スペインツアー(Madrid,Toledo,Cordoba, Granada,Malaga,Barcelona)

第四日(
7.20.Tue.)「コルドバ→グラナダ」


 午前九時半、サングラス眼鏡に替えて、メスキータへ。イスラムでお祈りすることをマスジットと呼ぶことからこの名が付いたそうです。東西128m、南北175mとモスクの中では世界最大。ミナレットと呼ばれる光の塔が一本建っていることから、一番古いスタイルのモスクがこのヨーロッパに残っていることになるのだそうです。後世になるほどモスクの塔の数は増えていくのだとか。
 中に入る前に、涼しいうちに周囲を散策。ユダヤ人街だった所に残るマイモニデス(1135~1204)の銅像などを見ました。神学者にして医者、十字軍時代のサラディンの主治医でもあった人物だとか。ちなみに当時はアラビア圏が医学の最先端で、特に砂漠という乾燥地帯が基盤だったためか眼科が発達、800年前になんと白内障の手術が可能だったそうです。1000年前にも既にペニシリンに相当する抗生物質を馬の鞍のカビから発見していたとか。
 いよいよメスキータの内部へ。780年にサン・ビンセント教会をイスラムの王が買い取って建てたのが始まりで、以後三回増築されています。中に入ると白と赤のストライプのアーチが目に入りますが、これはローマ州都メディダの水道橋のストライプをマネしたものだとか。ローマ時代の遺跡から大理石を持ち込んで建てたので、そのため柱の長さがまちまちだったりします。    

 (メスキータ外観)
 二回目の増築はアラ・ハケム二世によってなされました。奥の壁をさらに広げる形で拡張され、柱にもアラバスター(雪花石膏)と呼ばれる材料が使われています。アラ・ハケムはインテリの王で、40万冊もの写 本を集めました。これがヨーロッパへ翻訳されてルネッサンスの時代へと受け継がれていくのです。  
 三回目の拡張は軍人アルマンソールの時代。人口50万人のうち、2万人以上が集まり、さらなる拡張が必要となったわけです 。トレドの大聖堂を三つ横に並べたほどの規模です。 モスクの中をぶち抜く形でキリスト教の司教座がありますが、これはカルロス五世の時代に、コルドバの司教がトレドのような大聖堂が欲しいとカルロスに懇願した結果 建てられたもの。
ドイツで戦争をしていたカルロスは、戻ってきてみるとモスクが壊されているのを見て仰天したといいます。工事は235年間におよび、完成したのがこの聖母飛昇天教会。この頃はルネッサンス様式に入っており、半円形のロマネスク式アーチが復活しています。
  外へ出て、花の小道と呼ばれる小さな通りへ。そこを通って振り返ると丁度塔が道の間から顔を出します。ここでたまたま見つけたゲルニカTシャツとコルドバガイドブックを購入。  
  (花の小道)  
 午前 十一時二十分にコルドバを離れグラナダへ。8世紀から15世紀まで続いたスペインのイスラム国家は、大きく分けてコルドバ、セビーリャ、グラナダの三つの時期に分かれるといいます。当初カリフが治めていた後ウマイヤ朝の時代の首都がコルドバ。その後最後のカリフが首を切られ、群雄割拠の時代になるとセビーリャが中心地に。未だにコルドバとセビーリャは競り合っていて、ミス・スペインでも毎回どちらかが選ばれるそうですが、かのマイモニデスは、「本を売るならコルドバに、楽器を売るならセビーリャに」と言ったそうで、千年前の言葉だが未だにその違いを良く表しているそうです。トレド陥落後、イスラム系のモロッコ王がスペインを支配していた時代が百年ほど続き、その後カトリックとの争いで1236~1248年コルドバ、セビーリャが相次いで陥落、モロッコ王はスペインから引き上げてしまいます。勝利したフェルナンド三世が自分に味方したイスラムに土地を与えて残ったのがナスル朝グラナダ王国です。  
  午前十二時二十分、ルーケ城の近くの休憩所となっている旧駅舎に立ち寄る。コルドバとグラナダの中間地点に位 置し、昔は鉄道が走っていたのだそうです。やたらと線路の幅が広いのですが、ナポレオンの侵略後簡単に攻められないようにわざと他国と幅を変えたのだそうで、同じことがロシアにも言えるそうです。休憩所でオリーブオイルの試食。なぜか日本の飲料水のPETボトルが棚に飾ってあったりして。    
   (ルーケ旧駅舎) (なぜか日本の飲料水)
 ちなみにスペインは映画のロケ地としても良く利用されていたそうで、かの「アラビアのロレンス」も砂漠のシーンはタベルナ砂漠。ここでは最高級のオリーブオイルが取れるそうです。 イスラムの街のシーンはセビーリャが使われたとのこと。「風とライオン」も同様に全編スペインロケだったとか。  
 午後二時、グラナダの街に到着。ここは大学都市で、人口29万人のうち三万人は大学生。今は夏休みで再試験のために勉強しなくてはならない学生しか残っていないそうです。バスを降りてレストラン「アグア・マリーナ」で昼食。前菜はガスパッチョ。なんかやたら酸っぱかった。この方が夏場は元気が出るのかも知れないが…。メインは子牛のソテー。デザートはスイカ。グラスの赤ワインを頼んだが、やたら青草っぽい風味が強く飲みにくかったです。
  (ガスパッチョ)(子牛のソテー)  
 午後三時からアルハンブラ宮殿を見学。グラナダ王国の最後の砦で、中世イスラム建築の唯一の例。綱渡り外交を続けながら、ガラス製品や絹織物を生産し、254年もの間生き延びたグラナダも、1453年に東ローマが滅びると、ヨーロッパの中に再び反イスラムの気運が高まり、1469年イサベルとフェルナンドの結婚によりカスティーリャ・レオン連合国が誕生すると、スペイン出身のローマ教皇アレッサンドロ六世はグラナダ攻略を命じます。ついに1492年グラナダは陥落、以後この宮殿は廃墟と化します。その後時代が下って世は世界旅行ブーム。アービングが「アルハンブラ物語」を記すと、多くの人が集まるようになり、それにより修復も始まり、現在に至ったとのこです。
 まず入り口から入り、両脇に糸杉が植えられている小道を進みます。糸杉が庭園に植えられているのはここくらいのものだとか。最初に訪れるのはカルロス五世宮殿。一片63mの正方形をしており、内部には直径30mの円形のパティオがあります。今でも劇場として利用されています。カルロス五世が新婚旅行でグラナダに来た時にいたく気に入り、建築を命じたのが始まりですが、戦費がかさんだため、三階建ての予定が二階までしか完成しなかったそうです。次にイスラムのアラベスク模様で彩 られた「メスアールの間」に。タイルに漆喰を塗っているので、爪でこすると剥がれてしまいます。そこを過ぎると小さなパティオがあり、さらに進むと「コマレスの間」、別 名「謁見の間」に出ます。壁は漆喰に刻まれたアラビア文字や、専門家しか読めないクーファ文字の装飾があり、天井は木造で、夜空を表現していました。その後、テレビで見た有名な「ライオンのパティオ」に。残念ながら柵があってパティオの中までは入れませんでした。四隅にはオレンジの木が植えてあり、パティオを囲む柱は、一本・二本・四本と規則的に並べられていました。
 一通り中を見学した後は、「パルタル庭園」を歩き、やっとのことで出口へと到達。暑い中上り下りが激しく、結構ハードでした。    
  (パティオ) (パルタル庭園)
 午後七時頃ホテルに到着。夕食はビュッフェ方式。二皿ほど山盛りにしてとりあえずは満足。リオハのハーフボトルも口当たりが良く飲みなれたリオハワインの味がしました。
          
