8月


【小説】ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」

 1964年生まれ、元教師で、数学者の父と音楽家の母、美術史研究者の妻を持つダン・ブラウンの小説「天使と悪魔」「ダ・ヴィンチ・コード」を続けざまに読みました。
 なるほど、ベストセラーになるのもうなずける上質なサスペンス。「天使と悪魔」は、主人公の図像学者ラングストンが、いきなり電話で呼び出され、マッハ15で飛ぶ未来型航空機でスイスへと連れていかれるという、かなりぶっとんだ展開で始まる。ガリレオが会員だった人間の理性を讚える組織イルミナティの紋章を焼き付けられた死体が、セルン(欧州原子核研究機構)で発見され、五キロトンの爆発力を持つ反物質の研究材料が盗まれる。それはヴァチカンへと運ばれ、かくして数百年に渡るキリスト教の原理主義と狂信的な科学絶対主義とがイタリアを舞台に真っ向からぶつかり、午前零時の爆発予告へ向けて、主人公とヒロインがそれを阻止すべく走り回る。残虐な暗殺者との攻防というアクションシーンと、ラファエロの墓ベルニーニの建築といったちょっと知的なアイテムとが融合して、一気に最後まで読ませてしまう。
 二作目の「ダ・ヴィンチ・コード」もさらに輪をかけて凝った内容。前作に引き続きラングストンは再び殺人事件に巻き込まれる。ルーブル美術館の中で発見された館長の死体、そこに残された不可思議な暗号の謎に、美術館のシンボルでもある「モナ・リザ」がからみ、館長の娘である暗号学者のソフィーの登場によって、ダ・ヴィンチやニュートンらが会員となっていた「シオン修道会」、カトリックの過激な一派「オプス・デイ」が事件に関係していることが判明する。「岩窟の聖母」「最後の晩餐」といったダ・ヴィンチの作品の持つ謎、シオン修道会が守り続けていた「秘密」……殺人の容疑を受けたラングストンは、友人の宗教学者の助けを借りつつその解明に挑む。
 この二作品の魅力は、最先端の歴史と科学の両方を描きながら、ガリレオ、ニュートン、ダ・ヴィンチ、ラファエロといった有名な歴史上の人物を持ちだしていかにも取っつきやすくしているところ。序文にあえて「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、全て事実に基づいている」と書いてしまうあたりは、作者の作品に対する並々ならぬ 自信が伺えます。普通は「この作品は、作者の虚構に基づく完全なフィクションであり、登場する団体・人物は……」と書くのがお決まりとなっていますから。
 この二作目の「ダ・ヴィンチ・コード」がブレイクし、ロン・ハワード監督により映画化!と本の帯にも書かれている訳ですが、なるほど確かに二作目の作中にもあるように、四十代の学者にしてヨーロッパの歴史と最先端の科学の両方の要素を受け持つ難事件に巻き込まれるラングストンは、まさにハリソン・フォード演じるインディ・ジョーンズのイメージ。それならばいっそ、反物質という仰々しいネタでたった一晩の攻防戦を描いた「天使と悪魔」の方から映画化した方が良いように思うのですが……。


【映画】マイケル・ムーア「華氏911」

 ロシア南部の北オセチア共和国で起きた学校占拠事件は、500名近い死者を出した。その殆どが子供である。テロ側はもともとロシア社会を震撼させることが狙いだったのだから、目的はある意味果 たしたといえるし、プーチン政権側はここまで残虐な相手に対し交渉の余地はないと、これを口実にチェチェン独立運動を潰す方向に動くことができる。どういうことなんだろう。各国のテロ問題を見ていると、そこには正義対悪の戦いではなく、悪対悪の構図しか浮かんで来ないように思える。ある意味当たり前のことなのか。人を殺すこと自体が悪ならば、テロも反テロも同じ悪になる。

