佳泰

 暗灰色に曇った空がいっそう暗さを増してゆく。信濃夏江の冷たい骸は放っておけば夕闇にまぎれてしまいそうだった。しかし、ひとたび夏江の死が確認されると、もう誰も亡骸に近づこうとはしなかった。割れた頭から流れ出たと思われるおびただしい量の血。一日のうちに姉妹ふたりが変死したという現実。しかし、それよりも何より不気味にうつったのは、死んだ夏江が手にしたものだった。まるでその場面にふさわしくない小道具。夏江が手にした季節外れの向日葵(ひまわり)は、周囲の雪景色に馴染まず、ひときわ異彩を放っていた。
「いったいあの向日葵はなんなの」
 信濃春香がつぶやいた。大崎秀明、それに、後から駆けつけた面々、信濃秋季や亜矢子も首を振るだけだ。
「そう言えば、死んだ冬美さんは山茶花を手にしていた。今度は夏江さんが向日葵を手にしている。それも、館内の飾り造花をわざわざ」
 顎に手を当てる大崎。
「冬ちゃんは山茶花が好きだったから違和感はないけど、夏江に向日葵なんてどういうことかしら。彼女、そんな趣味はなかったはずよ」
 亜矢子は両手で自分の肩を抱きしめている。それでも体の震えは隠せない。
「犯人がやったのでしょう」
 となりで秋季が冷ややかに言った。
「犯人? 秋ちゃんは夏江さんが殺されたというのか?」
 眉をひそめた大崎に秋季が噛みついた。
「当たり前でしょう。夏姉さんの頭を見てよ。あんな傷をいったいどうやったらつくれるの。まるで交通事故にあったみたいなひどい有様。ところがそのお相手は見あたらない。きっと犯人はハンマーみたいなもので殴って、そのまま逃げたのよ」
「ちょっと待って、秋ちゃん。それだとおかしな話になるわ。ほら、地面をごらんなさい。足跡は洋館の方から夏江の倒れているところまで、一対だけよ。もし、犯人がいたのなら、いったいその人の足跡はどうなったの?」
「夏姉さんはここで襲われたのじゃないのよ。あの洋館の勝手口のところで殴られて、必死にここまで逃げてきたんだわ。そしてここでついに力つきて倒れた。これだったら、犯人の足跡がないのは説明できるでしょ」
 秋季が指さした洋館横の勝手口を、そこに居た全員がいっせいに見た。夏江のものと思われる足跡が雪の上にたしかに続いている。
「変ね。あそこは出入りの業者さんや配達の人専用だったわよね。どうして夏江があんなところに?」
 亜矢子の言葉に、今度は春香が肩をすくめる番だった。しかし、それ以上の発言はない。さきほど夏江が企んだ悪戯を白状する気はないらしい。そんな春香を怪訝そうに秋季が見ていた。
「とにかく、僕らの手には負えない。警察を呼ぼう。それまで、夏ちゃんには申し訳ないが、ここはこのままにしておいた方がいいだろう」
 大崎に反対する者はいなかった。その頃になってようやく、母屋から急ぎ足でやってきたのが信濃志貴・美希夫妻だった。冬美の件で体調をこわしたという美希は、寝間着に外套を羽織っただけであった。足元もふらついていたが、必死に自分の娘の亡骸へと走り寄ると、雪の上に崩れ落ちた。志貴があわててその頼りない体を抱き起こした。
「どうして」
 喉を絞るような声だった。しかし、その疑問に答えはあろうはずがなかった。吹き抜けた一陣の冷たい風が、意味不明の唸り声をあげただけだった。

 いっぽう、信濃家から遠路戻った田沼誠三は彼の法律事務所前で立ち止まった。若い男がいた。この雪だというのによれよれのコート一枚で、眠たそうな目に不揃いの前髪。コートの下は色あせたセーターとジーンズという出で立ちは、へたをすると近頃このあたりでもみかけるようになったホームレスのようでもある。彼は鍵のかかった事務所のドアにもたれかかるようにして、英字新聞を読んでいた。
「どちらさまでしたか?」
 田沼がたずねると男はぱっと体を起こした。
「信濃重蔵氏の遺言書を見せていただけませんか」
 田沼は相手の顔をしげしげと眺めたが、見覚えはなかった。
「お約束をいただいておりましたか? 私、今日はこのあとちょっと予定がありまして、改めてというわけには参りませんかね」
