CMWC Relay Novel vol.2
(2004/02/07~2004/06/30)



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第十話 橘 音夢

 春香は玄関から凍てついた空気の中へと飛び出した。
 秋ちゃんは、本当に康志伯父さんが好きだと言っていた。あれは嘘なんかじゃない。だってそう告白した時の秋ちゃんの顔はそれまで見たこともないほど幸せそうだったのだから。
 春香は雪を踏みしめ、転びそうになりながら無我夢中で走り続けた。母屋の裏手には潅木の茂みがあり、その中間あたりに大きな桜の老木が二本ある。その二本の間を潜り抜けるとその向こうはなだらかに地面が一メートルほど落ち込んでいて、木々に囲まれる形で直径三メートルほどの小さな空き地がある。そこは屋敷側から死角になっているので、春香達姉妹は子供の頃よくその空き地へ行っては座り込んで、親に聞かれたくないことを囁きあったものだった。
 春香の足は自然にその空き地へと向かっていた。
 あそこへ行けば、秋ちゃんがいるもしれない。何事もなかったように座って微笑んでいるかもしれない。
 桜の木の間の道には、雪の上になにかうす赤いものがうず高く積もってみえる。
 その手前で春香は足を止めた。よく見るとそれは桜の花びらのようだった。
 その時、春香の頭の中に悲鳴のような声が響いた。
『春姉ちゃん、そこに入っちゃ駄目!』
 それは確かに秋季の声だった。
「秋ちゃん? 秋ちゃんなの? そこにいるの?」
 春香は、花びらに足を踏み入れた。だが、あるはずの地面がそこには存在していなかった。春香の身体はそのまま前のめりに倒れそうになった。
「危ない!」
 花びらの海に吸い込まれそうになる身体を二本の腕がしっかりと抱きとめる。
 佐久間だった。
 次の瞬間、強風が二人を包み込んだ。花びらが一斉に舞い上がる。桜色のブリザードが唸りを上げ、視界を遮った。
 一瞬にして視界が開け、目に飛び込んできた光景を春香は一生忘れることはできないだろう。
 
 足元にぽかりと開いた穴の中には、十数本の日本刀がぎらついた切っ先を上に向けて雪の中に埋められていた。そして……。
 黒いワンピースを着た秋季が身体から数本のおぞましい角を生やし、花びらが散りばめられた深紅の花を咲かせながら仰向けに横たわっていた。その顔は恐怖に目を見開いたまま凍りついている。
 春香はそのまま佐久間の腕の中で気を失った。

 屋敷の庭に再び赤色灯が点滅し、大勢の捜査員が慌しく動き回る。秋季の遺体は刀の呪縛から逃れ、屋敷の外へと運び出されていった。
 夕刻、捜査員が去り、警護の為の数人の警官と縦溝が屋敷に残った。縦溝は穴の淵に佇んで無表情に血まみれの日本刀を見つめていた。
「この穴は最近、広げられたようですね。ずいぶん手間のかかることをするものだ」
 突然、後ろから響いてきた声に縦溝はぎくりとした。
 くたびれたコートを羽織った佐久間が寒そうに身体を縮めながら立っている。
 佐久間は跪き、地面に落ちた花びらを一枚拾い上げた。
「よく見るとこれは薄い布だ。よく出来てますね。これは芝居に使うものかな」
 縦溝はコートのポケットに手を突っ込んだままぶっきらぼうに答えた。
「もう、調ベは済んでいる。屋敷の地下倉庫に保管されていたものだ。重蔵氏は昔、ある劇団の花形役者に入れあげていて、そいつの為に『娘道成寺』を現代的にアレンジした芝居の脚本を書き、衣装から舞台装置まで一切そろえてやったそうなんだ。桜の花びらは小道具の一つで箱に収められていたそうだが、確認したところ、箱は空になっていた」
「恋焦がれ、追い続けて、されどかなわぬ恋……ってわけですか」
 佐久間は摘んだ花びらを指の先に乗せ、ふっと息を吹きかける。花びらはふわりと宙に舞った。
「あの刀も重蔵氏のコレクションですか」
「ああ、それも同じ場所に保管されていたものだ」
「見せてもらえますかね。その地下倉庫」
「見たかったら、康志氏に聞いてみたらいい」
 縦溝がそう答え、振り向いた時には、もう佐久間の姿は消えていた。