 ドキュメンタリー映画でありながら、カンヌ映画祭でのパルムドール受賞、全米拡大公開で第一位 と、話題となった作品。「ボーリング・フォー・コロンバイン」 で銃にまつわる問題を描いたムーア監督は、今回は真っ正面からブッシュ批判を展開している。前回の「ボーリング・フォー・コロンバイン」は必ずしも「銃規制を!」と叫んでいる訳ではなかったが、今回は「ブッシュ反対!」のトーンで押し切っている分、やや連呼型の選挙演説にありがちな押し付けがましさが逆に作品の弱点、というか反対者の批判を招く結果 となっている様子。私の周囲でもあまりこの作品を褒める人はいない。「最後は情に訴えるだけ」「まとまりに欠ける」「笑えない」等々。
 深夜の「虎ノ門」の名物コーナーでも井筒監督が例によって「映画になってない」と批判、この程度ではブッシュ政権は痛くもかゆくもないだろうと発言していた。 一方で、熱狂的なファンもいるらしい。有楽町の劇場では上映終了と同時に拍手をしている人がいた。別 な人も観に行った時同じように拍手する人を見かけたというから、触発された人も少なからずといったところかも知れない。
 私はといえば、拍手をする気にもなれず、さりとて井筒監督みたいに否定する気にもなれず、見終わった後どこか不自然な、居心地の悪さみたいなものを感じていた。
 ある意味色々考えさせられることもあったから、お金出して見に行ったこと自体は十分に元は取れたと思う。日本で現職の総理大臣や天皇を批判する映画とか作れるだろうか。自主規制の大好きな国だからダメと言われなくても誰も手を出しそうにないし、ムリして作ってもあまり観客が入りそうにない。思想的に偏っているとか何とか言って上からも下からも潰されるだろう……と考えてしまう時点で既に失格か? 米国で銃で死ぬ ことや戦争で死ぬことはある意味社会問題だが、日本でそれに相当する問題があるとすれば自殺だろう。何しろ年間三万人という、ベトナム戦死者や米国の銃による年間死傷者を上回る自殺者が出る国なんだから。それを「ボーリング・フォー・コロンバイン」みたいに半分真剣・半分茶化して映画化できたら面 白いんじゃないか? 少なくとも私は面白がるぞ。でもやっぱり「完全自殺マニュアル」出版までが限界のような気がするな……死者の冒涜ってことになって。というかこの国では「死」は「穢れ」だから、話題にすることは「自主規制」されるのだな……。
 そんなことをつらつら考えながらも、どうもすっきりしなかった。 おそらく「現ブッシュ大統領がしょうもないから」ということを言い続けてもあまり本質的な体制批判にはならない。米国一の政治組織を持つブッシュ一族には現大統領の弟ジェブやその息子といった人材が控えているし、ましてや政治を仕切っているのはブッシュ一族だけではないのだから。しかし一方で、政権批判としては手ぬ るいという意見もあまり説得力がない。ジョン・レノンの「イマジン」までが禁止されてしまうほどなのだ。「もっとどんどんやればいい」などと簡単に部外者が言えるほど、アメリカはそこまで言論の自由が許されている国ではないだろう。これはエンターテイメント、と言い切って、ぎりぎりのところで踏みとどまるしかなかったろう。

 いくらムーアが反ブッシュのメッセージを流そうが、もともと親ブッシュの人間はこの映画を観ようとしないから、あまり意味がないではないか、という議論も耳にしたことがある。もしそうなら風刺という行為そのものが無意味になってしまいそうだが、この作品の試みが必ずしも成功しそうにないのはそれが理由ではないだろう。
 冒頭、政治家達が放送前に丹念にメイキャップをしてもらっているシーンが流され、今の政治報道が役者達のパフォーマンスに過ぎないことを示唆しているが、今や我々は世の中で起きている全てのことがパフォーマンスにしか見えなくなっている。というより、パフォーマンスしてくれないと見る気を起こさなくなっているとすら言える。ロシアではチェチェン独立運動に端を発する武装グループによる学校占拠事件が起きているが、嘆き悲しむ人々の生の姿を見ても、意識のどこかで「もっと効果 的に音楽を使うべきだな」とか「ここはもう少し間を置いた方が効果的だな」と思っている自分に気付く。どんなに現実の悲劇が鮮明に生放送されても、人々はもはや動きそうもない。これは単に感覚が麻痺したからではないだろう。映像が力を失ったわけではあるまい。映像自体が関心の対象そのものとなり、鮮明な解像度と音響効果 を追及しつつ、「見たこともないような」新しいワンシーンを見つけようとしている。それが事実か虚構かということは、もはや二次的な興味に過ぎなくなっている。事実と虚構の区別 がつかないというより、その差に意味が見い出せないのだ。「それが事実だったとして、じゃ私にどうしろっていうの」そんな気分が蔓延、定着しているのだ。
 選挙の一票から全てが始まるのは本当だが、一人で二票が出せない以上、一票に留まらざるを得ないのもまた事実だ。私達の世界に対する無力感は多分そこに起因している。手が出せないわけじゃない世界、でもそれでいて手の出しようがない世界。世界に爪痕を残そうとするなら、権力の中枢に食い込んで役者を演じるか、あるいはテロに身を置いて自爆するしかないのか。


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