  夕食後そのまま午後九時にロビーに集まり、昼間とは違う小型の専用バスでロス・タラントスのフラメンコショーへ。一時間半でドリンク付き。昔のジプシーの生活感を演出して金物器具が白い壁に飾っていました。2グループ交代制で、客は部屋の壁伝いに並んでひたすら鑑賞。シェリーを注文し、ビデオを撮っていたら、1グループ目の三番目の年配のダンサーから制止されました。撮影はオーケーだったはずだし、別 な人間はフラッシュまで焚いていたのに何故? と思いつつもそこだけは遠慮して撮りませんでしたけど。後から振り返ると、指を鳴らすタイミングといい、揺るぎない決めのポーズといい、この年配の白い服のダンサーが一番見事だったように思う。それにしてももっと優雅で軽やかなイメージを持っていたのですが、フラメンコというのは思った以上にパワフルで激しいものでした。むしろカンフーを見ているかのよう。
 午後十一時、アルバイシンのサンニカラス展望台へ行き、夕方回ったアルハンブラの夜景を眺めてからホテルへ戻りました。 ……が、持っていた鍵で部屋へ入ろうとしたら入れない! なんと間違えて金庫の鍵を持ってきてしまっていたのであります。大ピンチ! 部屋の鍵は中のスイッチに差し込んだまま。近くの部屋のKさん夫妻の部屋の電話を貸してもらい、添乗員の佐藤さんの部屋にかけてみたけれど誰も出ない。(後から確認したら間違った番号に掛けていた…。)仕方がないので、フロントへ行って間違って部屋に鍵を置いてきてしまったと英語で話したところ、スペアの鍵をくれました。鍵を忘れた身としては、簡単にくれたのはありがたいのですが……ある意味防犯という意味では少々チェックが甘いような気が…


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