「短編小説」のコーナー

「短編小説/砂の上の首」



 見渡す限り一面に砂の海が広がっていた。
 少しずつ太陽が上っていく。赤茶けた砂粒が砂漠に描かれた幾何学的な波の上を飛び回っている。  一人の男が穴を掘っている。
 細長い体を規則的に曲げたり伸ばしたりしながら、男は長い髪を振り乱し、一心不乱に大きなシャベルを使って穴を掘っている。
 皮肉めいた、冷たい微笑みが彼の大きく裂けた口元に浮かんだ。彼は今、一生を通して待ち望んでいたその瞬間を目の前にして、昂揚した気分を隠せないでいた。
 砂漠の中に穴を掘ることは容易ではない。
 何しろ、せっかく広がり始めた穴はすぐに端が崩れてしまうのだ。最初、彼は丁度立ったまま首だけが外に出るような格好で埋まりたいと考えていた。何もない砂漠の中に、一つぽつんと自分の首だけが見えている。そんな光景を想像して楽しんだものだ。しかし、身長百九十センチの自分の体を直立させる深さまで掘り進めるのは難しい。しゃがみ込んだ格好で我慢するしかなかった。
 幸い風は強くない。この分でいけば早いうちに、自分の体を砂の中に埋めることができるに違いない。上半身まですっぽりと砂の中に隠し、頭だけを外に出しておく。やがて太陽が次第に砂漠を暖め、強烈な熱が彼を襲うだろう。彼の体は水分を失い、正午を過ぎる頃には乾ききって、身を焼かれる苦痛の内に絶命するだろう。都市ポリスを離れ、砂漠で暮らすことの多かった彼にとって、その苦痛は慣れ親しんだものだった。
 何故今さら自殺するのか。何故もっと早く自殺しなかったのか。
 自殺願望は彼の生涯の極めて早い時期に、というよりも彼自身が意志を持ったその時既に彼の精神に芽生えていた。彼は自分の肉体に狂おしいほどの嫌悪感を抱いていた。自分の体臭に、排泄物に、体毛に、性器に、そして心臓の鼓動に……。生きていることそのものに激しい嫌悪を抱いていた。彼にとっては物を食する行為も、排泄の行為も、等しく悲劇に過ぎなかった。自分の体に血液が流れている、そのことを意識するだけで、体中をかきむしりたいほどのおぞましさを感じるのだった。
 十代を過ぎる頃には、肉体に対する嫌悪感は頂点に達した。やむにやまれず、自らの体を衝動的に刃物で傷付けるようになった。なま暖かい血が流れ出すその感触は、さらに彼の嫌悪感を増幅した。ついに性器を切断してしまった時には、さすがに出血多量で意識不明にまで陥った。精神病院というものが存在した時代に生まれていれば、彼も病室という牢獄ですぐにでも一生を終えるところだっただろう。
 だが地球上に一つだけ残された高層都市を除いて全ての文明が滅び去った今では、精神病などというデリケートな病気がまともに扱われる事はなかった。全ての人間の精神が汚染されていた。女性も老人も存在せず、殆どの人間が都市の中心部に保管されている冷凍精子による人工単為生殖で産み落とされていた。しかも機械が古くなっているのか、この二十年間、一人の赤ん坊も運ばれては来ない。彼は文字通り、人類最後の世代と言っても良かった。
 彼の自殺を最終的に阻む物は何もなかったはずだが、ふとしたきっかけで彼の興味は他に移った。彼の命そのものの存在に対する嫌悪感は、自分自身ではなく他者へと向けられた。彼は殺人に興味を持ち始めたのだ。  最初の犠牲者はルームメートだった。愚かにも彼と一緒に暮らしてもよいなどと思ってしまった不幸な青年がいたのだ。彼は自分以上にこの青年の肉体を嫌悪した。その声を、醜い顔を、そしてその体臭を。そして全く衝動的に、この青年の頭蓋骨を叩き割り胴体を切断した。
 最初の殺人の後には漠然とした空虚感しか残らなかったが、次第に彼は、命ある物の命を断つことに執着するようになった。不自然な自動機械の構造を破壊して、純然たる動かない物、無生物にしてやることにある種の使命感と安心感を覚えた。カビはこすり落とすべきだ。這い回る蟻は潰すべきだ。従って、生きた人間も死なせるべきなのだ。
