「短編小説」のコーナー

「短編小説/天使の翼」



 ある総合病院の一室で、医師と数名の看護婦が、苦痛のために身をよじっている一つの人体と格闘していた。泣き叫ぶ女の顔を横目で眺めながら、医師はマスクを通したこもった声で冷静に話しかける。
「はい、大丈夫、大丈夫……大きく息を吐いて……さあ、あともう少し……」
 しかし患者は何も耳に入らないらしく、ただひたすらわめき続けていた。真剣な眼差しで患者の股間を見つめている看護婦達。
「よし、もう少しだ! 頑張れ!」
 血と羊水の入り交じったなま温かい液体が流れ出し、ようやく赤児の頭が内蔵から顔を出した。それを手慣れた看護婦がやさしく手に包み、ゆっくりと這い出してくるのを手伝ってやる。
「きゃあっ!」
「こ、これは……」
 それは昭和五十年七月のある蒸し暑い昼下がりのことだった。今ここに新しい生命が産声を上げたが、それと同時に、看護婦達も悲鳴を上げた。
 赤子の父親となる男は、病室の外でいらいらしながら事の終わるのを待っていた。いよいよ自分も父親となるわけだが、どうも今一つ実感が湧かない。父親、父親か……やれやれ。楽しみといえば楽しみでもあるのだが、漠然と不安でもある。男だからな……。男なんだから仕方がない。ぴんとこないのも当たり前だ。何はともあれ、しっかりしなくちゃな。家族を養うことになるのだから。生まれてくるのは男の子だろうか、女の子だろうか……。扱いやすい大人しい子供だと助かるがな。女房の奴は五体満足であればいいじゃないのと楽観的だが、世の中そうも行くまい。あいつは呑気な奴だから、子供はみんな天使だから、などと思っているようだが、教師をしているこの俺はどうしようもない性悪なガキどもを沢山見てきているんだ……。
 だが、確かに……生まれてくる子は……まずはまともであって欲しい……。もしも障害を持って生まれてきたりしたら後々地獄だ。最近流行ってるしな……。この間、サリドマイド児の子供のいる家族の話をテレビでやっていたっけ……。あれは胃腸薬かなんかが原因だとか言っていたな……。あんな番組、見なきゃ良かった。感動的な親子愛の物語、といえば聞こえはいいが、あんな事はよその家で起こって欲しい。俺達の所ではまっぴらごめんだ。
 病室の中から、生まれたばかりの赤子の泣き声が聞こえてきた。あ、来たな……。ついに……。泣いている、ということは、とりあえずは無事に生まれたという事か。彼が戸惑っていると、中から手袋を血に染めた中年の医師が顔を出した。
「あ、先生……あの、あの……うちの奴は……」
 医師は眼鏡をかけた面長の顔をちらと彼の方に向けた。その暗い、異様に疲れた表情から、彼は何かまずい事が起きたことを直感した。
「先生、何か、何か問題でも……」
「最初に言っておきます。奥さんは無事です。何も心配はありません」
「子供はどうなんです!」
「お子さんは、その……男の子でした。命に別状はありません。ありませんが、しかし……」
「……どういうことです」
「我々もこういうケースは初めてなので、少々まごついている次第でして……とりあえず…御覧になりますか?」
 御覧になりますもなにも俺の子じゃないか。一体何だというのだ。不安は次第に苛立ちと恐怖に変わっていった。彼の頭の中にあの三本指のサリドマイド児の映像が浮かび上がって来た。

「これをどう思われます?」
 どう思われますかだって? 聞きたいのはこっちじゃないか!一体、これは何なんだ? どうしてこんな事になったんだ?
