【映画】クリストファー・ノーラン監督「TENET」
冒頭、キエフ国立オペラ劇場で、今まさに演奏前の音合わせが始まろうとしたその瞬間、突如武装グループが会場を占拠、それと共に特殊部隊が出撃する……。いかにもハリウッド的映画ならではのいきなりの過激な展開に引き込まれるわけですが、誰が主人公なのか、何が起きているのか何の説明もないので、観ている方ははやくも落ちこぼれてしまい、次のシーンで既に主人公らしき人物が処刑されそうになっていて、ますます話が見えず。そもそもこの主人公は最初から最後まで名前が呼ばれない、というなかなか他にない設定がなされているのですが。
このノーラン作品のテーマは「時間の逆行」という、いたってシンプルなもの。十年前の「インセプション」が、「夢の中への侵入」という、これまたシンプルなテーマを、さまざまな法則を設定付けして一気に壮大な映像作品に仕上げられていたように、今回の「TENET」も、唯一「時間の逆行が可能な世界」であることだけを基軸に、独特の映像作品を完成させているのです。しかし、夢の世界の描写が再現できるのも、時間が逆行する世界が披露できるのも、ある意味映画ならでは。単に「逆回し」という、昔から映画の世界では普通にあったテクニックを使っているわけですが、これを漫画や小説で表現されていてもそこまで「面白く」再現できるかどうか。横倒しになった車が起き上がって逆送するシーンなどは、止め絵の積み重ねである漫画で描いてもそれほどインパクトがないような気がします。
しかし、「時間の逆行のみが可能」というシンプルな設定が、実際に映像を追っていくと良く分からなくなるのです。そもそも拳銃を構えると弾丸が戻ってくるって一体……? 時間が逆行している相手が登場してくるともう既に観ているこちらは混乱してしまい、正直なところ、見終わってどうにもよく分からないのでパンフレットを買おうとしたら売り切れで、ネットで色々感想や解説を見て、はじめて「ある登場人物の持っているストラップ」がラストの鍵であったことを知ったという有様です。ゲームに攻略本が必要なように、この映画にもガイドブックが必要だなあというのが正直な感想です。以前なら「映画はそのままの形で作品として全てを語っていなくてはならない」とか固いことを考えていた人間ですが、いや今はもうガイドブック片手に観る映画があっても全然良いではないか、という気分です。
【漫画】TEZUKA2020プロジェクト「ぱいどん」
小林秀雄の「考えるヒント」(文春文庫)という著作の一番冒頭に、「常識」というタイトルの評論がある。そこでポーの作品「メルツェルの将棋差し」に触れ、「チェス指し人形」が実は中味は人間であることを、ポーは常識に基づいて解明してみせると説くくだりがある。「機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入してくれば、機械は為すところを知るまい。これは常識である」と著者は結論付け、コンピュータなどの人工知能はそのような勝負には参加しないだろうと記されている。しかし現在では、実際にA.I.はチェスでも将棋でも自在に対戦することができる。ルールを決めた上で、その範囲内で競うことはA.I.のそもそも得意とするところなのだ。ディープランニングの発想で、ひたすらパターンと経験値を入力すれば、機械はそれなりに判断し選択することも可能になる。
では、人間のオリジナリティにどこまでA.I.が近付けるか……昔は、独創性こそ人間の知性のかなめであり、A.I.は与えられた条件を元に無味乾燥な計算を繰り返すだけで、独創性などには縁がないとされていた。現在はどうか。A.I.は要望に合わせて作曲することも可能だし、俳句だって作ることができるようになっている。ルールを決めてその範囲内で競うことに変わりはない。特に音程の高さと音の長さの組み合わせで作られる音楽などは、芸術の中でもロジックのみで構成できる最たるものだし、五・七・五を基本とする俳句も、無限の計算能力のあるA.I.が有限の組み合わせの中から意味ありげなものを抽出することでかなりのところまで迫ることができる。昔は、肉体労働が機械に取って代わられるとされた。これからは、頭脳労働も機械が次々と担っていくだろう。
音楽も俳句もA.I.に任せられるのなら、漫画はどうか? 手塚治虫がもし生きていたら描いたかも知れない新作漫画をA.I.で再現してみた、という話題の「ぱいどん」を、遅ればせながら読んでみた。実際のところ、紹介されている制作プロセスを見ると、キャラクター設定やシナリオの作成において、A.I.にデータ抽出作業を一部任せてはいるものの、作品作成の殆どを人的作業が負担しているので、これがA.I.による作品とはまだまだ言えないだろうというのが正直なところ。同じ物をパロディ漫画で知られる田中圭一氏が描いてもそれほど違和感はないだろう。なんとなく手塚作品っぽいキャラクターを作って、なんとなく手塚作品っぽいSFを描いてみました、という印象なのである。
データを分析してオリジナリティのある作品を制作すること自体は、もしかしたら将来A.I.にも可能になるかも知れない。オリジナリティは実はパターンと経験の繰り返しの上に成り立っている。ただそれが可能になるかどうかは、A.I.の能力よりも受け入れる側の人間の能力に関わってくるように思われる。
手塚作品の本当に凄いところは、実は大胆不敵なチャレンジ精神にある。「ブラックジャック」が強烈なのは、医師を主人公にして、医学部の知識を最大限に活用して週間連載で短編連作ストーリーを描き続けたところだけではない(それだけでも充分「凄い」が……)。ブラックジャックを無免許医師にして、日本医師会連盟会長を悪役に仕立て、一方で相棒のピノコは人造人間で、世界中を駆け回り、宇宙人までもが登場する大胆な作品世界を展開したところが最大の魅力となっているのだ。専門医師を監修に付けていたら、こんな設定はおそらく不可能だ。「ブラックジャックによろしく」は出せても「ブラックジャック」は出せないだろう。元々「ブラックジャック」の作品連載は、チャンピオンの当時の編集長が数回で終わることを想定して殆どノーチェックでスタートさせた企画で、編集側はこの作品で取り上げられた数々の奇病が本当にあることも知らずに載せていた節がある。作者の大胆さと編集側の放任が奇しくもうまく重なって実現した作品とも言えるのである。
A.I.で手塚治虫に挑むことの本当の難しさは、「ブラックジャック」を専門医師の監修で刊行する難しさに通じる。無免許医師を主人公に設定することを、A.I.ではなく人間側が制限するからだ。いずれ将来的には、A.I.が顧客のそれぞれの嗜好に合わせて自在に物語を組んで提供する時代がやってくるかも知れない。その時提供される物語は、小説であれ漫画であれ、各々の人間にとても心地良い物として受け入れられていくのだろうが、偉大な作家達が作り上げてきた名作の域にまで達することができるかどうかは、正直分からない。A.I.の独創性が人間に及ばないから、ではない。人間自身によるつまらない忖度が、データの入口を、あるいは出口を、堰き止めてしまうおそれがあるからだ。人間の不寛容さは、到底A.I.に及ぶものではないだろう。
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