7月


【映画】「ゴジラ」(監督・ギャレス・エドワーズ)
 
なぜか日本を差し置いて5/16に世界61カ国で公開、オープニング週末興業約2億ドルを記録したというヒット作。1998年のハリウッド版「GODZILLA」では、「インディペンデンス・デイ」で圧倒的な戦闘力の宇宙人を描いたローランド・エミリッヒが監督したものの、ミサイルから逃げ回り最後にはあっさり撃退されるかなり期待はずれの扱われ方をされた「GODZILLA」ではありますが、今回の作品の予告を観た限りではかなり期待大、これは1954年版の原点に帰って、放射能汚染の恐怖の象徴としての「怪獣」が描かれるに違いないと思ったのでした。
 1998年の「GODZILLA」は、巨大化しても所詮はトカゲ、という発想が根底にあり、結果として餌におびき寄せられ、繁殖のために産卵し、人間の火力に対しては無力という、まさに弱点だらけで、生物であるが故の限界が強調されてしまったことが敗因だったのでは? 「怪獣」はあくまで人知を「超越」した存在でなければならず、人間共の駆使する通常兵器が通用する様では話にならないのであります。
 さて、今回の「GODZILLA」は、ミサイルなどものともせず、背びれを光らせてアトミック・ブレスを放つという…。しかも舞台に原発が登場し、日本の東日本震災もふまえたリアルな描かれ方をしているらしい…。というわけで、期待はいやが上にも高まるのでした。
 冒頭から前半までは、出色の出来映え。フィリピンで発見される巨大生物の化石、そして原因不明の地震によって崩壊する日本の原発。発電所に勤務するジョー・ブロディはこの事故で妻を失う。その事故の真相を究明すべく息子と共に震災の跡地に侵入するブロディは、放射能がゼロにまで落ちていることを知った後に拘束されるが、そこでは巨大な繭が補足されており、やがてその繭が羽化すると共に、プロディは施設の崩壊により命を落とす。
 その繭から誕生するのはMUTO(Massive Unidentified Terrestrial Organism)と名付けられた甲殻類と爬虫類のハイブリッドのような、長い六本の脚と翼を持つ、放射能を栄養源とする新生物。このMUTOは雄であり、アメリカのネバダ州の放射性廃棄物処理場に保管されていた雌の繭を求めてアメリカへ飛び立つ。それを追ってハワイにGODZILLAが上陸する。それは1950年代に各国が核実験と称して核で攻撃しつづけた結果、逆に巨大化した最強生物だった…。
 ここで少々困惑してしまうのが、放射能を取り込み巨大化して暴れる生物が2種類いて、一方は繁殖により人類を脅かす存在、一方はそれを駆除する存在として役割分担されているところなのであります。人間を翻弄するのはむしろ新生物MUTOの方であり、となるとこれは1954年の「ゴジラ」第一作というより、平成「ガメラ」第一作に近い。初代ゴジラのリメイクと言うより、東宝ゴジラ・シリーズへのオマージュといった印象が強いのです。ちなみに芹沢博士は、名前だけ借りてきたという感じで、「ゴジラ」第一作での悩みながらも自らの命を差し出す天才科学者とは何の関連もなく、ひたすらびっくりした顔をさらすばかりで、この役回りではあまりに渡辺謙さんがお気の毒であります。
 結局核ミサイルの放射能も、GODZILLAの吐くアトミック・ブレスも、あまり人間にとっての脅威としては描かれていない訳で、人間達が大勢いるところからちょっと離れたところで爆発したり敵に向かって放たれたりしても、そんなに影響ないような感じ。冒頭でブロディが涙ながらに原子炉の崩壊を受けて妻を中に残したまま防護壁を閉じるシーンと比べるとかなりギャップを感じてしまうのであります。「ゴジラ」第一作で、泣き叫ぶ子供の前にガイガーカウンターをかざすあたりの印象深いシーンを思い浮かべれば、問題意識にやや差があるのでは…。
 1954年の「ゴジラ」は、同年3月に起きた第五福竜丸の被爆事件の後、11月に公開されました。米国が現在まで第五福竜丸の乗組員達の死に対して「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けており、謝罪も行っていないことを考えると、初代「ゴジラ」のもたらすメッセージは重いし、その根底に流れる批判精神には頭が下がります。その意味では、福島原発事故を受けての新しい「ゴジラ」の登場には意味があると思うし、それは本来なら日本で作られるべきだったと思うのですが…。


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