1月

【書籍】チャールズ・M・シュルツ「スヌーピーの50年」
 この間インターネットで、角川から「ピーナッツブックス」86巻が完全復刻、というニュースを知りました。シュルツ氏が昨年あたまに亡くなってピーナッツが事実上「完結」した以上、新聞掲載順に全てのコミックを掲載した単行本が出ないかな、と常々思っていた私は、もしやと思ったのですが、良く読んでみると前にツル・コミックが刊行し、角川に移ったシリーズがそのまま復刻されるだけみたい。うーんあれは3/4位は持っているし(きっちり全巻揃えて置かなかったことが悔やまれる……)、収録順序はバラバラで全部の作品を網羅してはいないし……。
 などと悩んでいるとこの本が目に留まったのでした。基本的にはコミック1000本をセレクションして紹介しているだけなんですが、それぞれに作者のコメントが付いているのが気に入りました。
 お陰で今まで知らなかったことを多く気付かされました。「ピーナッツ」という作品名は編集者が勝手に付けたもので、作者自身は「チャーリー・ブラウン」をタイトルにしたいと反対したにもかかわらず受け入れられなかったこと、「チャーリー・ブラウン」という名前は作者の同僚で「実に頭が良く、人生に対しとても前向きな、パーティー好きの」人物から取られたこと、80年代後半から四コマ中心から三コマへと変化したのは(私はこれによって相当ピーナッツの世界のドラマ性が「狭く」なってしまったと思っているのですが……)なんと印刷費の関係でスペースが縮小されたせいだったこと、等々。
 「自分の子供達について、私はいつもあまりにも心配でした。ピーナッツに登場する子供達は、いつ車に轢かれるか分からないような歩道の縁に座っているところを描くのはためらわれました……」と述べているところに、シュルツ氏の作家としてというよりむしろ人間としての感受性の豊かさがしのばれます。あのディズニーも、ピノキオを描く時「相手に怪我をさせるようなイメージを避ける」ために尖った鼻の先をあえて丸くするよう指示したといいますが、こういったことは、後から聴けばああなるほどと思う程度かも知れませんが、実際に描く立場になるとなかなかそんな風に思いつくことはできないものです。シュルツ氏のコミックのスタイルはもちろん非常にオリジナリティのあるもので、誰にでも真似できるものではありませんが、それは作品の描線や構図ということだけでなく、作品のあちらこちらに垣間みることのできる作者のやさしさにこそ他人が到達できない境地があるのではないかと思っています。


