「短編小説」のコーナー

「短編小説/宇宙人の解剖」



 薄暗い部屋の中で、少年は白いシーツで包まれた敷き布団の上に横たわる、薄いピンク色をした宇宙人の裸体を、震えながら見つめていた。
 その宇宙人の体には、円盤が落下した時に受けたらしい傷が所々についていたが、傷のない部分はまるでイチゴ牛乳のように均一なピンクで、なめらかで美しかった。死にかかっているのだろうか。時々つらそうな息をするのだが、その度に薄い皮膚を通して肋骨らしき物が上下に動いた。
 体は今年十二才になる少年と同じくらい。人間にそっくりだが、見開いた目は真っ黒でまるで昆虫のようである。体毛が全くなく、乳首も性器もない、マネキンのような皮膚。しかし、それは確かに生きていた。半開きになった口からかすかな呼吸音が聞こえる。
 少年はどうして良いか分からず、ただその場に立ちつくしていた。できることなら、助けてあげたい。でも……。
「苦しい……?」
 少年はおそるおそる尋ねた。宇宙人は仰向けの姿勢を崩さない。彼の声は聞こえていないのだろうか。
 突然、彼の頭の中で声がした。
(切って……)
 小鳥がささやくようなか細い、しかしフルートの音色のように美しい声だった。少年はあたりを見回した。宇宙人の口元はぴくりとも動かないのに、確かに自分に向かって呼びかけている。
「今、喋ったのはあなたなの?」
 少年は名状しがたい恐怖感に苛まれながらも、ゆっくりと宇宙人の方へ近付き、相手の顔を覗き込みながらそう尋ねた。
(おねがい。私の体を切って……)
 再び、切ない、消え入りそうな優しい声が頭の中でささやいた。相手の目は真っ黒いガラス玉のようで表情がなく、口はぴくりとも動かない。
 本当にこの人が話しかけているのだろうか。
 次の瞬間、少年はびくりと体を震わせて、一歩後ろへ後ずさりした。
 宇宙人が一瞬、瞬きをしたのだ。
 上と下から閉じ合わさる瞼を動かした後、うっすらと黒い目玉が濡れているのを少年は見た。部屋の蛍光灯の明かりが反射している。その濡れた瞳に、少年は思わず引き寄せられた。相手の目が、涙ながらに何かを訴えている。
「……僕はどうすればいいの?」
(刃物を持ってきて……大きい、大きい刃物をここに……)
 少年は言われるまま、台所から出刃包丁を持ってきた。あの目で見つめられたら、誰も逆らうことなどできはしない。
「持ってきたよ……」
(その刃物で、私のお腹を切り開いて……)
 少年は相手の懇願する内容を心の中で反芻した。なんという願い事だろう。包丁を持つ手が次第に汗ばんでくる。足ががくがくと震え始める。
「できないよ……そんな、そんなこと……だって……」
(お願いだから、どうかお願いだから……私のお腹を切り裂いて頂戴……)
「死んじゃうよ……」
(いいの……私の体なんだもの……切って……思い切り切り開いて……)
 相手は全く無表情のまま、少年に残酷な要求を続けた。少年には相手の意志が全く分からない。しかし、およそ人の言うことに逆らったことのない彼には、きっぱりとした拒絶の言葉が見つからなかった。
「……どうして、そんなことを頼むの?」
(あなたも大人になれば分かるわ……)
 少年はその時宇宙人がかすかに微笑んだような気がした。それは不思議な、優しい微笑みだった。目は時々瞬きするだけで、そこに表情らしき物は見当たらない。にもかかわらず、彼はそこに笑顔を見たのだ。
(切って……)
「だって……」
(切って!)
 少年の最後の抵抗を打ち破るかのように、頭の中の声は、破裂するような衝撃で彼の意志を押さえつけた。その声はあくまでも優しく、そしてあくまでも無慈悲だった。

