CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)




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第七話 真弓
 斎藤信代は台所の片付けを終えると大きく溜息をついた。
 外はすっかり暗くなっており、風が吹き荒れる音だけが耳に響く。外に雪が積もっているせいか、足元からしんしんとした冷気を感じながら信代は、雪の上に一人放り出されている夏江の躯を思いだしてまた大きな溜息をついた。他の使用人達はさっきの出来事のせいもあり、信代だけを残すと皆早々と帰されて、誰一人いない。
 信代は時計を見上げ時間を確認すると使用人専用の食事室に入り、明かりをつけた。
 カーテンが閉められていないその部屋の窓は、外の暗闇のせいでまるで鏡のように信代の姿を映し出した。信代は頬を上気させるといそいそと髪を整え、そして紅を引いた。それからカーテンを閉め終えた所で背後から人の気配を感じたが、振り返る間もなく男の手が伸び、信代の体を抱きしめると、首筋に口付けをしてきた。
 信代はそれに応えるように振り返り視線を合わせ、男の頬に触れると自分の顔に引き寄せ今度は信代のほうからその唇に口付けた。
 ――今整えられたばかりの、信代の髪が乱れた。

 まだ二十歳になったばかりの信代が使用人として働くべく信濃家の門をくぐったのも、雪景色を赤い山茶花が彩る、冬だった。病に伏した育ての祖母は、冬を越すことなくこの年に亡くなった。
 母親は、信代を出産してすぐに他界、父親は誰だかわからない。姉が一人いたらしいが、小さい頃に亡くなった、としか聞いていない。身寄りのなくなった信代は、祖母が長年勤めていた信濃家を頼っていった。それが祖母の遺言でもあったのだ。
 重蔵は信代の身元を当然のように受け入れた。信代の祖母は重蔵が小さい頃から勤めており、重蔵にとっては母親同然の存在だった。
 真面目でよく働く信代を、重蔵は実の娘のように可愛がった。実際、次男の嫁の美希と争ってばかりいる同じ年頃の亜矢子よりも可愛がっていたかもしれない。
 対照的に、重蔵の妻の多恵はあからさまに信代を疎んじた。自分の娘である亜矢子よりも美しかったのも気にいらなかった。亜矢子と見合いに来た男達も、亜矢子よりもお茶を出しにきた信代の事の方を気にしていたのであった。
 しかし、信代はその美しさにおごることなく、慎み深い生活を送り、結婚することは愚か、恋をすることもなく信濃家のために真面目一筋に仕えた。
 それは二十二年間変わることなく過ぎていった。――ある男に恋をするまでは。
 信代は四十二歳にして初めて知った恋心により、その心を狂わせ、人生をも狂わす事なるのであった……。

 ――ふと窓の外に赤い光が回転するのが見えた。
 髪の毛を整えようと信代が立ちあがった時である。男はつい先ほど帰って行った。警察が夏江の捜査に訪れたのだろう。すぐに出迎えて居間に案内しなければ。暗闇の中、鏡台に向かって歩きだした信代は足で何か固い物を蹴ってしまったのを感じた。
 すぐに部屋の明かりをつけ、今蹴ってしまったものは何だったのかを捜すと、部屋の隅に見覚えのない携帯電話が落ちている。
 男が忘れていったものだとすぐに理解し、後で会ったときに渡そうと私用の錠前つきの戸棚に入れようとしてふと邪念が頭をよぎった。
 二人の仲は極秘であり、信代に男の携帯番号は知らされていない。信代から男への連絡を禁じたのである。
 だが、今。その携帯は信代の手元にある。信代は、二つに折り畳まれたその携帯をゆっくりと開いた。
 電源は入っていない。
 躊躇しつつ、親指で電源ボタンを押し、男の通信履歴を調べる。信代は頻繁にでてくる同じ番号を見つけた。そして着信履歴を調べる。やはり、同じ番号から頻繁に着信がある。つい最近のものまでその番号である。
 勝手に男の携帯を盗み見してしまった罪悪感もあったが、信代の中の疑心が大きく膨らみ、指は自然とその番号へ発信していた。
「もしもし……」
 聞こえてきたのは若い女のか細い声。信代は唇を噛み締めると、大きく動悸する胸を落ち着かせるように目を閉じた。荒くなる息を押しこめ、震える手で電源を切る。
 と、その時玄関のほうで数人の話し声が聞こえてきた。警察だろうか?
 信代はその携帯を戸棚に隠すと、鍵を閉め、後れ毛を整えることもせずにその部屋を後にした。

 
「信代さん、な、何?」
 人目のつかない場所に康志と秋季はいた。信代の存在にも気付かずに二人でこそこそと話しこんでいるのを信代は声をかけるのを躊躇いつつ見ていたのだが、やがて信代の存在に気付くと慌てたように信代の方へと向き直ったのだった。
「警察の方がお見えになりました。皆さん、母屋の居間にお集まり下さいとの事です……」
「分かった。春香ちゃんもあれから部屋に閉じ篭ったまんまだろ。私が声をかけて秋ちゃんと一緒に連れて行くから、みんなにそう言っておいて」
 明らかに動揺している様子で康志が答える。
「かしこまりました」
 信代は二人に軽く笑顔を返すと、くるりと背を向けて玄関ホールを後にした。
 居間にはすでに康志と秋季、そして春香の三人以外の人間は揃っていて、信代はその一人一人にお茶を配った。刑事が一人立ったまま携帯で話をしているので「お茶が入っておりますので」とだけ声を潜めて告げると、携帯を耳にあてがったまま信代の方へ軽く会釈をした。信代はその顔をどこかで見たような気がしたが、そこで康志達が入ってきたのでその事をすぐに忘れ、新たなお茶を入れに台所に戻った。途中で田沼と見知らぬ男とすれ違い「今から部外者の方はお部屋に立ち入らない様に」と促されたのでそれきり信代が居間に戻ることはなかった。

