【漫画/アニメ】山田鐘人/アベツカサ「葬送のフリーレン」
本年9月から放送となった「葬送のフリーレン」のアニメを観て、あれっ、確か「このマンガがすごい2021年」で話題になった時、漫画を買って読んだはずだけどこんな良い話だったっけ、と思わず原作も読み返してしまいました。
勇者ヒンメル、僧侶ハイター、ドワーフのアイゼン、エルフのフリーレンの四人は、人類を脅かす魔王を討伐するために旅立ち、そして見事にその魔王を倒して故郷に帰る……通常の物語とは異なり、メンバーは目的を果たした後、帰郷するところから話が始まります。他の人間のメンバーがこの世を去った後、残されたエルフのフリーレンは、旅を再確認するために再び旅立ち、ハイターが育てた戦災孤児のフェルン、アイゼンの一番弟子のシュタルクと共に北へと向かいます。その間に挿入される回想の中で、既に終わった魔王討伐の旅も少しずつその全体像が明らかにされていく、という、なかなかに意表を突いた、しかし極めて感情移入しやすいストーリー展開が魅力の作品となっています。
原作と比べてみて、セリフを殆ど変えることなく、登場人物達の感情をしっかりと補完する描写だけを加えていく。この丁寧な作り方にまず好感が持てました。たとえば、第二話で、成長したフェルンを連れて今夜にも旅立つように言うハイターに対して、フリーレンが答える場面。あえて涙を流す顔を見せずに、フリーレンの手元だけを映し、次のカットでは、それを隣室で調理をしながら聞いているフェルンがそっと右手を顔に当てて涙を拭うところを後ろ姿だけで見せるのです。この場面を加えることで、その後に続く笑顔で語り合うハイターとフェルンの場面がより愛おしく感じられるのです。あるいは第十二話で、幼い頃魔物に襲われた村を見棄てて一人逃げたことを思い出し悔いるシュタルクのエピソード。二回目の回想シーンで、震えながら木刀を手にする幼いシュタルクの頬にそっと手を添えて「逃げろ」と諭す兄シュトルツの姿を見せることで、土壇場で逃げた卑怯者としての記憶が、剣を抜くことに失敗したヒンメルの逸話と重なり、思い通りにならなかった過去からその先へ進み命を繋いでいこうという前向きなメッセージへと鮮やかに切り替わります。幼いシュタルクが涙を流す場面は真っ正面から描かれますが、それを回想するシュタルクは口元しか見せません。それによって観る者はよりキャラクターの内面へ思いを寄せることになります。
昔はお気に入りの漫画がアニメ化されるたび「原作と違う!」と怒っていましたが、最近では無駄で無意味な改変をせずに、しっかりと原作を踏まえて制作してくれていることが多いので、むしろアニメ化されて逆に作品の真価を知るようなケースが増えてきたように思います。登場人物のセリフを変えたりしなくても、作画と演出によってアニメーション作品はいくらでも質を高め世界を広げることができます。一方で単に自分の読解力が落ちていて、色と音が付かないと頭に入らなくなっているだけなのではないかと、少しばかり反省している次第でもありますが……。
長命のエルフが主人公という設定は、「ポーの一族」や「超人ロック」を思い出させますが、主人公をはじめ主要人物達が皆ある意味「熱く」ならない、というかどこか達観しているところが逆に新しいのかと。思えばだから逆に原作初見では色々と読み飛ばしてしまったのかも知れません。1/8くらいの小さなコマでも見落とすと話が見えなくなるほど丁寧に描かれているので、実は読むのに集中力がいるのです。原作での1ページあたりの凝縮度が高いので、動画で観ることで逆にストーリーに入り込めるようになったと感じています。
そのままではかなわないような高い能力を持つ敵を、努力を積み重ねることで倒す……という、従来のよくある冒険ファンタジーの物語の枠組みを使わず、戦いが終わった後しばらく経ってから、それを振り返る旅に出る……プロットを聞いただけでは、果たしてオチの分かっている話を楽しめるものだろうかと訝しんだものですが、蓋を開けてみると、現在進行形の緩急のある物語に、1/3近い回想が重なることで、登場人物達の行動やセリフがより切実なものに感じられるような仕掛けが施されていて、あらためてよくできた作品だと思い知らされました。苦難に打ち勝って成功する、それは物語の一つの締めくくりにはなるものの、実際の人生は決してそのようなハッピーエンドを迎えるわけではない……物事が成就したその先にも、まだ待ち受けている物がある……あらゆる疫病が克服されたと思っていた矢先にコロナ・ウィルス禍を迎え、戦争の時代は終わったと思った矢先に世界各地での大規模な戦争の勃発を目撃することになった今の時代だからこそ、この作品の根底に流れる哀惜の想いは胸に迫るものがあるのだと思います。
ところで、この世界では「魔族」と「人間・エルフ」とは互いに相容れない存在として描かれています。長命であるエルフのフリーレンは、魔族は人食いの化け物で話し合いはできないと断ずるのですが、短命な人間達は、言葉が通じる相手と何とか和解の道を探ろうとして、前の世代の冒した失敗を繰り返してしまう。そして魔族の中で、人間を知ろうとする者はより多くの人間を殺すことになるのです。人類を研究する魔族の一人は作中でつぶやきます。「共存という思想は危険だ」と。
