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HBCラジオ放送

「土曜はEじゃん」西岡恭蔵特集 特設ページ

1997年9月26日から 人目の御来場者です。


HBC放送「土曜はEジャン」の制作のtobyこと飛田さん、西岡恭蔵ホームページの「掲示板」に書き込み、ありがとうございます。
ラジオで恭蔵さんの特集をされる、という事で、書き込みいただいた翌日のライブが、以前に恭蔵さんの掲示板に書き込んでいただいた、青森の「シューだびよん」という店の予定になっていましたので、マスターの原さんにメールで無理をお願いして、tobyさんのメッセージを渡していただくよう、お願いしました。
原さんの方で、恭蔵さんにお渡しいただいた後も、恭蔵さんと連絡をとっていただいて、今日(9月25日)、恭蔵さんからのメッセージを、FAXで送っていただきました。
お忙しい中、お手数をお掛けした青森の「シューだびよん」の原さん、大変ありがとうございました。
この場を、お借りして、お礼を申し上げます。
以下、恭蔵さんからのメッセージです。


飛田様、
ホームページへの書き込み、ありがとうございます。
今、青森に来てまして、昨日(9月18日)、「シューだびよん」でのLiveが終わりました。
「シューだびよん」のマスター、衆さんからホームページのプリント・アウトをいただき、tobyさんからのおたより、手にした次第です。
番組で私を取り上げてくれるとの事、ありがとうございます。
4項目のご質問、以下に答えさせていただきます。


★★★★1.ザ・ディラン結成の経過
1970年だったと思うのですが、大塚まさじ(ディラン→ディラン・セカンド→ソロ)が、石村洋子さんという女性と、大阪ナンバに小さな喫茶店を始めました。
その頃、大塚と私は、コンサート会場や、大阪市森小路にあった教会で開かれていたフォーク・スクール等でよく出会い、徐々に親しく付き合うようになっていました。
永井洋(ザ・ディラン→ディラン・セカンド)とも、このフォーク・スクールで出会ったと思います。
大塚と洋子さんが始めた喫茶店に、そんな事もあって、よく出入りする様になったのですが、その喫茶店には、まだ、名前が付いておらず、大塚や私たちが、当時、よくボブ・ディランを聞いていた事もあり、「店の名前をディランにしようや」という事になり、「ディラン」と命名しました。
1970年の始め頃、大阪でもボブ・ディランやザ・バンド、バーズ、ブルース等のレコードのかかる店は珍しく、それと大塚の好みもあったのですが、「ディラン」には音楽の好きな人や(もちろん演奏する人もですが)、詞を書いたりする人、芝居をやっている人、写真家、全国を旅している人、福岡風太の様にコンサートを企画する人が集まる様になり、時々、店が終わった後も、誰かがギターを持って唄を歌ったりしていたのです。
そうこうするうちに、人数も増え、多い時は10人以上の人達がギターやタンバリンを持ち、一緒に歌うようになりました。
アメリカン・フォークソングにフーテナニーと呼ばれる音楽の形態がありますが、ちょうど、そんな感じでした。
これが、「ザ・ディラン」の母体で、そのうち、一人抜け、二人抜けして、残ったのが大塚まさじ、永井洋、それに、私の三人でした。
この頃、大阪のあちこちで、そんなに数は多くなかったとおもうのですが、アマチュア主催のコンサートがあり、時々はそれに呼ばれて、唄う様ようになっていたのですが、この時は、3人で「ザ・ディラン」とのグループ名で出演していました。


★★★★2.脱退の理由
「ザ・ディラン」の頃、学校も卒業し、私はアルバイトをしながらブラブラしていたのですが、大阪福島区の青果市場で働いている時、きつい腰痛になり、ちょっと働くのが無理な状態になったので、三重県の実家に帰り、養生していました。
腰痛も楽になり、「どないしようかな?」と思っている時に、加川良さんが、中津川フォーク・ジャンボリーにバンドと一緒に出演する為、そのリハーサルを私の実家の離れでやる事になりました。
そのレハーサルの音を聞いていたら、又、音楽がやりたくなり、再度、大阪へ向かいました。
「ザ・ディラン」の2人は、私が抜けた間も2人で活動していたのですが、新たにベースのピロを加え活動をしており、彼らの演奏を聞いた時、私の入るスペースはないな、と判断し、私は「ザ・ディラン」を抜け、彼らは「ディラン・セカンド」のグループ名になり、URCレコードよりデビュー・シングル「男らしいってわかるかい」と「プカプカ」のカップリングでシングル盤デビューをしました。
そのうち、ベースのピロが抜け、「ディラン・セカンド」は、大塚まさじと、2人になり活動を続けます。
シングル盤の後、URCレコードから、「ディラン・セカンド」のデビュー・アルバムの話があり、大塚の方から、「アルバム・レコーディングの手伝いをしてくれ」との依頼があり、私は、その立場で、あのデビュー・アルバムには参加しています。
たしか71年の秋と思うのですが、東京のアオイスタジオで録音。
その録音の時、当時キングレコードのディレクターだった三浦光紀さんが、わざわざ私を訪ねてくれて、「soloアルバムを出す時は、いつでも声をかけてください。キングレコードで出しますから・・・。」と言ってくれたのです。
それで、私も72年7月に「ディランにて」でアルバム・デビューをさせてもらったわけです。
大塚や、永井洋とは、今も親しく付き合っていて、2人共、私の一番古くからの友人であり、大塚とは今でも、年4〜5回、一緒にステージに立ちます。
永井洋とも、しばらく空白の時期があったのですが、3〜4年位前から、よく私のLiveを訪ねてくれる様になり、会った時は、よく一緒に飲みます。


★★★★3.70年から76年までの音楽的交友関係