「ビールの歴史は酔っ払い達の談論の歴史」Part-3.イギリスのビール


 上のマネの絵の中に描かれているいくつものお酒の瓶……その中でひときわ目立っているのが、赤い三角形の描かれたラベルの瓶。これは今も同じラベルデザインを守っているイギリスのバス・ペール・エールです。この絵が描かれたのは1882年。ガラス瓶の普及とともに、当時世界中に広まったのが英国産のエールでした。


●グルートからホップへ
 
グルート〜苦味付けの為のハーブ類  
     …タチヤナギ・ニガヨモギ・ネズの実
・ケルンの大司教、グルート権独占
・12世紀初頭、ドイツのヒルデガルデス院長、ホップ添加を試みる
・15世紀にフランダースから英国へホップ導入
・16世紀にケルン大司教、グルート権放棄    

 今ではビールにホップが入っているのは当たり前。これがさわやかな苦味を与え、かつ保存性を高めてくれます。これをビールに加えるという画期的な試みは女性の手によってなされました。ドイツのルプレヒトベルク女子修道院のヒルデカルデス院長がその人です。それまでは、グルートと呼ばれる雑多なハーブ類が使用されていました。当初、ホップは厳しく排斥されました。例えばケルンでは、大司教がグルート権を独り占めして醸造業者に授与することによって利益を上げていました。16世紀になってホップの使用が認められましたが、グルート権を放棄する代わりにホップ使用料を取ることで同意したと言われています。



●エールについて

・1471年までは英国ではホップ禁止
 当時、ビールはホップ、エールはグルート使用と区別
・ネーデルランドからホップの苗木がイギリスのケント州へ
・1482年、ビール業者のみに営業税
・1648年、エール業者、ホップ使用嘆願書提出→ホップ不使用のエールの消滅

 永年にわたってグルートを使用してきた英国では、特にホップを排斥する気運が強かったようです。使用が認められた後も、ホップを添加したものをビール、グルートを添加したものをエールと読んではっきり区別 していました。1648年、ついにロンドンのエール醸造業者団体は、市長にホップ使用を認めるよう嘆願書を出し、17世紀末には、ホップを使用しないエールは殆ど消滅しました。


●リアル・エールについて

・若いエールを生きた酵母とともに樽に詰め、そこで二次発酵させて作るエール。
(樽生として飲まれる)
・地下室で熟成、木樽使用、自然のガス付け
・英国では総量の85%が料飲店、かつ75%が生ビールとして出される。

 英国のエールは上面発酵による香りの強いもので、かつ「真のエール」と呼ばれるためには木樽を使用し炭酸ガスは自然に発生したものであること、とされます。昔ながらの製法にこだわるのは、その殆どが料飲店で飲まれる樽生タイプだからかも知れません。


●ポーターについて

・色は黒色で不透明、高温で焙煎した麦芽を使用しているため辛い上面 酵母使用のため果実香あり。
・1722年ベル醸造所にて最初のポーター誕生(運搬人の意)
・1800年頃ピーク、手工業から大規模製造へ
・19世紀後半、淡色のペールエールに追われ凋落
・世界大戦の間に消滅

 さて、18世紀に一世を風靡したエールとして「ポーター」が有名です。黒色で不透明、高温で焙煎した麦芽を使用。「ポーター」は運搬人を意味しますが、ベル醸造所からエールハウスへと樽を運んできた運搬人が店に到着した時に「ポーター!」と叫んだのが始まりとされています。「ポーター」の大成功が英国のエール製造業を手作りから産業へと躍進させる原動力となりました。折しも産業革命の時代、大規模設備を持つ大量 生産方式が始まったのです。 



●ペール・エールについて

・ポーターに対し、ブロンズ色に輝く澄んだ色のペール・エール(Paleは「淡い」の意)
・1750年半ば、ホジソン醸造所にて製造
・1840年代、バートン醸造所、インドへペール・エールを販売〜大量 のホップ