 田沼はやんわりと断った。
「そこを何とかお願いできませんか」
 若い男はそう言うと、読んでいた英字新聞を折り畳み、丁寧にお辞儀をした。
「ボクは信濃夏江さんの要請で、これから彼女の家、つまりは信濃家に向かうところなのです。九州へ帰省していたもので遅くなったのですが、今日もまた電話があってあおられてしまいました。なんでも、祖父の重蔵氏が亡くなって、その遺産の取扱いでややこしいことになっているとか。しかも、彼女の妹で、遺言によって財産のほとんどを遺贈されるはずの冬美さんが今日、急死されたと聞きました。夏江さんいわく、どうも殺人事件の可能性もあると」
 田沼は慌てて、男の言葉をさえぎった。
「滅多なことは言わないでください。その件でしたら、警察にお任せしてあります。私から何か申し上げる立場にはありません」
 若い男は「そうでしょう」と頷いた。「亡くなった信濃重蔵氏と言えば、戦後の日本復興のどさくさの中で、主に進駐軍関係の仕事で巨額の富を得たと聞いてます。彼の死で相続対象となった資産はかなりの額になるでしょう。そんな状況で、冬美さんが亡くなった。しかも事故にしてはちょっとおかしな現場だった。これは何かある。そんな風に夏江さんが思ってもムリはない。この事件が新聞に載る頃には、日本中の大半の人が夏江さんと同じ感想をもつと思います」
「それで君は夏江さんに何を頼まれたのですか」
「山茶花の謎を解けと言われました。ほら、死んだ冬美さんが手にしていたという花ですよ。夏江さんはあれが気になってしょうがないと言うんです。ご両親や姉妹は自殺ではないかとおっしゃっているようですが、花を手に持ったまま、シャンデリアにぶらさがろうという行動は、夏江さんならずとも、やはり引っかかりますよね。それよりもやっぱり第三者がいて、何か作為的なことが行われたと考える方がまっとうでしょう」
「君はまるで刑事みたいな喋り方をするが、いったい何者なんだね」
「本業は学生です。ただパートタイムで夏江さんがオーナーの駅前ブティックで雑用係をやっています。まさに雑用係で生地の仕入れ、プレタポルテとか言う既製服の買い付けから、店の売り上げ管理、店内清掃までなんでもあり。今度の依頼もそういうわけで、雇い主からの命令なのです」
 若い男は寒そうに肩をすくめている。
「それで、君は遺言書を見てどうしようというんだ」
 田沼の口振りがいつの間にか詰問調になっていた。
「いくつか、変だなっていうところがあったのです。そして、よく考えてみたら、それらぜんぶが信濃重蔵氏の遺言書に起因しているようなのです。ですから、これはなんとしても遺言書をひとめ見てからでないと、先へは進めないと思いまして」
「もうすでに夏江さんから聞いてるだろうが、たしかに、重蔵氏の遺言には特殊な遺贈ルールが書いてある。だが、それを疑問視するのなら、重蔵氏本人にたずねないといけない。私には何も」
「ごもっともです。遺言状の意図は書いた重蔵氏でないと理解できないことでしょう。ただ、ボクが変だなと思ったのは、それ以後のできごとなんです」
「たとえば?」
「いくつかありますが、簡単なところでは遺留分の話です。重蔵氏の遺産の法定相続人は、長男、次男、長女の嫡出子三人のはずです。すると、遺言でいかなる遺贈があっても、相応の遺留分は主張できるわけですよね」
「入るか」
 唐突に田沼が言った。寒さに我慢できなかったのか、それとも若い男との会話がまだ終わりそうにもないと判断したのか、田沼はポケットからすっと鍵を取り出すと、田沼法律事務所のドアを開けた。話の途中で腰を折られた形になった若い男はしかし、顔をほころばせると田沼について事務所に入った。

 入ってすぐに受け付けの机があり、呼び鈴がひとつだけ置いてある。その向こうは磨りガラスのパーティションで、田沼はそのパーティションの奥にある布張りの応接セットに若い男を座らせた。反対側は腰高窓で、暮れゆく通りに街灯がついてゆく様が見通せた。