 砂漠で暮らすようになって、彼にははっきりと分かった。命など、無用の長物であることが。月にも火星にも、そして他の殆どの天体にも、生き物は存在しない。他の天体に生物の存在する確率が低いと言うことは、とりもなおさず生物の満ち溢れている状態よりも、死の砂漠に覆われた状態の方が、より自然であるという事に相違なかった。生き物がいるということはそれ自体不自然でいびつな状態なのだ。だから殺さなくてはならない。命ある限り。そして文字通り、人間共は殺し滅ぼし続けてここまで来たのだ。
 彼は殺人鬼として名を馳せた。彼の殺人には動機がなかった。というより、彼にとって立派な理由は存在したが、死なせてやる相手は全く無作為に選ばれたということだ。息の根を止めてやること、その行為自体が重要なのだ。
 殺人自体が都市では日常茶飯事だったが、徹底して無慈悲で残虐であるという点で、より大衆を惹き付けたのだろう。殺せば殺すほど彼は人気者になった。
 彼以前から名の売れていた殺人鬼に猟師ヘンリーと呼ばれた男がいた。その男も動機なき殺人という点で彼と共通するものを持っていた。ただし光線銃を片手に子供を無差別に殺すことを無情の喜びとしていたヘンリーは、中央センターから赤ん坊が送られて来なくなると同時に都市から姿を消した。そして今、猟師ヘンリーの代わりに彼、殺人鬼チャールズがポリスのアイドルとなっていた。

 彼は自分の掘った穴の中にしゃがみ込み、周囲の砂をかき集めた。
 風にあおられた長い黒髪と冷たい目をした細い顔だけが砂の海の上に乗っていた。
 しだいに太陽が上がってくる。
 周囲の温度が上昇してくる。うだるような熱さの中、やがて彼は意識を失うだろう。しかし、まだこの時点では、彼の意識ははっきりしていた。彼はこれまでの一生の間、嫌悪感に苛まれ続けながらも、決して自分自身を見失うということはなかった。常に理性が彼の意識を支配していた。彼の衝動殺人を支えていたのはこの明確すぎる理性そのものだった。彼の理性が、命そのものの存在が全く無用のものであることを訴え続けていたのだ。
 温度はさらに上昇してきた。全てを焼き尽くすような砂漠の昼がやってくるまでにはまだ間がある。
 熱風が彼の頬を撫でる。結構なことだ。人肌ほど気色悪くはない。バーナーで焼かれるようなものだ。ひたすら冷たい物、ひたすら熱い物……。生き物の体温ではなく、物理学的な熱量としか表現できないようなものに、彼は執着し続けた。
 やがて視界がかすんできた。人間も脆い出来損ないの有機物の集合体に過ぎない。唯の砂漠の塵に還元されてこそ初めて清潔な存在になれるのだ。彼はひたすらその瞬間を待ち続けた。
 ふと目を開いた。何かが、何かがやってくる。長年に渡る砂漠での生活で研ぎ澄まされた彼の感覚器官は、何か機械的な音が自分の方へ向かって近付いてくるのを捉えた。
 それは一人乗りのエア・スクーターだった。
 元は美しい紺色で塗装されていたらしいその年代物は、かなりの期間砂粒で削られ続けてきたらしい。一瞬彼には、それが人工物には見えなかった。
 スクーターは彼の顔の三メートルほど手前に止まった。機体にブレーキがかけられ、次の瞬間には、大量の砂ぼこりが彼の顔に振りかけられた。
 たとえその瞬間に目と口を閉ざしたとはいえ、乾ききった砂漠の表面近くですぐに砂ぼこりがおさまるはずがない。彼は激しく咳き込んだ。そのあまりに動物的な行為に自己嫌悪を感じながら。
 スクーターの男は、ぼろぼろの愛機から降りて、ゆっくりと彼の方へと近付いてきた。
 やたらと大きいヘルメットとマスクで頭を覆っているので、相手の表情は全くわからなかった。その男は、ゆっくりと身を屈めると、彼の顔のすぐ近くまでヘルメットを付けた頭を寄せてきた。バイザーの部分のガラスは特殊な加工がされているらしく、不自然なほど真っ黒だった。向こうからこちら側は見えているが、こちらから向こうは見えないようになっているらしい。どうしても相手に自分の顔を知られたくないのだな、と彼は考えた。蟻のようにポリスに充満している無数の臆病者共の中の一匹に違いない。
 少しばかり、顔を上げた。目と目が合ったのかどうかは分からない。しかし、彼の顔が僅かに揺れた瞬間、相手の動きが止まった。そして、しばらくの時間が流れた。朦朧とした意識の中では、時間感覚はなきに等しかった。
「チャールズ・コットンか?」