作中では、人間と魔族は、海の中の魚類であるサメと哺乳類であるクジラの姿が似ているように、収斂進化で外見が似ているに過ぎないという説明がなされ、コミュニケーション手段があっても決してわかり合えない存在であることが示唆されます。
作中で8ページほどの枚数で描かれる、魔族の子供を巡る挿話。村長は村人の娘を食い殺した魔族の子供の庇護を買って出るが、魔族の子供は村長を殺して、自分が食い殺した娘の代わりに村長の娘を差し出そうとする。まさに共感の欠如が、魔族と人間の世界を隔てているのです。しかし考えてみれば、魔物の側も決して争いを求めているわけでもなく、犠牲者の代わりを差し出せば釣り合いが取れるだろうと考えただけで、そこにはそれなりの理屈を通そうとしているわけです。
ゴリラは人間と遺伝的に近い類人猿で、筋肉質の身体をしているものの、実際のところ争いは好みません。しかし、群れからはぐれたオス達は、群れを率いる強いオスではなく、交尾をするために群れの中のまだ幼い子供を狙って殺します。子供を連れたままのメスは発情しないからなのですが、子供を殺されたメスは再び発情期を迎え、この群れにいたのでは自分の子供を守れないと、子供を殺したオスとつがいになる方を選ぶと言われています。いやいや、確かに子孫を残す手段としては、生物学的に極めて理屈に合っていますが、しかし人間世界なら、子供を殺された母親が子供を殺した男のもとへと走るなんて、決して当たり前のことではないでしょう。そこに親子の共感があるからこそ、母親は子供の死を簡単に受け入れられないし、子供を殺した相手を簡単には許しません。「共感」は類人猿に共通した性格の一つのはずですが、遺伝子的に1〜2%しか違わない類人猿でも、ゴリラと人間ではそれほど「共感」に対する感覚も行動も異なるわけです。
この共感を司るオキシトシンというホルモンは、実は人間の排他性と結びついている、そうNHKの番組で紹介されて、なるほどなと思ったことがあります。自分の身を捨てでも仲間を守ろうとする共感性こそが、異質な他者を徹底して排除しようとする人間の行動と結びついているわけです。知性でも肉体でもなく、この共感性こそが、他の人類を根絶させるほどの大集団の結成を可能にしたといわれています。
魔族は人間を捕食するために言葉を習得しています。生物の世界では、花に擬態するハナカマキリのように、あるいはカッコウの托卵のように、相手を騙して命を奪って生き延びることは何ら珍しいことではないし、自然の摂理に逆らってもいません。騙される方が悪い、というより、騙されるという愚かさはそのまま自らの死に繋がっているわけで、その意味で「フリーレン」における魔族と魔法のせめぎ合いの世界は、ファンタジー的な設定に生物学的な摂理を組み込むことで、まさに切羽詰まった妥協を許さない舞台としてこちらに迫ってくるのです。
そこで思い出されるのが、今期Netflixでアニメ版が配信された「PLUTO」です。魔族が言葉を喋って人間に近付いても、それは所詮こちらを欺くためだ、と割り切る「フリーレン」の世界に対して、「PLUTO」におけるロボット達は、殆ど人間と変わらない容姿で、変わらない感情に基づき行動する「人間的な」存在として描かれます。そしてそんなロボット達を、一部の人間達は偽物だとして差別し排除しようとします。
天馬博士は、一緒に食事をしているアトムに向かって「おいしいか」と聞きます。アトムは「おいしいよ」と答えますが、それに対して天馬博士は「飛雄はその料理が大嫌いだった」と答えます。そもそも、アトム自身が、物語の冒頭で自ら告白しています。「マネをしているうちに、わかるような気がしてきたんです。おいしいってことが。人間の言う本当の感覚はわかりませんけど……」アトム自身が、自分の「おいしい」という感覚は人間の感覚を模倣しなぞったものでしかないことを知っているわけで、この後多くの人型ロボットが涙を流しますが、その涙も人為的に仕込まれたものであることが示唆されています。
コンピューターに人間と同じ思考を学ばせるなら、ロジックの積み重ねではなく、ひたすらディープランニングで繰り返しパターンを反復させ定着させれば良い……今や常識となりつつあるAIのラーニング。「AIvs教科書が読めない子供たち」という本にも書かれているように、既に普通の人間は読解力レベルでAIに太刀打ちできなくなりつつあります。コンピュータの技術は限りなく発達し、人間の知能というものがそれほど「神の御業」というほどのものではなくなりつつある中で、ロボットはどこまで人間に近付けるのか、という「アトム」の物語は、既に絵空事の世界ではなくなってきています。
言葉は通じても分かり合えない魔族と人間の世界を描き、「共存を目指すのは危険だ」と警告する「フリーレン」の物語と、人間に近付けられたが故に差別にさらされるロボットと人間の世界を描き、「憎しみではなく共存」を願う「アトム」の物語は、まさに鏡像のような関係にありながら、それでも根底に共通のものが流れているように感じるのです。ヒトの「共感」の感情は、同胞を守ろうとする暖かさと、異物を排除しようとする冷たさの両方に繋がっている……優れた物語は、色々な方向からその両面性を照らし出し、それによって私たちにヒトにまつわる様々なことを気付かせてくれるのです。
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