 そこにはまだ体のあちこちに血がこびりついている生まれたばかりの赤ん坊が、口だけを大きくぱくぱくさせながら、うつ伏せになって小さな手足をばたつかせていた。そのすさまじい泣き声は、文字通り健康な新生児そのものだった。
    だがあきらかにそれは普通の赤ん坊とは違っていたのだ。赤ん坊が泣きながらせわしくばたつかせていたのは小さな手足だけではなかった。赤ん坊の背中の部分は大きく盛り上がり、そこにもう一対の腕の様な物が生えていたのだ。くの字型に曲がったそれは、色の薄い髪の毛のような物に覆われており、そこだけが全く別の生き物のように、しっかりと規則正しく運動していた。それはまともに生えている両腕よりも大きくたくましかった。
「これは……これは一体何ですか!」
 最初彼は、昔図鑑で見たシャム双生児の出来損ないを思い出した。体から全く別の手足が生えてきている奇形児である。しかしそうではないらしい。この赤ん坊の背中から生えている物は、明らかに人間の腕や脚とは違っていた。
「とりあえず……調べさせて下さい。今の所生命に危険はないようです。レントゲン写真の現像が終わりましたら、すぐお呼び致しますので……」
 中年の医師はそう言って額の汗を拭った。調べて……調べてどうすると言うんだ。奇形児として生まれてしまった目の前の我が子を見ているうちに、彼の心の中に言い様のないあせりがこみ上げてきた。
「私の妻は、このことを……」
「まだ正確には話しておりません。赤ちゃんも無事でした、としか……。いきなり動揺させては、と思いましたし、こういう事は夫であるあなたからの方が……」
 なんだよそれ、責任逃れかよ……。夫である俺だから何かましな言い方でもできるっていうのか? 俺のせいじゃないぞ、絶対、俺のせいなんかじゃ……。
 数時間後、彼は小さな木の机を隔てて二人の医師と向かい合って座っていた。別に何も悪いことをしたわけでもないのに、なんだかひどく惨めな気持ちだった。相手の医師達が妙に冷静で堂々としているのにも腹が立った。
「これがお子さんのレントゲン写真です。前からと、横からと……。医療技術は年々進歩していましてね……。近い将来、生まれてくる子供がどんな状態であるかを、まだ子宮にいる間に正確に把握できるようになるでしょう。そうしたらこういった事態も事前に対策が打てるようになる筈です……」
 先程の、血のついた手袋をしていた中年の医師がもぞもぞと喋り始めた。彼の目の前にぼやけた骨の写った写真が数枚並べられた。
「結論から言いましょう」隣にいた若い医師が口を開いた。「お子さんの背中から生えていたのは驚くべき事に鳥の翼なんです。これを御覧下さい」
 彼は差し出された写真を受け取った。何が写っているのか良くわからなかった。
「これはどう見ても鳥類の肩羽なんです。初め見たときは全体が血で濡れていたんでわからなかったんですが… ほら、生まれたばかりのひよこも前肢をばたつかせているけれど、まだ濡れていて翼には見えないでしょう? あれと同じですよ! よくよく調べてみると、肩羽、小翼羽、風切羽みんな揃っている! 全く不思議だ!」
 若い医師は目を輝かせて喋り続けた。何がそんなにうれしいのだろう。俺の子に鳥の翼がついているのがそんなに素晴らしい事だとでも言うのか? 
「それともう一つ、この羽根の回りの背中の肉が異様に盛り上がっているでしょう? その分、こころなしか両腕の筋肉は小さくなっている。普通、人間の腕に大きな鳥の羽を取り付けてやっても空は飛べません。羽ばたいて宙に浮くだけの筋力がないからです。鳥にはそれだけの筋肉が備わっているんです。ところでこの子の場合はというと、翼筋に相当する部分が全部揃っている! 肋骨も幅広くなっていて、鳥類ほどは骨格が特殊化してはいないものの、訓練次第ではある程度の飛行能力を身につけられるような構造になっているんです!」
「君、馬鹿なことを言っちゃいかん」もう一人の年輩の医師がたしなめた。「そこまではわからんよ。あれは突然変異で、鳥の翼そのものではない」
「生物の進化は突然変異がきっかけになると言われています。考えても見て下さい。爬虫類が鳥類へ進化したのは何故か? 他でもない、生物が空を飛ぶことを望んだ結果です。人類が航空機を発明したのは何故か? 我々が飛ぶことを望んだからですよ! 人間が飛べるように進化することだって考えられない事じゃあない!」