 エールの代表は「ペール・エール」です。ペールは「淡色」を意味しますが、今も飲まれている「ペール・エール」はどちらかというとピルスナーなどと比べると茶色い色をしていてあまり「淡い色」には見えません。実はこれはその昔に流行したポーターの黒い色に比較して淡色と言っているのです。それまで英国は歴史的にダークカラーと呼ばれる黒ビールタイプが主体でした。ペール・エールに押されるようにしてポーターは市場から消えて行きます。
 ロンドンに本拠地を置いたホジソン醸造所は、ペール・エールを英国の代表的エールへと押し上げました。1760年代にイギリスがインドを実質的に支配するようになると、大量 のエールがインドへと輸出されるようになりました。従って過酷な気候条件に耐えられるように、現在のビールの数倍の量 のホップが添加されたといいます。



●ギネスとスタウト

・1759年、ダブリンに創業
・1770年代、ロンドンポーター、アイルランド市場を圧迫
・1806年、ポーター専業を宣言 →「スタウト・ポーター」発売(スタウトは「強い」の意)  
・1880年の増税→「ドライ・スタウト」 〜アイルランドで飲まれるビールの半分はギネス・ドライ・スタウト


 ロンドン・ポーターはアイルランドのダブリンまで送られ、かつアイルランドの税金は殆ど払わなくて済むという状況から、地域の醸造業を圧迫するようになりました。これに立ち向かったのがダブリンに創業したギネス社です。ギネスはポーターの醸造法を独自に開発し、ポーターよりさらに強い「スタウト・ポーター」を発売します。1880年に増税が行われると、ギネス社はただちに麦芽の一部を大麦に替え、「ドライ・スタウト」を発売しました。未発芽の大麦が粘りのある泡をもたらすようになり、今ではアイルランドで飲まれるビールのほぼ半分が「ドライ・スタウト」となっています。


●インペリアル・スタウト

・1780年「インペリアル・スタウト」(または「ロシアン・スタウト」
 エカテリーナ2世の為に造られたストロング・エール
・今で言うところのバーレイ・ワイン(アルコール度8.4〜10.5%)


 インペリアル・スタウトはバークレイ・パーキンス醸造所によって作られたストロングエールです。これは最初は帝政ロシアの宮廷用に作られたものでした。当時の女帝エカテリーナ2世がこのビールを愛飲したのです。アルコール度数が8.4〜10.5と高い、濃い黒褐色のバーレイ(大麦)・ワインです。


●CAMRA(真のエールを守る会)

・19世紀前半、英国の醸造技術は欧州一
・1879年、パストゥール「ビールの研究」 →酸敗防止における下面 発酵の優位性証明  
 高濃度仕込みとホップ大量添加によるエール醸造法の敗北、ラガーと低温殺菌の時代へ
Campaign for the Maintenance of Real Ale「真のエールを守る会」
 1973年発足 〜酵母の除菌、ガス付け、金属樽を否定 →北アメリカに波及、ブルーパブのリバイバルへ


 19世紀前半までは、英国の醸造技術は欧州一のレベルを誇っていました。比重計やパイプ循環による温度管理など、全て18世紀に英国で特許化されたものです。しかし、パストゥールの登場によりその地位 は逆転します。彼は「ビールの研究」の中で、酸敗の原因が微生物によるものであることを実証すると共に、ミュンヘン生まれの低温貯蔵による下面 発酵は、英国の上面発酵に比べて腐りにくいと証言しています。
 これにより大企業による下面発酵ビールの大量生産が世界各地で行われるようになるのですが、伝統的なエールがパブから消えていくことを憂える人々が、「真のエールを守る会」(CAMRA)を発足させます。先に述べた「木樽使用・ガス付け不可」のエールこそ真のエールであるとするこの運動は成功をおさめ、やがて北アメリカに波及してブルーパブのリバイバル運動を引き起こすことになるのです。


(Part-4.「ドイツ・ヨーロッパのビール」へ続く……)




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