CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



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第九話 水乃 蒼

 春香は、カーディガンを羽織りながら窓辺に立った。カーテンを開けると、そこには一面の銀世界が広がっている。
「寒いはずね」
 彼女は独りごつと、ハロゲンヒーターのスイッチを入れた。部屋に備え付けられている暖房器具は既に骨董の域に達しており、もう何年も使われていない。
 壁に掛けられた時計の針は9時半を指している。相変わらず顔色は悪いが、十分な睡眠が春香に冷静さを取り戻させたようだ。
『冬美の遺体が解剖から戻ってくることになった。その時に、刑事の縦溝から何か話があるらしい。連絡があったらすぐ来るように。夏江と秋季……と思われる遺体は、まだどこそこの大学の法医学教室に預けられている。葬儀の日程は、彼女達の解剖が終わり次第決めるから』
 昨夜、志貴はそれらの事項を早口で伝えると、春香にいたわりの言葉ひとつかけることなく、さっさと電話を切ってしまった。
 父親にも母親にも似ていないこの顔。ドレッサーの前に座って鏡を見つめていると、一昨日の夜、秋季の口から語られた話が、実感となって迫ってくる。――出生の秘密。呪われた血。
『お爺様の不思議な遺言は、私達を守るために書かれたものだった。でも、それを許さない“誰か”がいるんだわ。冬ちゃんと夏姉さんがあんなひどい死に方をしたのは、私達に流れている、このおぞましい血のせいなのよ』
 秋季はそこまで言うと、ふっと微笑んだ。
『でもね、私はその“誰か”の思う通りになんかさせない。それでね、ちょっと罠をしかけてみたの。怖くないって言ったら嘘になるけど、お爺様の意思を守るためだものね』
 しかし、その秋季は、逆にあんな無惨な姿にされてしまった。
 春香が溜息をついた時、ノックの音が聞こえた。ドア越しに、冬美の遺体が到着したという知らせを受ける。
「わかったわ。支度ができ次第、すぐに行くから」
 彼女はそう言うと、立ち上がった。
 冬美の最期を思い出す度、春香の胸は苦しくなる。彼女は殺されたのだ。そのことを知っていながら伝えることができずにいるのは、ひとえに自分の後ろめたさのせいだった。
 冬美が亡くなった日、春香の携帯にかかってきた一本の電話。
 それは、性別のわからないくぐもった声だった。抑揚を押さえたその口調に、春香は言い知れぬ恐怖を覚えた。
『21時になる前に、冬美以外の人物を、すべて洋館から外へ連れ出せ。さもないと……』
 くくっ、とかみ殺したような笑いが聞こえた後、その電話は切れた。
 あの日の夕食後、二人の妹達を連れ出すタイミングをはかっているうちに、亜矢子と大崎が現れた。帰らないばかりか、これまで関心すら示さなかったピアノをひき始めるに至り、春香の苛立ちと焦りは頂点に達した。
 その時だった。開け放った窓の外に、ふわふわと落ちていく白い物を見たのは。
 彼女は咄嗟にその方向を指差していた。結果、飛び出した大崎の後を皆が追う形になり、あの電話が要求した通りの結末を迎えたのだ。
――あの時、脅迫に屈することがなかったら、妹達を死なせずに済んだのかもしれない。
 春香は迫り来る自責の念と闘いつつ、クローゼットからグレーのワンピースを取り出した。