「いい加減にしたまえ! 少しはご両親の気持ちも考えろ! 背中に羽根を生やしたままで暮らしていけると思うのか? 満足に服を着ることだってできないんだぞ! ……失礼しました、話を続けましょう」年輩の医師はゆっくりと彼の方を向いた。「これは非常に珍しいケースですから、彼でなくてもあなたのお子さんを徹底的に調べてみたいと考える研究者は多いでしょう。私だって大いに興味があります。しかし、医師にとってはまず患者を直すことが第一の義務であると心得ています。赤ん坊を相手に人体実験をするような真似はしたくありません。さっそくですが、背中の突起を取り除く手術をしたいと思います。何分まだ生まれたばかりですから、今すぐにという訳にはいきませんが……」
「できるだけ後にしましょう」若い医師はしつこく食い下がった。「生後3ヶ月であの翼の形状がどう変化するかぜひ観察したいのです」
 彼は何と答えていいのかわからずただ黙っていた。ただ一つ、彼の考えていたことは、どうしたらこのことを他人に知られずに済ませられるだろうかということだけだった。奇形児の子を持った親などと陰口を叩かれるのはまっぴらだった。
「どうか……このことは……ご内密に……」
「は? あ、ああ、勿論です」
「手術については……私には専門的な事はわかりませんので、ご判断はおまかせします……息子……が助かるのであれば、私としては何も言うことはありません」
「最善を尽くします。お子さんの健康状態についてしばらく観察を続けた後で、手術の日程と費用とのご相談を……」
 費用? 俺が払うのか? 息子を実験台に欲しいなどと言っておきながら……。何もかもが腹立たしかった。何でよりによってあんな奴が俺の所に……。こればっかりはしょうがないのだろうが……。やっぱり腹が立つ。しょうがないからこそ腹立たしいのだ。何か事前にやりようがあったのならともかく……。

「気分は落ち着いたかい?」
 彼はベッドに横たわりぼんやりと天井を眺めている妻を見下ろして話しかけた。
「あなた……夢を見てたわ。私の可愛い、可愛い天使の夢よ……。私は柔らかいほっぺをした赤ちゃんを抱きしめて、雲の上を飛んでいるのよ……」
 天使ねえ、物は言いようだぜ。当たらずとも遠からず……。思わず彼の顔に皮肉な笑みが浮かんだ。
「私の赤ちゃんは? 看護婦さんが連れて行ったきり誰も見せてもくれないの」
「大丈夫。僕は一足先に見せてもらったよ」
「早く会いたいわ」
 後悔するぜ! そう彼は頭の中で悪態をついた。気持ちがすさんでいるせいか、どうも他人に対して優しい気持ちになれない。
「ちょっと調べなきゃならないことがあってね。大丈夫、すぐ会えるさ」
「あたしの産んだ子よ。どうして今会えないの?」
「ちょっと問題があってね。どうだろう、2、3ヶ月位待てないかな?」
「冗談でしょう? 何か、何かあったのね?」
「ちょっと訳があって、手術をしなくちゃならない。なに、心配はいらないさ。今だって十分元気なんだ、だから……」
「十分元気なら何故手術が必要なの? あなたの言っている事、さっぱりわからないわ」
「君は良く、生まれる筈の子供のことを、私の天使ちゃん、と呼んでいたよね。まあ、その甲斐あって本当に天使の男の子が産まれたという訳さ」
「何ですって?」
「要するに、お子さんの背中には羽根のような突起物があるんです」例の年輩の医師が部屋に入ってくるなりいきなり話しかけてきた。「日常生活にもかなり影響があると思われますので、切除手術を検討しているところなんです」
 彼の妻はすぐには何も言わなかった。しかし、それほど取り乱した様子もなかった。しばらくの間考え込んでいたが、おもむろに、彼が戸惑うほどのはっきりとした口調で答えた。
「手術が必要なんですね。わかりました。よろしくお願いします」
 なるほど、それはそうだよね。天使なんかいらないって訳だ。当たり前だ、俺達はただの人間なんだからな。

 一ヶ月が過ぎた。彼とその妻は、他の部屋とは離れた部屋で保育器の中の息子の寝顔を眺めていた。生まれたばかりの時に比べて随分と人間らしい顔立ちになったが、腕と枕に隠れてその表情はよく見えない。背中の羽根が邪魔をして仰向けに寝せることが出来ないのだ。
「可愛い……」
 彼の妻がぽつりと言った。実のところ、妻がこの羽根を持った息子の事をどう受けとめているのか彼にはよく分からなかった。自分の体から産み落とした子供なのだから、いとしいと思う感情は、彼よりもさらに大きいのだろう。だが彼女は手術は必要だときっぱり答えた。
 医師の説明だと、背骨とつながっている羽根を根元から切り落とし、その回りの筋肉を除いてその一部は弱くなっている両腕に補強してやるというのだ。こんなに小さな子供が大きな手術に耐えられるだろうか。死んでしまったら……もう少し成長してからの方が安全ではないかとの彼の質問に、中年の医師はこう答えた。 「確かなことは言えませんが、放置しておくとあの羽根のような突起物が発達してますます取り除きにくくなります。それにずっと保育器の中に閉じこめているわけにもいきますまい。大きくなって暴れるようになったらかえって大変ですよ。あの羽根を無茶に動かしてその結果大怪我をするかも知れません」
