10月


【書籍】平岡正明「座頭市〜勝新太郎全体論」/渋谷陽一「武がたけしを殺す理由」

 テレビ放映されていたときも、勝新太郎の映画版でいろいろ問題が起きた時も(撮影中に死んじゃったんじゃなかったっけ……うる覚え……)殆ど関心がなくて観ていなかった「座頭市」なんですが、北野武の映画を観てちょっと興味を持って色々と本を探してみました。しかし話題になっている割には本がないなあ。子母沢寛原作とあるけれど、本屋に置いてあるのは「勝海舟」とか別 の作品ばかり。NETで検索しても引っ掛かってこないし。昔なら図書館に行ったり色々と探し回るところなんだれど、面 倒なので「座頭市」関連で検索して引っ掛かってきた物から「座頭市〜勝新太郎全体論」「武がたけしを殺す理由」の二冊を購入したのでした。
  「座頭市〜勝新太郎全体論」は勝新主演の「座頭市」シリーズを最後の映画版まで解説したものですが、その第一番目の作品は「不知火検校」となっています。1960年のこの映画は宇野信夫原作で、勝新演じる盲目の按摩杉の市が、師の「不知火検校」を殺し二代目を襲名、悪行を重ねた上についには捕らえられるというピカレスク・ロマン。1962年の「座頭市物語」と物語として直接の繋がりはないので、これが座頭市映画の第一作というわけではないのでしょうが、「そうか座頭市の前身は悪漢だったのか」となんとなく納得。盲人ながら破壊力を秘めている反逆者、としてのキャラクターの魅力を、「これは使える」と考えた勝新が新たにシリーズ化したのが「座頭市」ということになる訳で……。「座頭市」の本質は悪を倒すヒーローというよりも、自ら闇を抱え込んだ怒れる破壊者。北野武の「座頭市」もその意味では原点回帰と言えましょう。
 勝新は89年の映画の後に、あの「血と骨」梁石日と組んで「不知火検校」を映画化しようとしていたそうです。梁石日脚本の「不知火検校」……うーん、ちょっと観てみたかったですね。
 さて、一方「武がたけしを殺す理由」の方は、「あの夏、いちばん静かな海」以降の各映画作品の12年間にわたるインタビュー集。
 なかなかユニークなタイトルの本だと思います。基本的にヤクザ映画は嫌いなので、北野映画の殆どはテレビ放映されたものをちらちら眺めていた程度なのですが、言われてみると確かに、主演映画では今回の「座頭市」を除くと殆ど最後に死ぬ 役ばかり。その一方で本人自身は大事故に遭ってもしぶとく生き残って作品を作っているからある意味大したもの。 自殺願望とは違うのでしょうが、インタビュー中には結構既成の映画・ドラマのハッピーエンドパターンに反発があるのは確か。「ひとりの女救うために五百人くらい殺しちゃったり……(中略)極悪人だもん、あれ。だからそんなの許さねえっつって」 その意味では「本当の意味での解放は死にしかない」という死生観がベースにあるみたい。今回の「座頭市」もエンターテイメントながらそんなセリフが最後にちょっとあるのですが、破壊者としての座頭市の側面 をちらつかせた部分はやはり一筋縄ではいかないのでした。勝新の「座頭市」はその前身に「不知火検校」という悪の権化がいたわけですが、北野の「座頭市」も元々は相当な悪だったんじゃないかしらと勝手に思ってしまう。インタビュー集の中でも、例えば次のようなセリフに、北野作品の根底に流れている人生観があるような気がして、時々どきりとさせられるのです。
 「うん、なまじね、過去を悔いてね、いい人になろうなんて思った奴は大抵癌かなんかになって死ぬ んだよ」