 志貴は、お気に入りのリクライニングソファに身体を沈め、ゆったりとパイプを燻らせていた。
 美希と寝室を別にしてもう3年になる。喘息持ちの彼女の前では、こうしてゆっくり煙を味わうことさえも許されなかった。
 政財界に多大な影響力を持つ滝川グループ会長、滝川遼太郎の末娘である美希との結婚は、母、多恵の強い意向によるものだった。当時、長男の康志は自由人を気取り、定職にもつかずぶらぶらしていた。信濃グループ傘下の企業で真面目に働いていた次男、志貴に白羽の矢が立ったのは、むしろ自然の成り行きと言えた。
 「女帝」と呼ばれた多恵に逆らうことなど、出来ようはずもなかった。志貴は、心から愛し合っていた女性と別れ、気の進まぬ結婚を受け入れるしかなかったのだ。
 八年前、その多恵が亡くなった時には、信濃家の誰もが解放感を持ったことだろう。唯一、多恵から目をかけられ、よく懐いていた秋季を除いては。
 秋季の携帯の着信音が「ラ・カンパネラ」であることを知った時、志貴はこの娘に対し、嫌悪感さえ覚えた。それは、偉大過ぎる母、多恵が最も愛した曲だった。スタインウエイの前に座り、リストによってピアノ用に編み変えられたその曲を、気持ち良さそうに奏でていた母の姿。秋季の携帯からそのメロディが流れ出る度、忘却を許さぬかのごとく脳裏に蘇り、志貴を震え上がらせた。
「そう言えば……」
 彼はパイプを手にしたまま目を閉じた。昨夜、ベッドに横になり本を読んでいた時、どこからか「ラ・カンパネラ」のメロディが聞こえてきたような気がしたのだが……。
 突然、ドアがノックされた。目を開けて返事をすると、冬美の遺体の到着を告げる使用人の声が聞こえてきた。美希と共に向かうことを伝え、下がらせる。
「さあ、また『おしどり夫婦ごっこ』のお時間だ」
 彼は大きく溜息を付くと、パイプを置いた。

 母屋の一番奥の和室に、冬美の遺体は安置されていた。顔にかけられた白い布の隙間から覗く、頭の包帯が痛々しい。
「志貴兄さん、美希さんはどうしたの?」
 焼香を終えた亜矢子が、志貴を振り返りながら尋ねた。こんな状況下でも、亜矢子はしっかり紅を引き、若づくりすることを怠らない。
「お母様ったら、また具合が悪いの?」
 対照的にベースメイクすらしていない春香に尋ねられ、志貴は無言で俯いた。
 迎えに行った美希の部屋に、彼女の姿はなかった。寝ているはずのベッドの上に置かれていたのは、何とも不可解な品々。
――枯れかけの黄色いカーネーション。完膚無きまでに破壊された携帯電話。そして、どこか見覚えのある警察官の写真。
 志貴は心の整理が付けられぬまま、今、こうして娘の遺体と向き合っていた。