 少年はついに屈服した。
 少年は震える両手で包丁の柄を握りしめると、そのきらりと光る鋭い刃先を、宇宙人の柔らかそうな腹の上に近付けた。
「……行くよ……」
 相手は静かに息をひそめて、ゆっくりと刃先が近付くのを待ち受けていた。少年の顔は恐怖で歪み、紅潮した額に汗が流れ落ちる。刃先が相手の肌に触れた瞬間、少年は大きく息を吸った。
「……」
(あ……)
 包丁の刃がずぶりとピンク色の肌に飲み込まれた。その瞬間、宇宙人の体はびくりと左右に揺れ、その切り裂かれた腹からはゆっくりと赤い血が流れ出した。
「……血だ! 赤い血だ!」
 包丁を相手の体に突き刺したまま、少年は目の前に広がる鮮血を見てうろたえた。まさか宇宙人が人間と同じ血の色をしているとは思わなかったのだ。
 ……これは……これは……犯罪じゃないのか……。
 少年は泣きたくなるのをこらえて、包丁を引き抜こうと試みた。
(だめ……)
 再び声がする。宇宙人の濡れた瞳が、彼にその行為を続けるよう命じていた。
「痛くないの……?」
(痛いわ……とても痛い……でもうれしいの。このまま……このまま続けて……)
 少年はその声に逆らえなかった。そのまま思い切り包丁の刃を手前に引き寄せ、相手の腹を一直線に切り開いた。
(ううっ……)
 宇宙人の体が大きくのけぞった。その反動で、どぼりと大量の濁った血液が流れ出し、シーツを血で浸していった。
「苦しいの……?」
(苦しい……苦しいわ……もっと切って……もっと思い切り切り刻んで……)
 少年は既に泣いていた。涙が頬を伝って流れ落ちた。
「どうしてこんなことをさせるの?」
(私が……そう望んだからよ……)
「どうしてこんなことを望むの?」
(死は生の殆ど唯一の到達点だからよ……。あなたはまだ幼すぎて、この幸福な気持ちを理解できないかも知れないけれど……大丈夫。いつかきっと分かる日が来るわ……ああ……)
 少年の刃物がその肌を切り裂く度に、宇宙人の体はしだいに激しく反応するようになった。相手は苦痛と快感の両方を全身で受け止めて、のたうち回っている。それは少年の理解を超えた光景だった。少年はただ恐ろしく、悲しく、そして淋しかった。
「僕はつらいよ……もう、やめさせてよ……」
 少年は涙ながらに訴えた。相手の命が今にも尽きようとしている。少年の血塗れの手に握られた包丁が無情にも相手の体をばらばらに切り離していく。自分は取り返しのつかないことをしている、そのつらい思いが彼を責め立てた。
 彼は必死に「理由」を考えた。
 この宇宙人は自殺願望があるんだ。
 宇宙人は自分達の惑星の人口爆発を防ぐために喜んで死ぬ習性があるんだ。
 他人にお腹を切り開いてもらわないと卵が産めないんだ。
 いや、単に地球人を憎んで彼を罠に陥れようとしているんだ……。
 ……だが一方で、彼はそんな考えを押しのけた。違う。宇宙人はただ切り刻まれて殺されることを、切実に望んでいる。彼の苦しみを頭から無視したかたちで。それだけだ。ただ、それだけのことなのだ……。
 僕はどうなってしまうのだろう……
 涙が止まらない。それを手で拭うと、今度は宇宙人の血が彼の頬を染めた。その生温い、きつい匂いのする血液の感触が、彼を失神寸前にまで追い込んだ。ひょっとしたら、相手はただの人間ではないのか……?
 そのあまりに恐ろしい考えが、一瞬彼の頭の中をよぎった。
 そんな馬鹿な……そんな馬鹿な……。
 彼は宇宙人の体の上にかがみ込んで、相手の血塗れの腹の上で、手にした包丁を横に向けるとそのまま力一杯押しつけた。ごとりと音がして宇宙人の胴は上下に切断された。
 その瞬間、宇宙人の上半身はびくりとはね上がり、激しくけいれんし始めた。無惨に引き裂かれ、内臓を殆ど失った胸部から、肋骨がまるで陸に引き上げられたエビの脚のように左右に蠢いているのが見える。
(……あともう少しだわ。もう少しで……)
 頭の中で声がする。しかし、少年はもうそれを聞いてはいなかった。
(……もう少しで……死ぬ……死ぬわ!)
 宇宙人の体は、何かを訴えるかのように大きく跳ね上がると、そのまま急にぐったりと力を失い、そのまま動かなくなった。しかし、少年はそれに気付かず、夢中で相手の体に包丁の刃をやみくもに突き立てていた。

 そして、全ては終わった。
 少年はだらしなく口を開け、恐怖と疲労とで声もできない有り様で、その場に座り込んでいた。目の前にある虐殺の現場は、かつて少年が全く経験したことのない絶望を彼に与えていた。心臓にぽっかりと穴があいて、全ての血が、生命の活力が流れ出してしまったかのようだった。流れ出した物はもう元には戻らない。少年はこの自分のもたらした悲劇の事を、鮮明に脳裏に焼き付けたまま、これから一生過ごしていかなければならないのだ。
 血塗れの宇宙人の死に顔はとても穏やかだった。その全てに満足しきった表情は、残された少年に救いがたい孤独感をもたらした。
 コン、コン……
 ドアをノックする音がした。
 少年の手から血塗れの包丁が滑り落ちた。
 彼は振り向かなかった。ドアに鍵はしていない。
 向こうにいるのは、誰だろう。父親だろうか。母親だろうか。同級生だろうか。教師だろうか。警官だろうか。
 誰が最初に彼の犯罪を目撃し、そして告発するのだろう。
 苦痛と恐怖と、そして孤独と絶望に包まれた彼の、この取り返しのつかない犯罪を……。(完)


◆次の短編作品「砂の上の首」に進む。
◆「短編小説」のコーナーへ戻る。
◆トップページに戻る。
◆「宇都宮斉作品集紹介」のコーナーへ。
◆「宇都宮斉プロフィール」のコーナーへ。
◆「一杯のお酒でくつろごう」のコーナーへ。
◆「漫画・映画・小説・その他もろもろ」のコーナーへ。
◆「オリジナル・イラスト」のコーナーへ。