「意外でした。信濃家の顧問弁護士さんならもっと豪勢なオフィスを構えていると思っていました」
 上着をカーディガンに着替えた田沼が紙コップをふたつ、持ってきた。緑茶が湯気を立てている。
「以前は駅前のビルに三十人くらいの所帯でやっていた。しかし、信濃重蔵が病気に倒れてから、私も引退することにしたんだ。あっちは若手に任せて、私は古くからの積み残しの仕事だけを取り扱う、隠居弁護士になった」
「信濃重蔵氏の遺言書管理もそのひとつですか」
「ま、そういうわけだ」
 田沼はそう言うと、紙コップから音を立てて緑茶をすすった。
「専門家の田沼さんを前にして、こんなことを言うのは釈迦に説法で恐縮なんですが。でも失礼を顧みずに話させていただきますよ」
「さっきの話か。ま、いい。ここからは弁護士田沼ではなくて引退したじじいとして話を承ろう。君は何に疑問を持ったのだね」
「遺留分です。今回の場合、遺言書なしの法定相続だと仮定するとひとりあたりの相続は三分の一均等割りですよね。そして、重蔵氏の遺言による遺贈があっても、遺留分はひとり六分の一を主張できる(注:法定遺留分は法定相続総額の二分の一で、対象は配偶者と子供のみ)。たしかに比較すれば半分ですが、それでも信濃家の全財産をもってすれば相当な金額になる。ところが、遺言書の公開のときに、実子である長男の康志さんや長女の亜矢子さんは、これを微々たるものだというような発言があったとか」
「銭の亡者には、ちぃっとでも取り分が少ないと不満なんだろう。自分たちが稼いだカネでもないくせにな」
「そうかもしれません。でもボクが不思議に思ったのは、それに対して田沼さんが何も説明されていないことなんです。彼らは遺留分が、少なくとも法定相続分の半分はあるということを理解しているのでしょうか?」
「どうだろうな。もっとも私は遺留分の権利については説明しておいた。後は遺留分なんてちょっと調べれば誰にでもすぐ分かることだ。なぜそんなことを気にする」
 田沼の鋭い視線が一瞬、若い男に注がれた。男はさりげなくその視線を受け流すと言い放った。
「まるで田沼さんが遺産争いを歓迎しているように感じました」
 田沼がにやりと笑う。
「そんなことはない。私は遺言書が正しく実行されることを補助する立場にあるだけだ」
「そうですか。で、その遺言書ですが、信濃家で公開されたとき以外で、どなたかに見せるとか、内容を教えたことはありませんか?」
 田沼の顔から笑みがすうと消えた。
「君は若いくせに私を侮辱するのか。重蔵氏の遺言書はあの場で初めて公になったのだ。それ以前には誰ひとりその中味を知る立場にはいない。書いた本人と私をのぞくことはもちろんだがな」
 すると今度は若い男の方が笑う番だった。
「冬美さんの特別代理人の寺西勇二さんは、今日現在ですでに相続放棄の手続きを始めていたと聞きました。夏江さんによると、寺西さんは遺言状公開の場には立ち会わなかったし、その後も信濃家をたずねたこともないというのに」
「冬美が指示をしたんだろう。ちょっと精神的な遅れのある冬美だって、電話くらいはかけられる」
「そうでしょうか? 金額の大きさを考えてみてください。故人の遺志もある。冬美さんから電話連絡を受けたくらいですぐに放棄の手続きをとるのは、やっぱり変でしょう。それよりもボクには寺西さんが重蔵氏の遺言状の中味を知っていたか、あるいは、そうなるだろうと確信していたと思えるんです。それであらかじめ放棄をすることに決めていた」
「そんなバカな」
 昂奮した田沼が空になった紙コップを握りつぶしたその時、奥の部屋で電話が鳴った。立ち上がる田沼。それにあわせて、若い男も腰を上げた。
「どうもお邪魔をしました。遺言書はあきらめます。あまり夜遅くならないうちに信濃家に着きたいので、これで失礼します」
 男は頭を下げると、ドアを開けて出ていった。田沼は男の背中がドアの向こうに消えると、受話器を取り上げた。その電話は信濃康志からで、信濃夏江の変死を伝えるものだった。