【映画】北野武「座頭市」

 冒頭、金髪頭の座頭市が街道脇に座り込んでいる。やくざ者達が子供をそそのかして市の傍らにある朱塗りの仕込み杖を盗ませる。子供はあっさりと杖を奪い、盲目の市は片手でいぶかしげに杖の有った場所を探る。そのまま無防備な相手に一気に切りかかればよいものを、やくざ者の頭領らしき男は子供から受け取った仕込み杖を手に近寄り、「いくら居合の達人のお前でも、殺気のないガキの気配は分からなかったようだな」とあざ笑う。その次の瞬間、市は相手の足を蹴り上げ、即座に杖を奪い三人を斬り殺す。
 初めての時代劇ながら、通常の北野作品を超えるヒットとなっているこの作品、全編に渡り「リズム」を最優先した演出が成功しています。バイオレンスのリアリティ、というか一種の肌感覚みたいなものを重視している点では他の作品群と共通 していますが、パンフレットで監督自身が認めている通り、「盲目でありながら無敵」という設定自体がリアリティとは相反するものだし、そこはエンターテイメントに徹した方が良いという割り切りがあったみたい。その意味では、空しく命を失う、もしくは自殺する主人公を乾いたタッチで描いてきた従来の作品とは異なり、時代劇風のご都合主義をあえて最初から最後まで通 しています。悪いやつらは誅され、あだ討ちは果たされ、市は徹底して強い。
 やっぱり比較してみなきゃならないだろうと、映画を観た後レンタルビデオで89年製作の勝新太郎監督・主演の「座頭市」も借りて観ました。オープニングは一見そっくり。勝作品はロゴが赤で、北野作品はロゴが青。賭場での一騒動に始まり、同情すべき人物としての敵方用心棒の登場、最後に悪人達を次々と斬り捨てて去っていく主人公と、大筋や人物配置も共通 するところが多いです。あらためて今回の映画が勝作品を原典として強く意識して作られていたことが分かりました。ちなみに89年は北野武が「その男、凶暴につき」で監督デビューを果 たした年でもあります。
 同じ賭場のシーンでも、映画ならではの広々とした空間が描かれる勝作品に対し、北野作品は規模が縮小され、その意味ではどこかテレビ時代劇的。登場するシーンでは常に卑屈に腰をかがめながらにやにや笑いでその場に入り込み、ここぞというところで凄みをきかせるという点では同じパターンですが、勝の市が賭場で盲目ならではの「ひっかけ」を用いて周囲を翻弄するのに対し、北野の市は相手がいかさまをしたと見破った次の瞬間には相手の腕を切り落とし、暗闇と化した狭い室内の中で賭場にいたほぼ全員を斬り殺してしまう。相手が先に抜いたなら容赦はしない、という信条の勝の市に比べ、先手必勝の非常に直線的でドライなキャラクターとなっていますが、確かに盲目というハンデを考えればその方がより理にかなっているような……。
 浅野忠信演じる妻の薬代のために用心棒となる浪人や、復讐を誓う旅芸人の姉妹は、随所に回想シーンが盛り込まれ、自然と共感できるように配慮されていますが、主人公の市だけが決して自らを語らず、観客を拒絶している、という点も興味深いです。降りしきる雨の中、旅芸人の姉妹が幼い頃惨めに流れ歩いていた頃を思い出しているのに対し、市が回想するのはただ雨の中での死闘のシーンのみ。意外と冗舌で、無邪気なほど開けっ広げに自分の母親の回想を語り、若い女ともよろしくやっている勝の市とはやはり随分と印象が違います。
 それにしても、殺陣シーンは見事。目を閉じたままで演じなければならないというだけでも相当大変なはずなのに、浅草時代のチャンバラ・コントの経験だけでなんであそこまで……。刀で石の灯籠まで切り倒すわ、最後には忍者まで登場するわ、わらじでタップダンスを踊るわと、本格時代劇というにはちょっとエンターテイメントに徹しすぎという気がするけれど、結局鮮やかな太刀さばきが一番強く印象に残ったという点では、観た後凄く得した気分になれましたね。


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