 蟻はマスク越しにうわずった声で尋ねてきた。力強い声とは言い難い。良く見ると……といっても瞼を手で擦ることもできない状態なので、ろくに目を開けることもできなかったのだが、相手は背も低く、厚手の防護服を身につけているにも関わらず肉付きの良くない体格であることが分かった。
「チャールズだな。そうだ、お前は殺人鬼チャールズだろう」
 彼は答えなかった。もとよりもう人間と会話する気はなかった。もう十年近く人間と口を利いたことはない。砂の上でもがくように這い回っている蟻に話しかけたりするような暇な真似をするつもりはなかった。
「薄汚いキチガイめ……」
 蟻はもぞもぞと悪態をついた。それを聞いているだけで早くも彼はうんざりし始めていた。復讐か。親しい者を殺された恨みとか何とか、退屈きわまる長広舌に付き合わされるのはまっぴらだった。
 彼は穴にしゃがみ込んだ状態で自ら埋まったのだから、普通であれば飛び起きて相手をねじ伏せ、その骨を数カ所砕いてやることなど造作もないところだ。しかし今の彼は、砂漠の太陽にあぶられて意識不明寸前にある。立ち上がろうにも全く体の自由が利かない。
 何を手掛かりにここを見つけたのかは分からないが、砂漠の中で熱風を浴びながら生きながら焼かれるという、彼の神聖な儀式を妨害する者が現れたという事は、何にせよ忌々しい出来事に相違なかった。
 彼は何も言わなかった。ただ、鋭い目付きだけを相手に向けていた。
 相手もしばらくはもぞもぞと非難めいた言葉をマスクの中に漏らしていたようだが、やがて喋るのをやめた。落ち着かない様子で、うろうろと彼の首の周囲をうろついている。どこかに罠でも仕掛けられていないかと警戒している様だった。目指す相手を見つけたものの、その相手が首だけ出して砂に埋められていることが納得いかないのだろう。別な復讐者による刑罰を受けているところなのか、とでも思っているに違いない。
 相手はうろつくのをやめ、それでも不安そうに顔だけをこちらへ向けて固定させたまま、腰のベルトに手を回し始めた。
 次の瞬間、貧相な拳銃が相手の手に握りしめられていた。
 不快感がこみ上げてきた。忌々しい蟻め。私の自殺を邪魔する気か。神聖な、厳粛な、一生の夢だった生から死、動から静、有から無への体験を、一生に一度しかない体験を台無しにするつもりか。
 その貧弱な体を抱えたままここを立ち去れ。体の自由がきくのなら、さんざんいたぶったあげく体表近くの血管を全て切り開いてやってもいいのだが。
 相手は拳銃を持った手を震えながら彼の顔へ向けた。それはかなり旧式のリボルバーだった。都市の住民は基本的に武器の携帯を許可されていない。精神の不安定な人間に凶器を持たせてはならないという原則があった。この年代物の武器はどこか闇ルートで取引されているオモチャか、さもなくば自分で見よう見まねで作った代物かも知れない。こんな情けない屑鉄で、自分の死を冒涜されるのはまっぴらだった。
「お、お前は……お、お前は人殺しだ。殺人鬼だ。お前なんか死んでしまえばいいんだ。この悪魔め……お、俺が、この俺が殺してやる……」
 がたがたと腰を震わせながら、相手はようやく聞き取れるような微かな声で、ささやくように悪態をついた。
 彼は何も言わなかった。
 ただ相手の陳腐な悪態を黙って聞いていた。結局のところ、相手が自分に対して恨みを持っているのか、それともただ好奇心から犯罪者を始末しようとしているのか分からずじまいだった。彼の見た所、拳銃を自分に突きつけている顔の見えない男は、殺人を心に誓いながらも迷っているただの臆病者に過ぎなかった。
 彼は自分を殺そうとする者に対しては、かねてからその勇気に敬意を払ってなぶり殺しにしてきたものだが、この相手に対してはどうしても軽蔑以上の念が浮かばなかった。顔を隠しているその姿は人間にすら見えない。ただの人形だ。相手が人形では腹も立たない。
 彼は鋭い目つきで相手を睨み続けた。
 相手は震えたまま、なかなか引き金を発射しようとしない。
 何故殺さない? こちらは無抵抗だ。最初からその気なら迷うことはないだろうが。彼は勿論、自分が長年夢見てきた砂漠での自然死を、下手すると諦めることになりかねなくなっていることに対して腹を立てていた。何故よりにもよってこんなつまらない男がやって来たんだ?
