「短編小説」のコーナー

「短編小説/列車」



 大学から帰る途中、偶然同級生の佐藤と会った。同じ小田急線で帰ることを知っていたので、別に親しい仲でもなかったのだが、一緒に電車に乗ることにした。
 下北沢で小田原行きの急行列車に乗り換えた。彼は列車に乗り込むとそのまま前の車両へと進んで行った。成る程前の方が比較的空いていることは間違いない。今は午後三時半。まだ混雑しているとは言いがたい時間だったが、座席は学生や主婦で殆ど埋まっていた。隣の車両へと次々と進むうち、ついに一番前の車両に来た。彼はその車両のさらに一番前、運転席の見える前方を向いた窓の前に立つと、やっと落ちついた様子で、組んだ腕をガラス窓の下の取っ手に乗せた。
 しばらくそのまま隣りに立っていたが、二駅ほど通り過ぎたところで数人が座席から腰を上げて列車を降りて行った。席が空いたから座ろうと彼を促す。しかし、彼はただ笑って見せただけで、その場を動こうとはしなかった。
「別に座りたければ座ってもいいですよ。僕はここにいるから」
 彼はそう言うと、またまっすぐと前を向き、列車の向かう方の風景に目を移した。
「電車に乗る時はいつもここに立って前を眺めているのかい?」
「うん」
「そんなに景色を眺めるのが面白いのかな?」
「そうですね。目の体操にもなるし」
 殆ど前方に視線を固定したまま、しれっとした口調で彼は答えた。
 佐藤弘は教室でもどちらかというと目立たない、いつも静かに笑っている、といった風情の男だった。背が低く、髪はいつも寝癖がついたままで、牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけている。誰に対しても丁寧語を使うので、かえって近寄りがたい雰囲気があった。人が良さそうにも見えるし、毎日が退屈でしょうがないと思っているようにも見えた。他人には逆らわない主義のようだが、自分から何かを率先してやるというタイプでもなかった。
 いつも退屈そうにしている彼が、電車の一番前の車両に立って前を眺めているこの時だけは、どことなく楽しそうに見えた。少々不思議な感じもしたが、もしかすると実は子供っぽい男なのかも知れないなと思った。自分が電車の窓から外を眺めるのに熱中していたのはせいぜい十年ぐらい前迄だろう。
 それにしても熱心なことだ。こちらへ向かってくる景色のひとこまひとこまを残らず見逃すまいと、細い目をさらに細くしてじっと前を見つめている。
 たまにこちらから話しかけ、相手がそれにぽつりぽつりと答えた。そして二十分ほどが過ぎた。
「俺は本厚木までいくけど、佐藤は何処で降りる?」
「千歳船橋」
「えっ? だってもうすぐ町田だぜ? とっくに通り過ぎてるじゃんか!」
「終点から引き返せばいいんです」
「……ひょっとして毎日こうしてるわけ?」
「ええまあ」
 妙な男もいたものである。毎日学校の帰りに用もなく自宅の駅を通り過ぎて終点まで行って、ただ帰って来るなんて。それも同じ景色を眺めるためだけに。
「住宅街や商店街の中を線路が走っているだけだぜ。そんなに飽きの来ない眺めとも思えないが」
「そうですか。でも結構スリルあると思うんですけど。何というか、スピード感を楽しめるというか……」
 彼は口元に笑みを浮かべたまま相変わらず前を見続けていた。
「こうしてぼんやりとただ景色を眺めるのも精神衛生上良いことだと思ってるんですけどね。学校と自宅の往復だけでは息が詰まるでしょう」
「そうかあ。世の中もっと面白い事があると思うけどなあ」
「そうでしょうか」
「何か部活とかやってないの?」
「別に興味ないし。うるさいの苦手で」
「映画に行ったり、飲みに行ったりとかは?」
「映画なら家でテレビを見ればいいし、酒なら自宅で飲んだ方が安上がりでしょう。どっちも大して興味ないけど」
「退屈な人生なんだね。今まで何も楽しいことなんか無かったわけだ」
「何か楽しい思い出なんてあるんですか?」
「少なくとも電車の窓から景色を眺めることより面白いことならいくらでもな」
「楽しい思い出なんて生まれてこの方一つもないなあ」
 面白くない男と一緒になってしまったなと少々後悔したが、彼はしばらく間を置いて、こう喋り始めた。
「まあ、強いて言えば、一つだけ忘れられない出来事があるんです。中学・高校のことは、同級生の顔すら良く覚えていない程度だけど、あれは都立高校の合格発表の日だった……。 あの時は、そう、わざわざ高田馬場にある学校まで出かけていったその帰りだったっけ。高田馬場から山手線で新宿へ、そして新宿で小田急線の急行に乗り換えたんです。たまたま列車の一番前で、丁度こんな風に前の見える窓から景色を眺めていたんですけどね。普通なら下北沢で普通列車に乗り換えて千歳船橋で降りるんだけど、その日はどういう訳かそうしなかった。合格するのは分かっていたから、何の感慨も無かったんだけど、何て言うかちょっとした解放感みたいなものがあったんでしょうね。いいやどうせ暇なんだからこのまましばらく乗っていようと思ったんです。何の気なしにね。ほんと、これといった理由もなく。
 今思うと何か予感のような物があったのかも知れない。ほんと、そんなことする必要は全然なかったんですからね。まして僕は、無駄なこととか単なる暇つぶしとか全くやらない人間でしたから。そんなことをした事はそれまで一度もなかった。不思議なものです。
 僕はぼんやりと外の景色が変わっていくのを眺めていました。何処で降りようという考えすらなかったんです。あのまま何も起きなかったら、終点までただぼんやりと乗っているところだったんでしょうか。