――どのくらい時間が経ったのだろう。居間の扉が開き、春香が康志と秋季に支えられながら出てきた。
「冬ちゃん妊娠って……一体誰が? もう、訳わかんないよ」
 春香が半分泣き顔で呟く。秋季も俯いたまま何か考えこんでいるようだ。
「無理やりってことも考えられるよね」
 秋季がいつもより低めのトーンで呟いた。みな大体同様の事を考えているのだろう。冬美の最近の行動を思い返せば納得がいく。
 他の者達は、何か田沼達と話をしているのかまだ部屋から出てくる気配はない。
「ねえ、お願い。今日は一緒にいてよ。誰か一緒にいてくれないと頭がおかしくなりそう」
 春香は秋季にすがりつくようにして懇願した。が、また秋季の方も一緒だった。康志に一緒にいてほしい所だが二人のことを公にはできない今、誰でもいい、とにかく一人で部屋に帰りたくはない、そう思っていた。
 二人は春香の部屋に入ると鍵をかけ、カーテンを閉めた。そこまですると、やっと少し落ち着き、二人並んでベッドへと腰掛けた。
「春姉さん」
 落ち着いた低い声で秋季が言った。春香は肩をびくりと動かし秋季の顔を見やった。
「何か、隠していることはない?」
 春香は、唾を呑みこんだ。秋季の目を直視することが出来ない。
「わかってるのよ。さっき夏姉さんのそばに皆で行った時、春姉さん様子が変だったじゃない」
 春香は頭をだらりと下げたまま返事をしない。セミロングの髪の毛のせいでどんな表情をしているのかは見る事ができないが、大体想像することができた。
 だが次の瞬間声を震わせながら吐き出す様に喋り始めた。
「……私が言い出したんじゃないわ。あの子が言い出した事なのよ? 大崎に殺されそうになったふりをしようって。あの子、私に任せて、そう言って外に出て行って……後は何が何だかわからない。そしたらあの子、雪の上で頭からいっぱい、血、血が……」
 興奮しすぎて呂律が回らなくなったところを秋季が抱きしめた。
「もういいよ。春姉さん。もう、何でも正直に皆に話そう?」
「でも」
「話したほうがいいよ。私も実は春姉さんに話さなきゃいけないことがあるんだ」
「秋ちゃん……?」
 二人が眠りについたのは明け方近くだっただろうか。この日姉妹はお互いの胸に持った秘密を全て吐露しあった。
 それは姉妹にとって衝撃的な内容ではあったが、おかしなもので秘密を共有したことで二人の間に確かな安心感が生まれ、二人は夜通し色んな事をお喋りした。幼い頃の思い出、まだ姉妹全員が仲良かった頃の。
 この時初めて二人は、逝ってしまった二人の姉妹の事を思い泣いた。純粋に。
 一つのベッドで二人は体を寄せあって眠った。こうして眠るのも、何年ぶりの事だろうか。
「おやすみ。春姉さん」
 姉妹が分かり合えた夜。確かに二人の間に絆と呼べるものが生まれた夜だった。
 しかしこれが春香が最後に聞いた秋季の声となったのだった。

 翌朝、春香が目覚めると、横に秋季はいなかった。嫌な予感がして慌ててカーディガンを羽織り、部屋の外に飛び出すと、屋敷の中が騒然としている。
「何かあったの?」
 早朝に出勤してきた慌てた顔の使用人を掴まえると、その訳を聞いた。
「信代さんがどこにもいらっしゃらないのです。屋敷中を捜しても。それに……」
 その話の続きを聞いて春香は愕然とした。
「私共の使っております部屋の信代様専用の戸棚から、夏江様の携帯が見つかったのです」
 警察も今躍起になって信代を捜している、そう使用人が言い終える前に春香はふらふらとした足取りで階段を降りた。
「秋季! 秋季はどこにいるの!」
 春香は悲鳴にも似た声で秋季の名を呼んだが、どこからも返事はない。春香は階段を降りるとその場にへなへなと座り込んだ。いいようのない不安感が押し寄せる。
 と、その時外のどこからか恐怖に直面した人間が発したであろう悲鳴が聞こえた。
 春香は慌てて窓から外を見た。しかしどこから声がしたのかわからない。
 すると庭の奥の方から若い女の使用人が走ってきて、あとから駆けつけた別の使用人に、今来た方向を指差しているのが見えた。そして二人はまたそちらのほうへ走っていったのだ。
 春香はネグリジェにカーディガンを羽織っただけの姿でまだ雪が残る屋外に飛び出した。
 さっきの二人が走っていた方向を見て、春香の中に吐きそうなほどの恐怖感が押し寄せる。
 その視線の先には一筋の細い煙が上がっていた。
 まさか、まさかまさかまさか……。
 春香は脳裏に浮かび上がるその光景を懸命に打ち消しながらその方向へ、焼却炉へ向かった。
 そして焼却炉へ向かった春香が見た物は……
 焼却炉の前に、秋桜の花束。そして焼却炉の中からは、大きな炭が。炭になってしまった人間の遺体があった。使用人が焼却炉の中のものを掻き出そうとしてつけてしまったのか、大きく裂けた傷口から、まだ焼けきっていない赤い肉が見えた。
 春香は遠くなっていく意識の中、明け方眠りに落ちる直前に聞いた秋季の携帯の着信音を思い出していた。