 余程そう尋ねようとしたが、一方では軽蔑すべき存在と口を利くことはどうにも我慢ならなかったので、結局のところさらに相手を睨み続けただけだった。
 奇妙な光景が続いた。一人の男が、砂に埋まって顔だけ出している男を拳銃で狙っている。どう見ても拳銃を持つ男の方が優位に立っているはずなのに、その男はひたすらぶつぶつ言いながら震えている。顔だけ出している男の方は、表情一つ変えずに相手の方を鋭く睨み付けているのだ。
 拳銃を持った男は泣きそうな声で叫んだ。
「な、なんだその目は! 命乞いをしてみろ! 本当は恐ろしくて仕方ないんだろう! ば、馬鹿め、当然の報いだ!」
 この男は一体何が言いたいのだろう。ぼんやりとしてきた意識の中で、彼はそう考えた。全てが無意味に思えてならない。こちらは死など恐れてはいない。この数十年来、親しんできたものだ。殺人という行為に使命感を抱かなったなら、もっと前に死んでいても良かったのだから。生命があるということは、彼にとっては単に馬鹿げたことに過ぎなかった。相手の行為には何の意味もない。殺すも良し、殺せないならさっさと立ち去れば良い。どうせ自分は死ぬのだ。いずれ貴様も、そして他の連中もだ。
 人類は砂漠に残されたたった一つの人工建築物の中に閉じこもって、未だにこの世に存在している。しかし、個々の人間は寿命が来れば皆死ぬことに変わらない。自分の生命がなくなった後には、何も残らぬ。他の人間がまだ生きていて、その結果人類という種が存在しているとしても、何の関係もない。自分一人が死ぬことも、人類全てが滅ぶことも、自分にとっては結局同じ事なのだ。
 彼は生命を憎み、叩き殺すことを生き甲斐としてきた。しかし、それでもまだ何かが生き続けている。殺しても殺しても絶滅していない。彼はポリスの破壊工作に失敗し、自らの目標を失った。忌々しさだけが後に残る。しかし、自分はまだ死ぬことが出来る。この先ずっとあのおぞましい自己増殖する有機体が清潔な砂漠の中に汚点を残し続けるとしても、少なくとも自分は砂になることが出来るのだ。もはやそれで充分ではないかと思い始めていた。
 せめて最後の時くらい、砂漠の砂と化すまでの自分という存在をぎりぎりまで意識し、体感していたかったが、いかんせんつまらない邪魔が入ってしまった。
 ふと、何かが彼の頬を撫でるのを感じた。一匹の蟻が右頬を伝って這い上って来ていた。丁度右側が日陰に当たるので、直射日光を避けながら近寄って来たのだろう。
 六本の小さな刺のような脚がせわしなく彼の皮膚を擦っている。
 鬱陶しさをひしひしと感じながらも、自ら手を出すことができない。おぞましさ、ああ、この命のおぞましさこそ、彼が一生嫌悪し続けたものだった。最後の最後にこんな気色悪さを感じながら死ぬことになろうとは。
 結局生き物は、最後まで彼をそっとして置いてはくれなかった。
 相手の自動人形は踊りながら飽きもせず無意味な音声を発し続けている。
「な、何とか言え! 畜生、馬鹿にしやがって! はあ、はあ、暑い……もう、もういい、何も聞いてやらん……。お前を殺してうちに帰る……」
 鬱陶しい蟻め。
 いい加減貴様らみんなくたばったらどうなんだ?
 どうせ死ぬのに、何故自殺しないんだ? 俺の人生が殺戮という肉体労働に終始したのはみんな貴様らのせいだ。死ぬことに手を抜こうとする貴様ら全部が。
 何もかも愚劣だ。
 もうすぐ、もうすぐ砂漠が、砂と熱風が俺の下らない有機物の肉体の息の根を止めて砂に戻すところだというのに。こんな下らない蟻一匹が全てを台無しにしてくれるとは!

 砂漠で一発の銃声が響き渡り、砂の上には黒髪を血で染めた生首が残された。その目は不機嫌さを隠そうともせずに、空のある一点を睨み付けていた。彼の最後の望みはかなえられることはなかった。
 数十匹の蟻が、直射日光を避けつつ影になった部分を中心に、彼の首にまとわりつき、その血をすすり、肉の破片を運ぼうと無心に働いていた。(完)


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