【映画】J. テイモア「タイタス」
 コリン・ウィルソンの「賢者の石」という作品がある。これは批評家でもあり小説家でもあるウィルソンが「内視力」という意識のみの時間移動能力をモチーフにして書いたSF小説なのだが、その中に主人公がシェイクスピア=ベーコン説を検証するというくだりがあって、そこで作者は登場人物達の口を借りて完全にシェイクスピアをこき下ろしている。曰く、「こんなにひどいものとは思っていませんでしたよ」「シェイクスピアもベーコンも、共にその「人生世界」が殆ど全部、取るに足らぬ些事と否定的な物で成り立っている」……初期作品に至っては「大言壮語の台詞に満ち満ちた手すさびの莫迦莫迦しい芝居『タイタス・アンドロニカス』や『アセンズのタイモン』が大当たりを取ってしまった」とまで言い切っている。
 これらの批判は基本的にはトルストイのシェイクスピア批評をもとにしているようだが、そちらの方は読んでいないので何とも言えない。いずれにしても「大言壮語の台詞まわし」というのはある意味で当たっていて、確かに読んでいてそれほど心地良い物ばかりとはいえないだろう。そもそもが読むことではなく劇場で叫ばれることを想定して書かれているからやたらと説明的で重複も多いし、16世紀末の作品となれば当然時間感覚からして違うから冗長に感じるのも当たり前である。実際、四大悲劇といわれる名作にしても、私自身今読むと普通っぽいストーリーとセリフのしつこさに少々辟易しないこともなかった。
 だがひそかに私がシェイクスピアで最高、と思っているのは、他ならぬウィルソンに「莫迦莫迦しい芝居」と断言された「タイタス・アンドロニカス」「アテネのタイモン」だったりするのである。前者はあたかも行為の残虐さを競うかのような荒々しい惨劇として、後者はただひたすら呪詛の言葉を吐き続ける、スウィフトに先行する人間否定の戯曲として、その非常にシンプルな構造故により衝撃的で、昔から聞き慣れていたハムレットやマクベスの物語と比べても非常に現代的だと思うのだ。
 「タイタス」は、シェイクスピアの中で最も残虐な流血劇と言われている。まさにそう呼ばれているからこそ選んで読んだのだが。ローマの将軍タイタスはゴート族を打ち破り女王タモーラとその三人の息子を捕虜として連れ帰り、嘆願するタモーラを無視し見せしめとしてその長男を切り刻み生け贄とする。タイタスは皇帝に推挙されるが敢えてそれを辞退し先帝の長子を新皇帝としてタモーラ達を引き渡すが、タモーラは復讐を誓い新皇帝に取り入って陰謀をめぐらす。タモーラの残された二人の息子は、皇帝の弟を殺しその罪をタイタスの息子二人に着せて処刑させ、タイタスの一人娘を陵辱し舌と両手を切り落とす。タイタスは復讐のためにただ一人残った息子をゴートへ向かわせローマに対し挙兵、和睦を申し出た皇帝との会食の席で、タイタスは自ら料理人として振る舞い、タモーラの二人の息子を殺して作った料理をタモーラ自身に食べさせた上で刺し殺す……。相手からの復讐に対し復讐で答えていくというこの流血劇は、確かにあまりに救いがない。しかしそれゆえに、鮮烈な視覚的効果を期待できる刺激的な内容ではないだろうか。誓った復讐を直ちに実行に移すタイタスやタモーラは、仇を眼前にしながら延々とうじうじ悩んでいるハムレットや、妻や魔女の言葉に右往左往しっぱなしのマクベスよりも余程行動的だと思うし、レイプした娘をあざけり笑うタモーラの息子達や、差別されたが故に自らの悪を誇りにしているムーア人アーロンの姿も、とても16世紀末に描かれたとは思えぬ程現代的ではないだろうか。
 「アテネのタイモン」は昔NHKのシェイクスピア劇場で映像化されたものを観ているので、後はぜひこの「タイタス」の映像化を……と長年期待していた。おそらくグリーナウェイあたりがぴったりでは、と思っていたのだが。「コックと泥棒、その妻と愛人」は人肉を食わせて復讐するというモチーフがあるし、「ベイビー・オブ・マコン」は子殺しや陵辱の残虐さを執拗に描いているし……もっともある意味、既にそういった形で「タイタス」を分割して映像化しているという言い方すらできそうである。
 所詮舞台では流血劇に深刻さ、リアルさを表現するには限界がある。「タイタス」の主題にはリアルな血しぶきがどうしても必要だ。陵辱され両手を切り落とされたタイタスの娘が、口から鮮血を滴らせて涙するシーンは、映画でこそ可能な衝撃的な表現なのだ。これが舞台なら、女優が黙ってうなだれて立っているだけで、周囲の者たちの嘆きの言葉も空回りするしかない。「リア王」ならともかく、「タイタス」を敢えて舞台で観たいとは思わない。400年の時を経た今、「タイタス」は初めてその真価を発揮できる作品なのだ