 やがて電車が町田駅へさしかかろうとした時……そうですね、玉川学園前の前か後か、確かその当たり。列車が少しカーブを描いて進んでいました。ぼんやりと前に伸びている線路を眺めているとですね、線路の上、これから列車が進もうとする二本のレールの間に、木の棒か何かが真っ直ぐ立っているのが見えたんですよ。一瞬おやと思いました。このままじゃあれにぶつかっちゃうぞってね。その頃から目が悪かったんで何が立っているのかすぐには分かりませんでした。僕の隣りに立っていた男の人もそれに気付いて、『危ない!』と声を上げたのでやっと分かったんですよ。それが棒なんかじゃなく、茶色い背広を着た男の人が、横を向いて立っていたのだという事がね。
 運転手は急ブレーキをかけた様でしたが、間に合いませんでした。一直線のコースだったら早くから気付いて止めることも出来たんでしょうが、緩やかな曲がり角だったんで避けようがなかったんですね。どんっ、というか、ずしん、というか、とにかく衝突した時にはそんな響きを体で感じました。人間の体って意外と重たいのかも知れませんね。軽く吹っ飛ばしてしまうのではと思っていたけれど、その時はかなり車両が揺れたんでびっくりしました」
 彼はそう言ってちらりとこちらを見た。まるで今その自殺を目撃したばかりだとでもいうように、その目はうるみを帯び、声はうわずっていた。
「列車はその人をひいた後、その場に停車しました。すぐに死体の後片付けが始まったんです。手際が良かったですね。車内はそろそろラッシュが始まろうかという時間で、結構混雑していましたけど、乗客達はしきりに不満をもらしていましたね。『自殺だって?』『よりにもよってこんな時に!』『全く迷惑な話だ! このままじゃ遅れてしまう』てな具合にね。本当、人間なんて冷たいものですよ。人が死んだっていうのに、他人の反応なんてそんなもんです。僕はむしろそっちの方がショックでしたね。人命は尊重されなくてはならないと思っていましたから。自殺をするからにはきっとそれなりの理由があるんでしょうから、それが良いとか悪いとか言えないと思うんですけど、少なくとも人は他人の死を軽くあしらっちゃいけないと思うんですよ。人一人死んだっていうのに、遅刻することぐらい何だと言うんです? ねえ?
 後始末の間、ずっと車内に閉じこめられていたんで、横からちらりと、ほんの少しだけ、白いシーツに隠された死体が線路の脇に置かれているのを見ることが出来ました。血は思っていたほど飛び散ってはいないようでしたけど、単に良く見えなかっただけかも知れません。だから視覚的な印象は薄いんです。死体をこの目で見たと言えるほどにはね。でも、列車がぶち当たるまで棒のようにじっと立ちつくしていた人間の姿と、あの衝突の時の体に響くようなずしん、という音だけは、一生忘れられないと思いました。こんな体験、人間か自殺するのをこんなに間近に目撃するなんていう体験はそう何度もあるものじゃあない。
 やがて列車はゆっくりと走り出し、そのまま次の町田駅まで行ったので、僕はさっそくそこで降りて、先頭車両の真ん前に何か血痕の後でも見られないかと思って覗いてみたんですが、十分に拭き取ったものと見えてそれらしい跡は全く見られませんでした。ひどくがっかりしたものですが、まあ一瞬人間がぶつかったくらいなら、そんなに血があたりに飛び散ったりはしないものなのかも知れませんがね」
 彼は何かを思い出そうとでもするかのように、ふと目を閉じてうつむき加減になったが、気を抜いてはならぬとでもいうように、またすぐに前を向いて景色を眺めることに神経を集中し始めた。
「……結局何だか恐くなってその時はそのまま家に引き返したんですけど、あんなに気持ちが高ぶったことは後にも先にもないだろうな。もしあの死んだ男の人が有名人か何かだったら、目撃者としてインタビューかなんか受けることになるのかな、その時は自分の感じたことをありのままに話してやろう、なんて思ったりもしましたよ。あの光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。僕にとって自殺を目撃した事は一番衝撃的な思い出です。しかもそれを、何の用もないのに町田くんだりまで電車に乗っていた時に目撃したなんてね。まるで僕がその自殺者に無意識に招かれたみたいな気がして……。今思い出してもぞくぞくする。わかります? こんな気持ち」
 彼は笑い顔とも泣き顔ともつかないような表情を浮かべて、ちらりとこちらを向いた。しかしその視線は、すぐに列車の進行方向へと戻された。
「命の重さなんて分かるとは言わないけど、少なくとも僕にとっては、あの人と列車がぶつかった時の大きな振動、あれが命の重みそのものだと思ってますよ。我ながら貴重な体験をしたなあと……。それまでいろんな本を読んだり映画を観たりしていたけれど、あの体験で初めてそれを実感しました。あの感じ、そう、あのずんと来る感じ……。他の人は何も感じなかったのかな、あの時同じ車両にいた人達は。感受性が鈍いのか、それとも僕と同じ様な感銘を受けてもそれを表に出さなかっただけなのか。
 とにかく、それ以来ですね。僕は必ず列車の一番前の、この今立っている位置で、列車が向かう先の景色を見つめるようになったんです。大袈裟かも知れないけど、人生に対する考え方が変わったと言ってもいい。それまでは死んじゃってもいいやぐらいに思っていました。今は自殺は自分でやるものじゃないと思ってます。あれはやるものじゃない。見るものだ」
 彼の口元がすこしはにかんだようにゆがんだ。
「僕はまたあれが見たい」
 彼はそう言い切ると、じっと前を見つめた。迫ってくる景色の一瞬たりとも見逃すまいという熱心さで。(完)

◆次の短編作品「天使の翼」に進む。
◆「短編小説」のコーナーへ戻る。
◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉作品集紹介」のコーナーへ。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。