【映画】シルヴァン・ショメ「ベルヴィル・ランデウブー」
最初は……きわめてノスタルジックな景色から始まります。さびしがりやの坊やのために、おばあちゃんはおもちゃを買ってやったり犬を連れてきたり……そしてある朝、プレゼントされた三輪車を前にして、手を叩いて喜ぶ坊や。と、そこまでは、まあいい。
場面は一転して雨の夜。十年以上は経ったのだろうか、何やら過激なトレーニングにいそしむ二人。まんまるな体をしていた坊やはすっかりやせ細り、足だけが異様に筋肉質。死んだ魚のような目をして無表情に自転車を漕ぎ続ける彼を、おばあちゃんは叱咤激励しながら、自転車の整備と孫のマッサージに余念がない。オイオイ、いくらなんでもちょっとやり過ぎだって!
そしていよいよツール・ド・フランス当日。あれだけトレーニングにいそしんだ彼は、しっかり先頭集団から離れ、あっさりと救護車へ。しかも例の通
り無表情なまま、自らおばあちゃんの整備した自転車を捨てて、車へ乗り込んでしまうのだ。他の選手は息切れ状態で倒れているところを運び込まれたというのに、おまえ根性なさ過ぎだよ〜!
実はこの救護車はニセモノで、マフィアが賭博競技のために選手を誘拐していたのであります。かくしておばあちゃんはさらわれた孫を追いかけて巨大都市ベルヴィルへ。同じ年にアカデミー賞を競った「ファインディング・ニモ」と同じような展開なんだけど、ニモとその父親のマーリンがあれだけ冗舌だったのに対し、このおばあちゃんと孫は殆ど一言も喋らない。魚のニモは人間以上に表情豊かだったけれど、この物語の孫はサカナ以上に無表情と来ているし……。死が迫っていても顔色一つ変えないし、おばあちゃんと再会してもそれほど喜んでいるようにも見えない。いやはやなんとも。
さてさて、いよいよ人さらいの親玉、マフィアのボスの登場と相成るのだけど、これが丸いメガネに丸い鼻の小男で、ベレー帽なんかかぶっちゃってて、まるで手塚治虫の懐かしの自画像。こいつがまたずっとつならなそうな、やる気のない顔をしているのだ。指先一つで銃を持った大勢の部下を自在に操れるのに、人生に疲れ切っていて、眉間にしわをよせながらワインをテイスティングしたりしているという……。そうだよなあ、そういや今までの悪役って皆威勢が良すぎた。観客をあおるために憎まれ口を叩きすぎた。本当の悪役ってこんな感じで生きているんじゃないかなあ。今さらこうやっていくしかないじゃないかと開き直ってて。
おばあちゃんはベルヴィルで巡り合った三人姉妹の老婆の協力を得て、マフィアの本拠地へと乗り込んで行くんだけれど、この三人姉妹がまたマクベスの魔女よろしくひとくせもふたくせもあるキャラクターなのだ。かつての有名な歌姫達が、落ちぶれて娼家かなんかに住んでいる訳なんだけど、とにかく食うものにも事欠く状態。で、どうするかっていうと、沼へ出掛けていっておもむろに手榴弾を投げ込んだりして。爆発で吹き飛ばされたカエル達を持ち帰って料理するのだ。おかげでその沼地には、片輪になったカエル達がたむろしているという有様。三人姉妹の部屋に厄介になっているおばあちゃんも、さすがにこの夕食にはなじめず、スープの中で生き延びていたカエルをこっそり逃がしてやったりする。このカエルがまた、助かったと思ったら次の瞬間にはあっさり列車にはねられたりしていて……そこら辺の描写
は容赦がないのでありました。
筋書きだけ追えば、さらわれた孫を助け出すおばあちゃんの心温まる冒険活劇……なんだけどコトはそれほど単純ではないわけで。でもだからといって、都会からはじき出された虐げられた人々の悲哀を描いている……というほど悲惨でもない。決して元気一杯とは言えないかも知れないけれど、どこかしたたかで、しかもノリが良いキャラクター達は、日本やアメリカのアニメにはないリアルさを持っているように思います。とことんデフォルメされているのに、表情は控えめ、というのはヨーロッパの作品ならではですね。アニメーションであるかどうかを抜きにしても、2004年に観た映画のベスト・ワンかも。