 しかし目の前に静かに寝ているこの子供を見ていると、もはやこの羽根は体の一部になっていて、手足同様難なく使いこなせるのではないだろうかと思えてくる。最初は戸惑いと恐怖心から、とにかく早くまともな赤ん坊にしてやってくれ、とばかり思い悩んでいたが、しばらく落ち着いて考えてみると、何も急ぐことはないという気もしてくる。赤ん坊は毛布にくるまっていたが、寝息にあわせて背中の羽根のある盛り上がった部分が静かに上下していた。その様を見ていると、それほど不自然な感じはしない。
 むしろ下手に手術でもして後々背中に大きな傷が残ったり、傷がうまく塞がらずそれが元で病気にでもなったらかえって可哀想だ。しばらくはそっとしておいてもいいんじゃないか。彼は純白の羽根を生やしたまま成長した息子が小学校の制服を着て学校に通う様を想像してみた。思わずおかしくなった。こりゃ、ランドセルだけは背負えないな。
 羽根を広げて空を飛べたら……さぞかし気持ちがいいだろうな。飛び方を教えるなんて真似は誰もできないだろうし、せいぜい羽ばたいてしばらくの間浮き上がるのが関の山だろうけど……それでも楽しいに違いない。ずっと昔、そんな夢を見たことがあったような気がする。自分は塀に向かって走っている。軽やかに、軽やかに……そして塀にぶつかりそうになったその瞬間、自分の体はふわっと浮き上がり、ゆっくりと、ゆっくりと緑の地面を離れていく……。
「背中を……背中を見てもよろしいでしょうか……」
 彼の妻がそばにいた看護婦に尋ねた。
「大丈夫ですよ。どうぞ……」
 看護婦は保育器のふたを開けた。妻はゆっくりと赤ん坊をくるんでいる毛布をはずしていった。そういえば彼自身も一ヶ月前からあの背中の羽根を見ていない。どうなっているだろう。あの時は長い毛がまとわりついているようにしか見えなかったが、もう鳥の羽根のようにふさふさになっているのだろうか。彼は結婚前に妻と観に行ったディズニーの映画「ファンタジア」に出てきた白い羽根のキューピッド達を頭に思い描いていた。
「きゃっ……」
 妻がひきつった声を上げた。彼もそれを観て思わず目を見開いた。毛布をどけると、そこに確かに羽根があった。大きく、堂々として、文字通り鳥のように束ねられたままゆっくりと動いていた。それは確かに彼の想像した通り完成された鳥の羽根だったが、大きく違っていたのは……その羽根は、まるでカラスのように黒々としていたのだ。それは天使のイメージには程遠く、何か不吉な、凶々しい物を感じさせた。
「驚いたでしょう」看護婦が言う。「でもきっと黄色人種だから髪の毛同様羽根も黒いのですわ。金髪の白人ならもっときれいだったのかも知れませんけど……」
 カラスの様に真っ黒な羽根を生やした子供か! 先程までの、軽やかな天使のイメージは消し飛んでしまった。色が違うだけで、しかも髪の毛と同じ色だと言うだけで、何故こんなに違うのだろう。白鳥とカラスでは確かにあまりにかけ離れすぎている。これでは……これではまるで悪魔の使者みたいじゃないか。彼と妻は顔を見合わせた。彼の妻は、さすがに震えていた。
「何故……何故こんな……」
「来月には手術を行うことになっていますわ」
 看護婦は冷静に答えた。彼らはただ頷くしかなかった。

 ついに手術の日がやってきた。赤ん坊は麻酔をかけられ手術室に運ばれていった。彼とその妻は、病院の廊下の椅子に座って待つことにした。
 幸か不幸か、誰にも知られずにその日を迎えることが出来た。病院側は彼の希望を取り入れて全てを秘密にして置いてくれたらしい。勿論どこまでそうなのかはわからない。今この瞬間にも、どこかの学会で彼の息子の姿がスライド上映されているのかも知れない。いずれは誰かが嗅ぎつけるだろう。素人の彼にもこれが世紀の大発見であろうことはよく分かる。まあいい。テレビ局が駆けつける頃には、俺の子供は普通の赤ん坊の姿になっている筈だ。取り除かれたあの黒々とした羽根は、ホルマリン漬けにでもなって記者達の前に置かれるに違いない。
「やあ、どうも。ごきげんいかがですか?」
 彼が顔を上げると、あの若い医師が白衣姿で立っていた。涼しげな顔で、彼の方を見下ろしている。 「いよいよ翼は失われてしまうか……。翼をなくして、イカロスは墜落する、か……。いやはや、結局、天使は地上では生きられない運命なんですな」