 その10分後、縦溝の指示に従い、彼等は母屋の居間へと場所を移した。薄暗い和室の中、思い思いに腰を下ろす信濃家ゆかりの人々。最前列には、康志と亜矢子、そして彼女の婚約者、大崎。その後ろには、志貴と春香の2人。最後列には、特別に同席を許された探偵もどきの佐久間と、つい今し方到着したばかりの弁護士、田沼の姿がある。
「昨日の焼死体についてですが」
 向かい合う形で立っている縦溝が、静かに口を開いた。
「気道や肺に煤が付着していないことから、死後、焼却炉で焼かれたと考えられます。後頭部への一撃が致命傷でしょうね。ひどい陥没骨折が認められました」
「それで、遺体はやはり秋ちゃんだったんですか?」
 康志がもどかしそうに尋ねる。
「いえ、まだ身元の特定はできていません。なにしろ損傷が激しいので……」
 縦溝の返事に、田沼が声を荒げた。
「いくら損傷が激しいと言っても、歯の治療痕から身元の特定くらいはできるでしょう。焼却炉で焼かれたところで、歯が融けて無くなるとは思えませんがね」
「ところが、その肝心の歯が問題なのです」
 縦溝が反論する。
「顔面が滅茶苦茶に潰されていましてね。歯は残らず折られており、顎の骨も粉々に砕かれています。歯の治療痕など、とても確認できる状態ではありません」
「滅茶苦茶に……」
 春香が両手で口元を覆う。
「そこまで強く殴打した上、焼却炉に放り込むとなると、かなり力がいるでしょうね。犯人は男性と考えてよさそうだ」
 佐久間が口を挟む。
「そのことについては、目下検討中です」
 縦溝は軽く咳払いをすると続けた。
「他に、焼却炉の前に置かれていた秋桜の花束について、有力な情報を得ました。あの花束は、この近くのフラワーショップで購入されたものでした。そして、そこに設置されていた防犯カメラに、買い求めた人物が写っていたのです」
「え?それじゃあ、犯人がわかったってこと?」
 亜矢子が驚いたように縦溝を見上げる。
「犯人なのかどうか、まだ断定はできません。しかし、何らかの関係があることは確かでしょう」
「で、誰なんですか?」
 大崎が急かすように尋ねた。
「それが……」
 皆の視線が縦溝に集中する。彼はゆっくりと口を開いた。
「秋季さんご自身だったのです」
 あちこちから、ほうっという溜息が漏れた。
「じゃあ、自分であの花束を置いて、焼却炉に飛び込んだってこと?あ、でも、死んでから焼かれてるのよねえ」
 亜矢子が腕を組む。
「焼死体は秋ちゃんではない、と考える方が自然だろう」
 大崎が、眉間に皺を寄せ亜矢子の顔を見た。
「秋季じゃない?じゃあ一体誰の……。あっ、もしかして信代さん?」
 亜矢子はそう言って、縦溝を見上げる。
「ええ。おそらく、あの焼死体は、斎藤信代さんではないかと考えられます。秋桜を置いたのは、それを秋季さんご自身だと思わせるためでしょう」
「つまり、秋ちゃんが信代さんを殺したということですね」
 大崎が確認すると、縦溝は複雑な表情で答えた。
「いえ、先ほど佐久間さんがおっしゃったように、女性一人の力でそれだけのことができたかどうか、疑問が残ります。共犯者の存在も、念頭に入れておく必要があるでしょう」
「あの……他の事件にも秋季が?」
 志貴が消え入りそうな声で尋ねる。
「さあ、そこまではちょっと……。冬美さんの件では、まだ殺人かどうかも断定しきれない状態ですからね」
 縦溝が慰めるような口調で答える。
「ちょっと待って下さい」
 黙って話を聞いていた康志が口を挟んだ。
「たまたま秋ちゃんの買った花が、利用されただけかもしれないじゃないですか。花束を買ったのが秋ちゃんだというだけで、彼女を犯人扱いしてよいものでしょうか」
「もちろん、おっしゃる通りです。あくまでも可能性のひとつ、ということですから」
 縦溝が答えた。
「でも、秋季だったとしたら、動機は何なのかしら。冬美や夏江を殺したところで、遺産が入ってくるわけでもないし……。むしろ、自分が受け取れる条件を、自ら消してしまったようなもんじゃない?ねえ、先生」
 亜矢子が田沼の方を振り返った。
「ええ。たしかにそうですね。夏江さんが亡くなられたことで、条件二の不成就が確定してしまったわけですから」
 田沼が厳しい顔で頷く。
「となると、秋季が遺産を受け取るためには、康志兄さんと結婚するしかないのよね。でも、まさかそんなこと……ねえ」
 亜矢子が康志の顔を覗き込んだ。
「当たり前だ。バカなことを言うんじゃない」
 康志は、亜矢子に視線を合わせることなく答えた。
「違うわ」
 その時、春香が突然立ち上がった。目には涙を浮かべている。
「どうされましたか?」
 縦溝がいぶかし気に尋ねる。
「お金なんかじゃない。あの子は、お金が欲しかったわけじゃないのよ」
 そう言うと、春香は走って居間を出て行った。
「春香さん、待って下さい」
 佐久間が彼女の後を追う。
「どういうこと?」
「さあ」
 一同が騒然とする中、康志の目から一筋の涙がこぼれ落ちたのを、縦溝は見逃さなかった。