一時間後、信濃家の一同は母屋の居間に集められていた。
 春香は意識を取り戻したが外で警官が見張っている別室で横になっていて、佐久間が傍に付き添っていた。
「今度は秋季さんか。いったいこの家はどうなっているんだ!」
 思わず口に出した田沼を無視して縦溝が話し始めた。
「皆さん、大変ご心痛のところを申し訳ないのですが、これまでの捜査状況を報告させていただきます。駐車場から桜の木までの間に秋季さんと他の人物のものらしい足跡が続いていました。駐車場の足跡はかなり乱れていて、コスモスの花びらが落ちていましたから、ここで何らかのトラブルがあったのでしょう。先ほど、春香さんに聞いたところでは、秋季さんは犯人に罠を仕掛けるつもりだったとのことです。おそらく秋季さんはコスモスの花束を持ち、駐車場で呼び出した犯人を待っていた。自分が犯人を知っていることを知らせた上で自首を促すつもりだったのかもしれません。ただ、なぜわざわざ花束を持っていったのかは分かりませんが」
「殺せるものなら、この場で殺して御覧なさいって、そう言ったに違いないわ」
 そう呟いたのは、美希だった。身体を細かく震わせて、血の気のない顔を少し歪めた。
「あの子……昔からそういう子でした。相手を挑発して……とても危険なことなのに……そういうことが大好きで……」
「挑発ですか。なるほど。いずれにしても、犯人はまったく動じなかったようです。桜の木のところまで秋季さんを追い詰め、振り向いた彼女を穴の中に突き落とした」
「でも、そんなに逃げ回ったのなら叫び声が聞こえたはずだわ」
 亜矢子の呟きに、縦溝は事もなげに答えを返す。
「爆音ですよ、飛行機の。あの音が彼女の悲鳴を掻き消したのではないでしょうかね」

 その時、襖が開いて、佐久間に抱きかかえられるようにして春香が居間に入ってきた。憔悴しきった様子の春香は志貴夫婦の隣に崩れるように座り込み、座卓に顔を伏せた。

「……舞台違いですよね。あの仕込みは春のものだ」
 大崎が天井を見つめたままそう言うと、全員が一斉に彼のほうを見た。
「まあ、そういうことですね。あの桜の罠は春香さんの為に仕掛けられたものだったのでしょう。だが、秋季さんが犯人を呼び出したことですっかり計画が狂ってしまった。その上、秋季さんの殺害現場を信代さんに見られてしまった。それで止むをえず、彼女を追いかけて殺害したのかもしれない。そうなると、焼却炉の死体は信代さんの可能性が高いですね。いや、これはまだ私の推測に過ぎませんが。……ああ、ところで、どなたか秋季さんの携帯に心当たりはありませんか?」
「携帯……!」
 突然、志貴が立ち上がった。
「あったんですよ! 今朝、美希の部屋のベッドの上に。枯れたカーネーションと警察官の写真と一緒に、粉ごなに壊された携帯が! 美希、あれをどこへやった?」
 美希は戸惑ったような顔で興奮する志貴を見つめた。
「ちょっと失礼します」
 佐久間が居間から出て行った。気まずい沈黙が三十秒ほど続く。
「何のことかしら? 知らないわ」
「知らないはずはないだろう! 教えてくれ、あれはいったいどういうことだ!」
「だから、知らないって言ってるでしょ!」
「……見てみましょう」
 縦溝はそう言うと真っ先に廊下に出て行った。美希の部屋に入った縦溝は急いでゴミ箱の中を覗いた。携帯とカーネーションはすぐに見つかった。だが……。
「あなたが探してるのはこれですか?」
 縦溝が驚いて振り返ると佐久間が部屋の隅に立っていた。佐久間は写真をひょいと上に持ちあげて縦溝に見せ、にやりと笑った。
「き、貴様! その写真をこっちへ寄こせ!」
 縦溝が怒鳴り返した時、志貴が部屋に入ってきた。
「とにかく居間に戻りましょう」
 佐久間は写真をジーンズのポケットに押し込みながら、さっさと部屋から出て行った。縦溝は廊下にいた警官に携帯とカーネーションを回収するよう命じてから後を追った。