 あのミュージカル「ライオンキング」を演出したというテイモアのこの初監督作品は、ある意味期待以上の出来映えだった。台所で兵士の人形と戯れる少年、そこに爆撃が襲いかかり、救出された少年の前に古代ローマの兵士達が重々しく行進してくるオープニング。原作ではその消息が明確ではない、ムーア人アーロンがタモーラに産ませた赤子を抱いた少年が、舞台の外の海辺へと静かに去っていくエンディング。寝不足だったにも関わらず、初めから終わりまで魅力的な映像表現の連続だった。それまでの私にとってのシェイクスピア映画の傑作はロマン・ポランスキー「マクベス」だった。余分なセリフは最小限に抑え、マクベスの見る夢を独特の映像表現で挿入し、マクベスの惨殺に至るまでの過程をリアルな歴史劇のように描いていた。一方テイモアの作品では敢えて歴史的なリアリティを排除し、古代ローマの石の建築物の間をオープンカーが走る超現実的な疑似空間の中で物語を進行させている。それによってあたかも、この劇が古代と現代の両方を舞台としており、いにしえの時代から今に至るまでの普遍的な人間の獣性や執念を単刀直入に描いた物であることを強調しているかのようだ。
 動きや人物の構図が舞台っぽいことや、ほぼ原典の長い台詞をそのまま引用しているところなどは、少々抵抗を感じないこともない。映画なのだからもっとセリフを抑えて、表情や動きで表現しても良いのではないかと思う。そういう意味では物語中盤から舌を切り落とされ喋れなくなるタイタスの娘ラヴィニアが一番存在感があり、アンソニー・ホプキンス演ずるタイタスはやや大仰に喋り過ぎていて、逆にいつもの凄みが足りないような気がしたのだが。もっとも向こうの人達のシェイクスピアの台詞に対するこだわりは、日本人には理解しにくいほど強いものがあるようだ。

 「タイタス」は上演当時こそそれなりに人気があったものの、1594年版の第一・四折本が1904年にスウェーデンの名もない郵便局員の家から発見されるまで、ほぼ300年間の間黙殺されていた。「格調高い」シェイクスピアの作品としてはいささか残忍さに徹し過ぎたからのようだ。刺激的な殺戮や陵辱の映像化は青少年に良からぬ影響を与えるとか、逆に単純に絵的な効果を狙っているだけで深みがないとか、昨今の殺し合いばかりの映像作品に対して批判する声は多いとは思うが、それは今も昔も変わるまい。「バトル・ロワイヤル」のホラー大賞落選にはそういった背景があり、それ故にこの作品はもう少しで黙殺されてしまうところだった。実際に黙殺された作品が他にもあっただろうと思うと、非常に暗鬱とした気持ちになる。しかし人の命も、作家の創作物も、ないよりはあった方が良い。「タイタス」にしても、「バトル・ロワイヤル」にしても。我々が本当に恐れなければならないのは……良識の欠如ではなく、むしろ想像力の欠如なのだ。


【映画】深作欣二「バトル・ロワイヤル」
 以前この本の原作を読んだ時は、ホントに映画化できるのか、年齢ごまかすんじゃないかと思ったものですが、遂に完成しましたね。しかも大入り満員、堂々の興行成績一位。この作品がメジャーであるということがいかにも象徴的だと思うぞ。
 しかも、監督は70才。正直この手の作品は若い人間でないとと思っていたので、かなり不安があったが、荒削りながらも原作のスピード感があまり失われていないのは良かったです。
 なにしろ、これは思想小説ではないし。原作自体、良く書かれているけど何か特別な思想を語っているわけではない。登場人物は、与えられた三日間の中で必死に逃げ回るしかない。不条理をそのまま受け入れてひたすら動くしかない。考えている余裕はないのだ。ただ、走るしかない……。だから原作には非常にスピード感がある。このスピード感が失われてはいけないのであります。
 もちろん、1300枚の小説を二時間の映画にするのだから、かなりの部分が削られていて大味になっているのは否めない。重要な人物である桐山や光子もかなり単純化されているし、三村のエピソードももう少し盛り上げて欲しかったんだけど……三時間とは言わないまでも、二時間半くらいは……。
 その分原作の坂持金発に当たる教師役のビートたけしにはかなり時間を裂いています。原作ではあくまで金八先生のパロディでしかない悪役なのだが(そこが発想の原点であると同時に、例のホラー大賞落選のポイントでもあったのだけど)、映画では子供を憎むと同時に畏れやあこがれも抱いているというやや矛盾を抱えた設定になっています。北野武そのままで演じて欲しいと言われたそうで、これは大人の立場で監督する以上ありそうなこと。でもできれば武田鉄矢にやって欲しかったな。イメージダウンが問題かも知れないが……本人がやっても良いといっても周囲が妨害するだろうけど。
 大味だとは思うけど、子供が殺し合うという一見殺伐な、しかし見事なまでにハートウォーミングなストーリーの作品が映像化され話題となっているというだけでも、正直拍手を送りたい気持ちであります。少なくとも賞の選考委員が考えているよりも、一般人は懐が広いということかな。

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