【映画】ブルーノ・ボツェット「ネオ・ファンタジア」
二十年以上、ずっと観たいと思っていた作品です。確か日本公開はまた私が高校生の頃。テレビで一部が紹介されていて、結局劇場公開を見逃したものの、その内容について当時学校の漫画研究会の中でも話題になっていたような記憶があります。その後レーザーディスクが発売されたのだけれど、当時はプレーヤーなんか持ってないものだからどうしようもない。その後しばらくして廃盤、レーザーディスク対応のDVDプレーヤーを購入した時には既に入手できない状態でした。というわけで、大御所ディズニーの「ファンタジア」同様、クラシック音楽にアニメーションを組みあわせたこの作品、今回の東京都写
真美術館でのイタリア・アニメーションフェスティバルで公開されると聞き及び、急ぎ映画館へと向かったのでありました。
オープニングはモノクロの実写映像で始まります。アニメと音楽の融合が初めての試みであると力説する司会者、むりやり演奏者として集められる老婆達、囚人のこどく扱われるアニメーターに、鼻持ちならない指揮者の登場と、しょっぱなからディズニーの「ファンタジア」に対するアンチテーゼ。著名な指揮者ストコフスキーを迎えて、スマートなシルエットで始まる「ファンタジア」とはことごとく逆を行くわけです。
アダルトなテイストのドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、ドボルザーク「スラブ舞曲」に続いて、ラベルの「ボレロ」。本家「ファンタジア」では、ストラビンスキー「春の祭典」をバックに地球生物の進化が描かれましたが、こちらでは何とコカコーラの瓶の中に残された液体から摩訶不思議な生命体が進化していくのです。全く架空の生物達だから、その姿は変幻自在。極彩
色の生命体達が次第に増殖していく様が、同じ主題があらゆる楽器で変奏されてダイナミックになっていくラベルの音楽と完全に一体化していました。
続く第4曲はシベリウス「悲しきワルツ」。「猫の回想」というタイトルで紹介されていたと思うのですが、廃虚となったアパートの中で、痩せこけて目だけが異様に大きくなった一匹の猫が、悲しげな表情で幸せだった日々を幻視する……。この部分だけ取りだしても一つの傑作短編として十分に通
用する力作で、部分的にはテレビで何度か紹介されているのですが、今回通して観ることができて非常にラッキーでした。
それぞれの曲の間には、モノクロ実写映像が挿入され、演奏者達の舞台裏が並行して描かれます。その部分は正直な話ややくどくて、この「猫の回想」の作品の後にも、しんみりとした余韻も冷めやらぬ
まま、おいおいと泣いている老婆達とそれに対して不機嫌に悪態をつく指揮者の姿が画面
に出てくるのがちょっと興ざめ。とはいうものの、これがヨーロッパのアニメ作品の持つある種ドライなテイストなのかも知れませんが。
この後公園で転げ回る迷惑な人間のカップルに翻弄されるミツバチを描いたヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲」、アダムとイブを誘惑しようとして失敗するヘビを描いたストラビンスキー「火の鳥」と続くわけなんですが、それぞれスタイルの異なる短編連作でありながら、共通
しているのはどこか覚めた視点、集団の喧騒に入っていけない、というよりつまはじきされた存在に焦点が当てられていることでしょうか。本家「ファンタジア」においては、徹頭徹尾登場人物達は楽しげに歌い、踊っています。もっともダークな表現である「禿山の一夜」のシーンですら、魔物達は無我夢中で踊り回っているほどで。でも「ネオ・ファンタジア」では、ついに女性達の中に受け入れてはもらえない牧神、独りぼっちの猫、逃げ回る一匹のハチ、企てに失敗するヘビと、作品のトーンは違えどどこか孤独なイメージが付きまとうのです。
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