「刑事さん、携帯はありましたか?」
 志貴の問いかけに答えようともせず、縦溝は今にも噛み付きそうな顔で佐久間を睨みつけた。佐久間は我関せずといった面持ちで春香の傍に歩み寄ると、二言三言話しかけた。春香はじっと唇を噛み締めながらゆっくりと立ち上がった。
「皆さん、聞いてください。私は二日前の夜、秋季から重大なことを聞きました。それが今起こっていることに関係していると秋季は考えていました。このことは秘密にしようと思っていたけれど、それは良くないことだと今、私は考え直しました」
 一同は春香の毅然とした態度に口を挟むこともなく、黙って耳を傾けている。
「秋季は康志伯父さんを愛していました。遺産の相続問題が起きなくても秋季は伯父さんと結婚するつもりでいたんです」
 亜矢子たちが驚いたように康志に視線を向けると、彼は身体を震わせ、声を上げて泣き始めた。
「秋季と伯父さんは数週間前にお爺様の部屋で逢引きをしたそうです。お爺様が入院してから二人は密会するために何度かそこを利用していたんです。その時、秋季は本棚にぶつかってお爺様の古い日記を落としてしまいました。拾い上げて何気なく日記を読んだ秋季は、そこに私達の出生の秘密が書かれていることに気が付いたんです。今から四十四年前、お爺様は仕事の関係で、滝川グループの会長、滝川遼太郎さんと深い繋がりを持っていました。遼太郎さんのお屋敷にも頻繁に出入りしていたそうです。その年、遼太郎さんはロンドンに出張して長期滞在することが多くなり、二ヶ月に一度、二、三日しか家に帰ってこなくなっていました。その間にお爺様と遼太郎さんの奥様の時乃さんは深い関係になったんです。そして、翌年、母が生まれました」
 亜矢子は目を大きく見開いて美希を見つめた。
「それじゃ……それじゃ、美希さんは、お父様の!」
 春香は動じる様子もなく、淡々と話を続けた。
「そうです。母が宿ったと思われる頃には遼太郎さんは日本にいませんでした。それでも、スキャンダルを怖れて遼太郎さんは母の父親のことに対して、時乃さんに何も問いたださなかったそうです。でも、おそらく薄々感づいてはいたのでしょう。お爺様もそれ以来、遼太郎さんのお屋敷を訪ねることはなくなったそうです」
「そ、そんな馬鹿な……!」
 志貴はぎゅっと拳を握り締めて、噴き上がりそうになる感情をどうにか押さえ込んでいるようだった。

「……ごめんなさい、私……もうこれ以上は……。佐久間さん、お願いしていいですか?」
 佐久間は春香をそっと座らせると、すっと立ち上がり、一同を鋭い眼差しで見回した。
「それでは、私が続けさせていただきます。私は先ほど、春香さんにこの話をお聞きしました。美希さんが生まれて十年後に母親の時乃さんが亡くなり、遼太郎氏も後を追うようにして亡くなった。やがて美希さんが年頃になり、志貴さんとのいわば政略結婚の話が出た時、重蔵さんは多恵さんに、美希さんの父親が自分であることを打ち明けることが出来ませんでした。女帝と呼ばれた多恵さんに重蔵さんは逆らうことが出来なかったし、もしそんなことが公になったらどういうことになるかをもっとも恐れていました。ですから、志貴さんと美希さんは腹違いの兄妹なんです」
 
「なんて……なんて厭らしい……」
「止めろよ!」
 亜矢子が唾を吐きそうな顔で志貴夫婦を睨んだので、大崎は慌てて窘めた。
 美希は俯いたまま、まったく動こうとしない。志貴は呆然としたようすで美希を見つめている。
 話を続けようとする佐久間に春香が何事か囁いた。佐久間は頷くとその場に座り、代わりに春香が立ち上がった。
「ですから、私達姉妹は近親相姦の上に生まれたんです。それはとても辛いことですが、秋季は康志さんはそれでも私を変わらずに愛してくれたと言っていました。伯父さんが財産のことなんかじゃなく、本当に秋季を愛していたんだって私はそう思っているんです。そうですよね? 伯父さん」
 康志はようやく落ち着きを取り戻したらしく、涙でくしゃくしゃになった顔を春香に向けて軽く頷いた。

 その時、縦溝が立ち上がり、そっと居間を出て行こうとした。
 佐久間は急いで立ち上がると、縦溝を呼び止めた。
「待ってください、縦溝さん。あなたは子供の頃、訳あって養子に出された。あなたは美希さんの実の兄。旧姓、滝川……滝川恵介さん。そうですね?」