「何ですって?」
「僕はやはりあの子供は新しい人類の姿なのだと思っていますよ。不条理な話ですよね。もしこれが他の生き物なら、新しい種族の誕生だ。誰にも邪魔されずに生き残って、自分と同じ仲間達で集まって繁栄するところだったのかも知れない。より環境に適応できる物へと進化するのが生き物本来の在り方でしょう? いつもどこかで突然変異が起きている筈だ。でも、ただ一つ、地球上でこの人間界だけが、それを許さないときている。そんな物は全て奇形児として片付けられてしまうんですね。僕はね、人間だってさらに別な生物へ進化する可能性があると思っていますよ。なにも今あるこの姿が究極の姿だとは思わない。でも人間だけが、その自らの進化の可能性を潰すことが出来るんです。他の生き物なら放って置かれるのに、人間だけはそれを完全に排除しようとする。ね、皮肉だと思いません?」
「……何が言いたいんですか?」
「おお、別に何も。そりゃあなた方はね、普通の人間なんだから自分たちの子供も普通でありたいと思うでしょうね。でも、子供にとってはどうかな? 大空を自由に飛び回ることが出来たかも知れないんですよ。自分の意志もまだ存在しないうちに、それはもぎ取られてしまうんだ! もったいないと思いません? 空を飛べないよりは、飛べた方がずっといいでしょう?」
「……いいんです別に。普通でさえあれば……」
「そりゃあなた方はそうでしょうよ。でも、もしかしたら十年後には空飛ぶ子供達がわんさかいて、あなた方は早まった真似をしたことを後悔するかも知れませんよ。我が子こそは一番乗りだった筈なのに、ってね。そりゃ恨まれるでしょうな。僕の羽根を、僕の羽根をどうして取っちゃったの? 勝手に、僕に何の相談もしないで! なんてね」
 何を言いたいんだ、この男は……あの子に羽根を付けたままでいろというのか……。

「ははは、そんなに神妙な顔をなさらないで下さい。いえね、どう見てもあの子には他の者にはない天からの授かり物があるってのに、それを奪い取られなくてはならないなんて哀れだなあと思いましてね。勿論こういうことは世の中では良くあることですよ。せっかく才能を持って生まれてきたのに回りに潰される人間も多いじゃないですか。物の価値の分からない連中にね! 見識の狭い奴等がこの世の殆どを占めていますからな! ははは、僕だってこんな田舎の病院なんかにくすぶっていることはないんだ! いや、失礼。しかしあの子の切り取られた羽根はどうせあのじじい共に渡されるんだろうけど、奴等に何がわかるもんか! あなた知ってます? 僕の通っていた大学の医学部学舎には、古い病理標本室があって、そこにはろくに研究もされていない貴重な人間の奇形の標本がいくつも放置されていましたよ。あれを十分に調べられたら、さぞかし沢山の新発見があるでしょうな!」
 若い医師は不満でしょうがないという風に体を前後に揺すってまくし立てていた。彼はそれをぼんやりと聞き流しながら、別のことを考えていた。
 なるほど人間はもしかしたら空を飛べるように進化するよう定められていたのかも知れない。そのあこがれが、願望が、神話を生み出し、航空術を発達させたとしたら……。あの赤ん坊の翼を切り放すことは、神に対する、自然に対する冒涜なのだろうか。人間が天使に進化するのを、俺達は妨害することになるのか。
 昔、何かの本で読んだことがある。天使とは本来、人間を越えた霊的存在で、神を直接見ることが出来るだけでなく、神に逆らうことさえあったという。天使は必ずしも善の象徴とは限らなかった。あの悪魔といわれるサタンでさえ、本来は天使だった。あのぴよぴよと飛び回るキューピッドのイメージは、もしかしたら本当の天使の姿ではないのかも知れない。あの背中から生えていた黒々とした羽根……。あの子がもし、文字通り天から使わされたのだとしたら、それは何のためだったのか……。
   しかしそれは俺達平凡な家族にとってはどうでもいいことだ。
 翼を持った人間達はこれからもどこかで生まれていくことだろう。だが、そんな新人類達が羽ばたくことができるのは、この医療機関の発達した、全てが公にされるような文明社会じゃあない。どこか病院も新聞もない未開の土地でやってくれ。人類が新たに進化できる場所がこの世にあるとしたら、それはそんな所だ。俺達の所ではまっぴらごめんだ……。
   手術台の上で天使の翼は物の見事に取り除かれた。かくして人間は空を飛ぶよう進化する道を自ら閉ざしたのである。(完)

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